第二十一章 対向車の眩しさ・再び
最初に戻ってきたのは、匂いだった。消毒液の、ツンとした匂い。
次に、音だった。ピッ、ピッ、ピッ、と規則的な電子音。
目を開けるより先に、その匂いと音から、ここが病院だと俺は悟っていた。
まぶたが重かった。ゆっくり、目を開いた。白い天井。蛍光灯。壁の薄い緑色。
俺の左腕に、点滴の針が刺さっていた。右腕には、血圧計のカフが巻かれていた。
俺はぼんやりと、そのカフのロゴを眺めた。ロゴの形が、かすかな懐かしさを胸に呼び戻した。
日本だ、とようやく、頭の奥で思った。
「先生、患者さん、目、開けました!」
誰かの声が、病室の外でした。看護師らしき人が、病室に駆け込んできた。白衣の、若い女性だった。
「新庄さん、新庄さん、わかりますか」
「……あ、はい」
俺の声はかすれていた。唇が乾いていた。
「ご家族に連絡します。少し待っていてくださいね」
彼女は病室を出ていった。
俺はもう一度、天井を見た。蛍光灯のジジ、という微かな音。その音が懐かしかった。ティアナと初めて過ごした、修道院の暖炉のぱちり、という音とは違う音だった。
しばらくして、医者が入ってきた。
「新庄さん。ご気分は」
「あ、はい、頭が少し痛いです」
「左の肋骨にヒビが入っています。あと、肩を軽く脱臼されていました。全身、打撲」
「事故、ですか」
「ええ。雪の峠で対向車とすれ違う際にスリップして、ガードレールに衝突。配送車は、半分、谷に落ちかけていました」
「……」
「奇跡的に谷底まで落ちなかったので、命は助かりました。三日間、意識が戻りませんでした」
「三日……」
「事故から、ちょうど三日です」
俺は窓の方を見た。窓の向こうは、午後の薄い日差しが差していた。雪はない。そして、春でもなかった。冬の終わりの冷たい空気が、窓ガラスを軽く曇らせていた。
「会社の人が、何度も来てくれていますよ」
医者がふっと笑った。
「そうですか」
「ご家族は、明日、来られるそうです」
「ありがとうございます」
医者は簡単な診察を終えて、出ていった。
俺はしばらく、病室でひとりになった。
点滴の針の付け根を、ぼんやり見つめた。手を動かした。手は半透明ではなかった。しっかりとした肉と骨の感触だった。
俺はその手のひらを、じっと見た。ティアナの頬に最後に触れた指先。その感触は、まだうっすらと残っているような気がした。
夢、だったんだろうか。
でも、夢にしてはあまりにも精細だった。ガリア砦の酒の匂い。修道院の暖炉の火の音。ティアナの青い瞳。レオハルト殿下の銅色の瞳。ヴァロル砦長の無精髭。ロウ・ベルケンの頬の古傷。すべての人の顔と、声と、温度を、俺はありありと覚えていた。
ふと、ベッドの脇の小さな台の上に、ナースコールの押しボタンと、俺のいつものボールペンが置かれていた。俺はそのペンを手に取った。ペンの軸の感触が、手の中でしっくり来た。長く使い慣れたペンだった。
俺はベッドの脇の台の上のメモパッドを引き寄せた。そして、そのメモパッドの表紙の内側に、ペンを走らせた。
「○月○日。場所、市民病院。状況、事故から三日後、覚醒。意識、清明。痛み、左肋骨と肩」
いつもの点呼簿の書式で書いた。
書きながら、俺は思わず笑った。書く動作は日本のボールペンの感触で、でも、頭の中の書式は、異世界から持って帰ってきた書式だった。
いや、正確には、もともと日本で書いていた書式を、俺があちらに持っていって、国の財産にしてきた書式だった。
あの点呼簿の原本は今、ティアナの手の中にあるはずだ。
翌日。
ご家族、と医者が言った相手は、俺の遠縁のおばさんだった。俺の両親はすでに亡くなっていた。兄弟もいない。
おばさんは俺の顔を見て、涙をぬぐった。
「淳ちゃん、よかった、よかった」
「すみません、ご心配を」
「気にしなくていいの。あなたは、頑張ってきたんだから」
「いえ」
「あなたの会社の所長さんも、何度か来てくださってね」
「あ、すみません」
「あと、ちょっと変な話なんだけど」
「はい」
「あの、栗山さんっていう先輩、覚えてる?」
「……はい」
「あの方が、内部監査で解雇されたらしいの」
俺はペンを握り直した。
「内部監査、ですか」
「うん。なんでも、点呼の不正、とかで」
「点呼の、不正」
「あなたが事故に遭った日の点呼簿を、警察と運輸局の人が調べたんだって。そしたら、点呼の書式がおかしい、ってなって、過去五年分、全部調べたの」
「五年分」
「そしたらね、栗山さんの点呼簿、ほとんどがあなたの字で書かれていたって、分かったらしいの」
「……」
「警察の人がこう言ってたわ。『新庄さんが事故に遭わなかったら、たぶん、この不正は永遠に見つからなかった』って」
俺はしばらく黙った。
頭の奥で、異世界で最後にティアナと過ごした、あの数時間が戻ってきた。
「あなたといた毎日が、私の一生の宝です」
あの声と、今、おばさんから聞いている話が、不思議に重なった。
俺の毎日は、日本でも、ちゃんと誰かを救っていたらしい。
そう、今、ようやく、俺は知った。
おばさんはしばらく、俺の頭を撫でて、帰っていった。
その夕方、病室の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、所長と、その隣に、初めて見るスーツ姿の四十代の男だった。
「新庄、起きたか」
「所長、ご心配をおかけしました」
「いやいや、こちらこそ」
所長は、ベッドの脇のパイプ椅子に座った。
「こちら、本社の内部監査室、責任者の方だ」
「はじめまして、新庄さん。お加減、いかがですか」
「あ、はい、なんとか」
男は頭を下げた。
「事故の件、たいへんなことになって、お見舞い申し上げます」
「ありがとうございます」
「実は、お話を聞きたく、お邪魔しました」
「はい」
「事故後、運輸局の立ち入り検査が入りまして、過去五年分の点呼簿の内部監査を行いました」
「はい」
「その結果、栗山健太という人物の点呼が、ほとんど新庄さんの代行点呼だったことが、判明しました」
「あ……」
「同時に、新庄さんが副業として、栗山健太の業務報告書まで書かされていたことが、わかりました」
俺は息を止めた。
「副業、というか、まあ、強要、ですよね」
「……」
「新庄さんの業務記録ノート、というのが、ご自宅から見つかりました。あなたが毎晩、自分用に書いていたメモのノートです。そこに、五年分の栗山の強要の日付と内容が、すべて書かれていました」
「あの、ノートですか」
「はい。あれが決定的な証拠となりました」
「俺、見せたわけじゃ、ないんですけど」
「ええ。新庄さんが事故で意識を失っていらした間に、警察と運輸局の方が、ご自宅の捜索令状を取って、入手なさいました」
「……」
「ご了承、いただけますでしょうか」
「あ、はい。それは、もちろん」
男はもう一度、頭を下げた。
「結果、栗山健太を解雇処分といたしました。同時に運輸局より、彼に運送業界、永久追放の処分が下ります」
「永久追放……」
「彼は、いま、行方不明です。会社の寮をすでに引き払って、行方をくらませています」
「……」
「新庄さん」
「はい」
「会社として、五年間、新庄さんの貢献を適切に評価できていなかったこと、深くお詫び申し上げます」
彼は深々と頭を下げた。所長もその横で、深々と頭を下げた。
俺はしばらく、言葉が出なかった。
「あの」
「はい」
「俺の点呼簿、業務記録ノート、返してもらえますか」
「はい、もちろん。捜査資料の写しはあちらで保管されますが、原本は新庄さんにお返しします」
「ありがとうございます」
「もう一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「新庄さんは、なぜ五年間、これを誰にも訴えなかったんですか」
俺はベッドの脇のメモパッドを手に取った。表紙の内側に、いつもの書式で書きとめた今日の点呼簿があった。
「俺の書類が、いつか、誰かを救うかもしれない、と思って書いていました」
「……」
「ただ、その誰かが、自分のことだとは気づいていませんでした」
内部監査の男はしばらく黙った。彼の目の奥に、わずかな潤みが走った。彼はふっと笑って、もう一度、頭を下げた。
「新庄さん。あなたは、配送業界の宝です」
「いえ」
「会社として、あなたを配送員ではなく、本社の業務改善担当としてお迎えしたい、と思っています」
「いえ、あの」
「本社で、点呼制度の改善と、新人教育の責任者をお願いしたいです」
「あの、俺、現場が好きで」
「現場、ですか」
「現場で配送車に乗って、毎朝、点呼を取って、コンビニに納品して、店長とお話して、空き台車を回収する、その毎日が好きなんです」
所長と内部監査の男は、顔を見合わせた。彼らはしばらく黙って、それから所長が頷いた。
「分かった、新庄」
「はい」
「お前の希望、通りにする」
「すみません」
「ただし、給料は二段階、上げる」
「え、いえ」
「お前さんは五年間、栗山のぶんの給料をずっと稼ぎ続けていたようなものだ。今後、それをちゃんとお前さん自身の給料にする」
「……ありがとうございます」
「あと、ルートの組み方、新人教育で頼む。月に一回、本社に来て指導してくれ」
「はい」
俺は頷いた。
所長は立ち上がり、ベッドの脇に小さな紙袋を置いた。
「これ、お前さんの点呼簿と業務記録ノートの原本だ。返却した」
「ありがとうございます」
「あと、栗山がお前さんに押し付けていた補助業務、すべて停止だ。お前さんの業務量を、適正に戻す」
「はい」
「あと、ちょっと、これ」
所長は別の封筒を差し出した。
「あの、コンビニの店長さんたち、お前さんが事故で入院したと聞いて、十軒くらいの店長さんが、お見舞いの寄せ書きを書いてくれた」
俺は封筒を受け取った。
「あの、本当に、ありがたい」
「お前さんは、しっかり評価されてたんだぞ」
所長の声が、少ししわがれた。所長はまた、深々と頭を下げて、部屋を出ていった。
俺は封筒を開けた。中には白いコピー用紙が数枚、ホッチキスでとめられていた。そこには、いろんな字で寄せ書きが書かれていた。
「新庄くん、お疲れさま。早く戻ってきてね」
「いつも丁寧な納品、ありがとうございます」
「新庄さん、優しいから、うちの新人も安心して対応できる」
「新庄、お前さんがいないと、朝の納品が回らん、早く退院しろ」
「新庄さんの納品は、いつも棚の隙間まで考えてくれて、ありがたい」
俺はその寄せ書きを、しばらく、じっと見ていた。
最後の行に、いつもの夜勤明けの店長の字で、こう書かれていた。
「新庄くん、君の仕事は無駄じゃないからな。ちゃんと、見てる人は、見てるからな」
俺はふと、窓の方を見た。窓の向こう、冬の終わりの、冷たく薄い夕日が差し込んでいた。その夕日が俺の目に、じわっ、と滲んだ。涙がひとつ、頬を流れた。
俺はペンを握り直した。メモパッドの表紙の内側に、もう一行、書き加えた。
「異常、なし」
ペンを置いた。
窓の外の夕日の中で、うっすらと、雪が舞い始めていた。
でも、今度の雪は、もう冷たくはなかった。




