第十三章 完全なる喪失
北方への馬車は、五日かかった。
馬車にはレオハルトの別働隊の騎士が二人、ついた。彼らは無口で、信頼できる男たちだった。
道中、村も町も、ほとんど通らなかった。
俺は馬車の中で、毛布にくるまっていた。
窓の外を、白くなだらかな雪原が流れ、それから徐々に、険しい岩肌の山が増えていった。
夜は馬車の中で過ごした。冷えた。息が白く立ち上った。
保冷ボックスの中身は、すでにすべて消費していた。乾パンと塩漬け肉と水袋だけが、残されていた。
俺は点呼簿を開いて、毎日、書き続けた。
「○月○日。北方移送、二日目。気温、低下。馬の状態、良好。霧、軽度」
「○月○日。北方移送、四日目。山脈、近づく。鳥の鳴き声、減少」
書きながら、俺は何度もティアナの最後の唇の動きを思い出していた。
五日目の夕方。
馬車が止まった。
外に出ると、目の前に、崩れかけた灰色の修道院が立っていた。石組みの四階建て。屋根の半分はすでに朽ちて、抜け落ちていた。窓は、ほとんどがガラスを失っていた。
北方の雪と風に長く晒されてきた、放棄された神の家だった。
騎士の一人が、
「ここが、廃修道院ヴェルナです」
と低く言った。
「中、入れますか」
「南棟だけ、最低限、補修してあります。入れます」
俺は騎士の後について、修道院の南棟に入った。
南棟は、本当に最低限の整備がされていた。石壁の隙間が布で塞がれ、暖炉が修復され、寝台と机と椅子が置かれ、食料の樽がひと月ぶんほど積まれていた。毛布、薪、ろうそく、油。ぎりぎり、生き延びるための必需品。
騎士は、
「我々は明朝、戻ります。シンジョウ殿、お一人でここに留まっていただきます」
「分かりました」
「殿下より伝言があります」
「はい」
「『冤罪を晴らすまで、必ず生きていろ』、と」
「分かりました」
騎士は頷いて、外に出た。
扉が閉じる、ぎい、という音が、修道院の中に長く、長く響いた。
翌朝、馬車は去っていった。
俺は修道院の南棟の入口で、それを見送った。馬の蹄の音が遠ざかり、やがて完全に消えた。
風だけが残った。北方の風は、低く唸っていた。石壁の隙間から、時々、それは悲鳴のようにも聞こえた。
俺は暖炉に火を入れた。火打ち石は慣れていなかった。何度も空振りした。ようやく薪に火が移った時、俺はその火を長い間、ただ見ていた。ぱちり、ぱちり、と薪が爆ぜた。
日本でのある夜が、頭の中に戻ってきた。
ワンルームのアパート。机の上の業務記録ノート。
「俺の毎日って、何のためにあるんだろう」
あの夜の自分の声が、今、北方の廃修道院の暖炉の前で、もう一度、俺の中で響いていた。
二日が過ぎた。
俺は修道院の中を、ぐるぐる歩いた。外には出なかった。出る勇気がなかった。
雪は降ったり止んだりを繰り返した。
食料を量って、ひと月分ぎりぎり保つように配分した。暖炉の薪を節約した。水は修道院の敷地内の井戸から汲んだ。
点呼簿に毎日、書いた。書くことしか、することがなかった。
三日目の夜。
俺は暖炉の前で、点呼簿を最初のページからゆっくりと読み返した。
日本で書いた最後のページ。
「五号店、裏口の電球、点滅」
異世界に来た日。
「○月○日。場所、不明。状況、不明」
ティアナと出会った日。
「シンジョウ・ジュン、聖女に信用される」
補給路を引いた日。
「七本のルート、提案。四本、運用可能と判定」
カゴ台車を作った日。
「親方、五十二歳、悲鳴」
ガリア砦の点呼の日。
「砦長ヴァロル・ハーズ、五十手前、震える文字で署名」
戦勝祭の夜。
「クリヤマ、補給路総監督」
毎日、毎日、俺は書いていた。
ふと、俺の指がある一ページで止まった。ふた月前のページ。
「ガリア砦東方の廃村ザール、過去三ヶ月で三度、魔物の襲撃あり。襲撃の前後に、不審な人馬の足跡」
俺はその文字を、長い間、見ていた。
暖炉の火がぱちり、と爆ぜた。その音が、俺の頭の奥底で、何かを弾いた。
俺は点呼簿をめくり直した。遡って、遡って、もう一度、最初から。
書き留めたメモのすべてを、時系列でじっと見た。すると、頭の中である模様が浮かび上がってきた。
勇者クリヤマ・グレントが「魔物を討伐した」と王宮で報告した日付。そして、その前後一週間以内に、ある補給隊が異常なルートを通っていた、その記録。
「補給隊B、本来のルートを外れる」
「補給隊D、予定外の夜間進軍」
「補給隊F、十樽、行方不明」
それらの記録の全部が、ある一点に収束していた。
「廃村、ザール」
ザールに、誰かが継続的に物資を運び込んでいた。そして、その物資が運ばれた直後に、近くの別の村が、
「魔物に襲撃される」のだ。
そして、その襲撃を、
「勇者クリヤマ・グレント、討伐」
しているのだ。
ザールに貯められた物資は誰のものなのか。誰かが何かに貢いでいるのだ。それが誰の何のためか。
俺はペンを強く握りしめた。
答えは、たった一つしかなかった。
勇者クリヤマ・グレントは、魔物を倒しているのではなく、魔物に貢いでいる。そして貢ぎ先の魔物に、どこを襲わせるかを指示している。襲撃の日時と場所を知っているからこそ、彼は、
「絶妙のタイミングで」
現れて、
「絶妙に、被害が出た直後に」
倒すことができるのだ。
マッチポンプ。
日本で、栗山さんが配送先の店舗でわざとトラブルを起こして、それを自分が解決したふりをする、あの手口の巨大な版だった。
俺は息を吐いた。息が白かった。暖炉の火が、また爆ぜた。
ふと、俺の視界がゆがんだ。頬に何か冷たいものが流れた。それは涙だった。怒りではなかった。怖さでもなかった。ただ、申し訳なさだった。
もっと早く気づくべきだった。俺の点呼簿に全部書いてあったのに、俺は毎日、毎日、書きながら、その模様に気づかなかった。
そして、もう一つ、俺は気づいた。
日本でも俺は毎日、書きながら、栗山さんの不正の模様に気づかなかったのだ。
毎晩、ワンルームの机で業務記録ノートに書きつけていた、栗山さんの代行点呼の回数、書類の押し付けの回数、シフトの嫌がらせの回数。全部、書いてあった。全部、点として散らばっていた。
俺はただ書くことだけで精一杯だった。書いた点と点を線で繋ぐ余裕も、誰かに見せる勇気もなかった。点が線になる瞬間を、俺は五年間、逃し続けていた。
異世界では、誰かがそれを線にする手を貸してくれた。ティアナの見抜く瞳が。レオハルトの聡明な頭が。ヴァロル砦長の踏み出す勇気が。それでようやく、俺の書いてきた点が線になった。
俺はペンを握り直して、ノートに書いた。
「廃村ザール、勇者クリヤマと魔物の結託拠点。マッチポンプ。証拠、過去三ヶ月の点呼簿の記録」
書いて、ペンを置いた。
暖炉の火が、今度はまっすぐに燃え上がった。俺はその火を見ながら、ようやく立ち上がった。




