第十二章 信頼の崩壊
翌朝、謁見の間に、俺は立っていた。
王と、第一王子アルカドと、宰相と、大司教と、勇者クリヤマ・グレントが並んでいた。
レオハルトはいなかった。昨日の夕方、レオハルトは急遽、北方の砦への視察を命じられて、王都を離れていた。明らかに、誰かが彼をここから遠ざけた。
ティアナが貴族席の最前列に座っていた。彼女の白い顔が固かった。
「シンジョウ・ジュン卿」
宰相の低い声が、謁見の間に響いた。
「リエル村に毒を含む塩漬け肉を運んだ罪で、貴公を告発する」
謁見の間の貴族たちがざわついた。
俺は俯いていた。
目の前に書類が提示された。そこには確かに、俺のサインが入っていた。巧妙な偽造だった。日本で五年間、栗山さんが俺の字を何度も、何度も模写してきた、その技術の集大成だった。
「卿のサインで、間違いないか」
「俺の字ではあります」
俺は低く答えた。
「けれど、俺が書いたものではありません」
「では、誰が書いたのか」
「分かりません」
大広間がざわめいた。誰かが笑った。
「分からないのか、それは見苦しい言い訳だ」
「神に誓って、俺は毒の運搬を命じていません」
「神に誓ってか」
第一王子アルカドが、わざとらしく首を傾けた。
「卿は異邦人だろう。我が国の神を知っているのか」
「知ろうと努力しています」
アルカドはふっと笑った。
「努力中の異邦人の、神への誓いに、どれほどの価値があるかね」
貴族席が笑った。冷たい嘲笑だった。
俺は唇を噛んだ。
その時、勇者クリヤマ・グレントが進み出た。
彼は深い、悲しげな表情を作って、俺の前に立った。
「殿下」
彼は玉座に向かって礼をした。
「私は、信じたくありません」
彼の声は震えていた。たぶん、本人としては感動的な演技のつもりだった。
「シンジョウ卿は、私の補給路改革の最大の協力者でした。同じ志を持って、王国の飢餓と戦ってきました」
そう言った。
俺は内心、笑いそうになった。
最大の協力者。補給路を引いたのは、俺だ。
「けれど、書類は嘘をつきません。私は……心が痛みます」
彼は目を伏せた。
ティアナが貴族席で、ぐっと両手を握りしめた。彼女の唇が震えていた。
「殿下、お願いがあります」
クリヤマは言った。
「シンジョウ卿に温情ある処分を、お与えください。彼は確かに、我が国に貢献を果たしました」
「……」
「しかし、この罪は見過ごせません。流刑では、いかがでしょう。北方の廃修道院への永久流刑」
謁見の間が静まった。
永久流刑。名誉刑のようでいて、実際には雪深い北方でひとり、餓死を待つ、ということだった。
王はしばらく、沈黙していた。
大司教が立ち上がり、
「神の慈悲を示すべき時かと」
と言った。
王は頷いた。
「では、その判決とする」
俺は頭を下げた。反論はしなかった。反論しても、意味がないことを俺はすでに知っていた。日本で五年間、栗山さんに噛みつかれ続けた経験から、俺は知っていた。反論は、彼の怒りを増やすだけだ、と。
謁見の間を出るとき、俺はティアナの目の前を通り過ぎた。
彼女は立ち上がろうとして、横に立っていた女官に肩を押さえられた。
俺はふと立ち止まり、彼女の方を見た。ティアナの瞳が潤んでいた。
俺はできる限り穏やかな顔を作った。そして、彼女に向かって、ゆっくりと頷いた。
ありがとう、という意味だった。大丈夫、という意味だった。また会いましょう、という意味でも、あった。
ティアナは声を出さず、唇だけで「ジュン様」と形を作った。
俺はそれ以上、振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、歩けなくなる。
その夜。
俺は王宮の地下牢に入れられていた。
石の床。鉄格子。獣脂のろうそくが一本。
地下牢は王宮の北棟のいちばん下、地下三階にあった。石の階段を降りるとき、空気がひと段ずつ湿っていった。最後の踊り場で、足を踏み外しそうになった。先導していた衛兵が咳をひとつして、俺の肘を軽く押さえてくれた。「気をつけろ」と彼は低く言った。意外なほど、優しい声だった。彼はたぶん、俺を本気で悪人だとは思っていない。そう感じた。
地下牢の扉が閉まる、ぎい、という音が、石の廊下に長く響いた。その音の最後が消える瞬間に、俺はようやく膝をついた。膝が限界に達していたことに、今、ようやく気づいた。
石の床の冷たさが、ひざがしらから骨の奥まで染みた。日本のワンルームのアパートのフローリングよりも、ずっと冷たかった。日本の冷たさは空気の冷たさだった。ここの冷たさは石の冷たさだった。石は、長い時間を冷やしてきたものの冷たさだった。
俺はその冷たさにひざがしらを預けたまま、しばらく動かなかった。
その明かりの下で、俺は点呼簿の最後のページに、
「○月○日。冤罪、判決確定。北方廃修道院への永久流刑。所持品、点呼簿、業務記録、保冷ボックス、衣服一式」
と書いた。
書きながら、ふと、ペンが止まった。
「リエル村の村人四十人、原因不明の腹痛」
その文字に戻る。
待て、と、俺の頭の中で何かが囁いた。
原因不明の腹痛。毒でなくても、出る症状だ。
冬の長距離輸送の塩漬け肉。
もしかして、と俺はペンを握り直した。冷蔵チェーンが入っていない、旧式の補給隊で運ばれた可能性が高かった。
そして、その編成変更をしたのは、勇者クリヤマ・グレントだった。
毒ではなく、冷蔵チェーンの欠如だ。彼はわざと、補給隊から氷の魔石を抜いて、長距離を運ばせた。肉は緩やかに腐敗した。
それを村人に食べさせ、
「毒だ」
と騒ぎ立てた。
日本での栗山さんの手口に、寒気がするほどよく似ていた。彼は人を騙すために、わざと品質管理を下げる人間だった。
日本ではそれがせいぜい、店長への嫌がらせだった。
ここでは、それが人の命に関わるのだ。
俺は点呼簿にそれを書き加えた。
「冷蔵チェーン未投入の可能性。腐敗による食中毒。クリヤマ手配の補給隊」
書き終えて、ペンを置いた。
地下牢の獣脂ろうそくが、ぼんやり揺れていた。
俺の息が白かった。
深夜。
地下牢の扉が軋んだ。
現れたのは、黒い外套を被ったレオハルト第二王子だった。
「シンジョウ殿」
「殿下」
「夜のうちに、君を出す」
レオハルトの声は低く、しかし確固としていた。
「北方の修道院に行ってもらう。だが、それは流刑ではない」
「は」
「廃修道院は、私の別働隊が密かに整備した隠れ家だ」
「……」
「君の汚名を晴らすまでの隠れ場所として、使ってほしい」
俺は頷いた。
レオハルトは地下牢の鉄格子を開けた。
俺の手元に、点呼簿と業務記録ノートと、それから保冷ボックスを押しつけた。
「持っていけ」
「殿下」
「君のサインを偽造した者は、必ず、私が暴く」
「分かりました」
「だが、それまで、生きていてくれ」
彼の声が震えていた。
俺はレオハルトの目を見た。彼の銅色の瞳の奥に、強い決意の光があった。
「殿下、ティアナ様に伝えてください」
「何を」
「俺は生きて戻る、と」
レオハルトは頷いた。
扉を開け、俺は夜の王宮の裏門を抜けた。
雪が、舞っていた。




