8. それは舞台裏でのできごとだった
父の葬式を済ませると、部屋に入り荷物を整理していた。
とはいってもほとんど荷物はない。
あるのは一冊の日記帳。
几帳面な父らしく、細いペン先できっちりと文字が揃えられていた。
男爵様の屋敷で使用人として長年働き続け、その真面目な仕事ぶりは旦那様からも評価が高かった。
しかし趣味といえるものはほとんど持たず、ときおり酒杯を傾けることぐらいであった。そんな父がどんなことを考えていたのかが、この日記帳に残されているかもしれない。
一番新しいページの日付は父が亡くなる直前であった。
時間をさかのぼっていくと、日々の仕事内容のメモ帳代わりに使われているようだった。
自身の信仰や人生の悩みに関するものはかかれていなかったが、ときおりその感情を見せるか箇所もあった。
私に関してのことが多く、口うるさい父であったが結構な子煩悩であったらしい。
知らなかった父の一面を見て、微笑ましい気持ちでゆっくりと一枚一枚ページをめくっていった。
そうして、父の若い頃までさかのぼっていくと、事務的な文章の中にポツリと女性の華やかな名前が現れた。
『アリシア』と書かれていた。
母の名前ではない。
あの堅物の父が女性の名前を書くなど、これはと淡い期待を抱いた。
勢い込んでページをはぐっていくが、そこから前の日記には女性の名前が一つも現れることがなかった。
最後のページをめくると、安心と失望の気持ちで日記帳を閉じた。やはり、あの父が恋などと似合わぬ妄想をしたものだとおかしい心持ちになった。
母とのことも、いつまでも結婚しようとしない父を男爵様が世話したものらしい。
荷物の整理を続けていると机の引き出しの一番奥から一通の封書を見つけた。
きっちりと蜜蝋で閉じられたそれは、ひとめでわかるほどに質の良い紙が使用されていた。男爵である旦那様が普段お使いになるものよりも上等である。
シワひとつつかないように丁寧にしまわれていたそれを、好奇心にかられるまま開いてみた。
そこにはただ短く
『返すわね。直接渡せなかったのは残念だけど』
とだけ書かれていた。その文面からは恋文らしい感じを読み取ることはできない。
二人がどんな間柄にあったのか思いを馳せていると、 封書の中に重さが残っていることに気がつく。逆さにすると手の平に銀色の光が転がりでた。
銀のカフスボタンだった。
まじまじとカフスボタンを見てみるが、さほど高級なものには見えなかった。
この品に何か秘密があるのかと、もう一度封書を調べてみる。差出人の名前を見た途端に、思わず驚きの声を小さくあげてしまった。
―――『アリシア』より
日記に出てきた名前であった。
封書を改めて観察し、蜜蝋の印を確かめたところでさらに驚くこととなった。それが王家の紋章であったのだから。
聞いたことがあった。この男爵家より王家に嫁いだものがいると―――その令嬢の名前も『アリシア』であった。
彼女についての噂はおもしろいほどに二つに別れている。
『分不相応な婚約のために、王太子をたぶらかし婚約者の座を奪い取った女。その行動は国を治め、国民を守る王族としての意識はカケラもない』
一方では彼女の行動は民衆をおもしろがらせた。
『一国の王妃とは思えない破天荒ぶりで、不意打ち、悪巧み、打算ずくの人助け。彼女によって王宮内部は大きく変化した』
彼女の奇矯ぶりを示すものとして、男物のカフスボタンを身につけていたとも聞いたことがあった。
たしか王妃殿下がなくなったのは1年前。あの日の父はいつになく無口だった。
手紙の日付はその数日前のものとなっている。
彼女がどんな理由で送ってきたか。
父がどんな気持ちでこの手紙をうけとったか。
二人の間でどんな約束が交わされていたか。
舞台裏でのできごとを知るものはもうだれもいない。