6 師匠と弟子
木造船の最深部、動力炉の釜をはさんで僕とアキムさんは緊迫した面持ちで向かい合っていた。時折、細かな振動が船体を駆け巡る。幸い巨大な障害物ではないようだが、0と1の形をした光の粒が船に衝突しているようだ。回避するために作られた魔法の仕掛けが機能していない。
アキムさんの顔は疲れ果てた絶望のまなざしが支配していた。僕が忌み嫌う目つきは6年前の雨の日にレッドベース邸にて初めて見せた後、影の王と決着をつけるまで二度と現れることはなかった。
巨大な宿敵を倒してもなお、自分たちの住む世界を壊そうとする何者かの意思は消えることがなかった。そして、魔法暦70年以前に生まれた人間に対してのみ猛毒となる黒い水が辺境の湖からあふれ始めたとき、再びアキムさんの顔に深い失望のまなざしが現れるようになった。
レッドベース魔法研究士の手記にあった内容――。魔法暦70年、今から32年前にレジスタ共和国の「時間」が始まったのではないか、という仮説は時が経つにつれて確証を得るようになった。けれど、アキムさんは口外を禁じ、現時点では彼と僕しか事実を知らないように努めてきた。
樹木の切断面に現れる奇妙な年輪に対して僕たちは、「植物とはこういうものだ」と当たり前のように語ってきた。影の王との決戦前に国中で進められた土木工事に携わっていたときも周囲から尋ねられるたび、何度も嘘をついてきた。
レジスタ共和国が滅び、方舟に十万人以上を格納し出航してからも秘密は漏れなかった。けれど、僕は不用意にも別の事実に気づかなかった。大多数の人間を安住の地まで運ぶ木造船を動かすには、案山子と呼ばれる人たちの魔法力を釜で煮詰めて費やさなくてはならない。アキムさんだけがすべての真相を知り、ひとりで皆の運命を背負ってきた。
重い十字架を背負って孤独に戦い続ける心境とはどんなものだろうか。結局、彼が追い詰められている事実に気づくことは出来なかった。僕にとってアキムさんは師匠のような存在だ。弟子として師匠を窮地から救わねばならない。だから、こうして船の緊急事態であるにも関わらず、動力炉をはさんで対峙している。
先に口を開いたのは師匠の方だった。
「カウル……、ジョースタック先生の身体と魔法力を燃料にするつもりはない。人間の姿に解凍して寝かせてあるのは、今一度確かめるためだ」
煮えたぎる動力炉の釜から大量の湯気が立ち昇っている。アキムさんはゆっくり僕の目の前で横たわるジョースタック元魔法研究所長の身体に近づいた。老魔法士は魔法研究所のローブを着ている点は以前と変わらないが、肌は青白く陶器のような質感で、冷たく光を反射している。
まるで人形だ。生命が宿っている印象は微塵にも感じられない。
「アキムさん……、魔法力の高い人間を動力炉の釜へ入れないことには方舟自体が修復不可能な損害を被ります。命の無くなった者はたとえ老先生であろうと、残された人間のため務めを果たすべきです」
触れれば届く距離にいる師匠に向かって現状を語った。
「……言い切れないだろう」
ぼそっとアキムさんの口元が動いた。表情に焦燥感がみなぎっていた。
「……死んでいるとは言い切れないだろう! 案山子という呼称を用いているが、木造船出航の日までは人間だったんだ。元通りに治す術だっていずれ見つかるかもしれない。まだ死んだと決まったわけではない。それなのに私は今日まで既に352人を釜に入れて煮つめて命を奪ってしまった。いずれ影の王以上の殺戮者となるだろうよ」
……そんなことはないはずだ。
「僕だってジョースタック老先生が別行動で案山子の運命について研究していたこと、プレイヤーと呼ばれる人間のように長くは生きられないことを聞いています。黒い水に触れずとも、レジスタ共和国崩壊の日が近づくにつれて何人も肌が陶器のように青白く、固まってしまう現象は増え続けた……。それを回避する手段はないこと、死への避けられぬ運命であること、老先生がおっしゃったんです!」
アキムさんは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「そうか、先生から聞いていたのか……。先生はよく研究し続けた。自分の命を否定する結論を出すなど並大抵な精神力ではできない」
踵を軸に身体を半回転させて釜の方を向いた。
「カウル……、そこまで知っているのなら、もう教えることはない。十分に仕事を引き継げる立派な魔法士になった。私は尊敬する先生を釜に入れることはできない。恩を仇で返さずとも、魔法力の高い人間ならここにもいる。罪深い魔法士だ。生きたまま釜に入るとどうなるか、良い実験台だ。よく見て置けよ――」
アキムさんが湯気の前で両脚に力を入れた。次の瞬間、目の前が真っ暗になった。釜の煮えたぎる音だけが続いていた……。
気づくとアキムさんは、釜の外で胸を押さえて倒れていた。僕はとっさに頭から体当たりしていた。長く咳き込む声が聞こえる。僕は両手を床についた体勢のまま、暴挙を阻止した自分の行為を内心で褒め称えた。だが、絶望の淵にいる者へかける言葉など見当たらない。湯気の昇る大釜のそばでアキムさんより先に立ち上がって反応を待った。
「カウル……ごほっ、私は影の王打倒を含め、十分に力を尽くしたつもりだ。もう肩の荷を下ろして命を奪ってきた罪を償っても良いはずだ。わかるだろう?」
声をしぼり出しながら立ち上がる師匠に向けて、僕は頭の中に沸いた言葉をそのままぶつけた。
「自分勝手なこと言わないでください。僕だって嫌だ! こんな薄暗い場所で壷に入った元人間の液体を釜に注ぎ込む作業なんて、とても1人じゃ続けられません。引き継げるわけないですよ。あなたが飛び込むっていうんなら、僕も後を追って動力の一部になりますよ! そうなったらどうなると思います? 残るのは……ティータさんだけです。あの人は魔法弾を撃つことはできないんでしょう? 壷を『解凍』することだってできない。そうなったら船も魔法士たちも皆、終わりだ……」
厳しい視線が叩きつけられた。当たり前だ。今、口から出た言葉は脅し文句だ。対象にはアキムさんの家族も含まれる。卑怯な駆け引きだということはわかる。……だが、知ったことか。師匠とはいえ、自分のことしか考えていない。家族は僕にもいる。親兄弟もいる。命を守る義務がある。
思わずはっとなった。先刻見た光景が頭の中で混ざり合い、ひとつの結論を導き出した。老先生の横に置いてある3つの壷。ひとつは本人のものだ。あとふたつは誰のものか……?
ミヤザワ村の棚から無くなっていた2つ分の空きを思い出した。アキムさんの弟の左側に置いてあるはずの壷は消えていた。
「アキムさん、この壷はもしかして――」
「……その通り、さすがカウルだ。実は今日、故郷の父と母を釜に入れたんだ」
再び船をこすりつける大きな振動が足元を駆け抜けていった。話はいったん途切れた。
「アキムさん、なんとなく解りました。ジョースタック老先生を解凍したまま放置していた理由も――」
推察などではない。苦痛に満ちた心境が肌を通して伝わってきた。
「……ただ、僕が動力炉を扱う前にあなたにはまだ聞かなくてはならないことがある。アキムさんも話さなくてはならないでしょう。そして今、船を守るにはジョースタック老先生の魔法力が必要だ。もう、圧縮などしている暇はない。船の命を永らえさせるために協力してもらいますよ」
師匠の顔をにらみつけた。時間がないという意図は明確に伝わったようだ。事故が起こったらすべての命が失われてしまう。アキムさんも状況を理解したのだろう。僕たち2人は同時に動き始めた。僕がジョースタック老先生の頭、アキムさんが脚を持ち上げ、陶器のように固まった身体を持ち上げた。
人間の身体というより細長いひとつの塊だ。頭からつま先まで関節が存在しない、文字通り「案山子」を運んでいるような気分だ。
「……カウル、生身の人間を釜に入れるのは初めてだ。大釜も身の丈ほど底が深いわけではない。瞬時に肉体は朽ち果てると思うが、できれば頭部を下に向けたい。顔面が崩れていく様だけは見たくない」
強いられた行動と比べて、余りにささやかな願いを受け取った。僕は何も言わずうなずくだけだった。
元魔法研究所長は老人とはいえ、高身長の体躯だ。釜に向けて頭部を下げる作業は肉体を酷使した。幅2メートルの釜の口から発せられる湯気が僕の額を包み込み、汗を噴き出させる。油断したら僕まで落下してしまいそうだ。
アキムさんが一緒に飛び込むのではないか……己の身の危険だけでなく、協力して重労働する相方の命にまで気を配っている自分が何だか可哀そうに思えてきた。自己愛の強い性格ではないと思うが、筋肉から上がる悲鳴に泣き言が漏れそうだった。
ジョースタック老先生の身体は、釜の中で煮えたぎる液体に吸い込まれると、アキムさんと僕に支えられながら徐々に身体から脚元まで水面の下へ姿を消していった。巨大な釜はジョースタック先生の硬直した身体を縦に放り込んでも、足首以外のすべての部位が液体の中に沈んだ。
間髪入れずにアキムさんは釜の横に付属されたレバーを引く。釜の出力が上がり、おそらく1分につき通常の8倍……8千個もの魔法力を船内に供給するのだろう。
アキムさんが先ほど言った意味がわかった。水面から姿を覗かせる老先生の足首は青白い色から急激に赤く変色し、表面から溶け始めた。生き物というより何かロウ細工が崩れているようだ。
釜の中が7色に輝き、動力炉に生命が宿ったかのように一層激しく内部の液体を泡立たせる。
ドゥン……、ドゥン……、ヂヂヂヂヂッ!
船内に響く心臓の鼓動が大きくなる。今日まで木造船全体に絶えず反響していた力強い駆動音が復活した。木の軋む音が遠くで聞こえ、障害物に当たったときとは異なる振動が船中に流れていく。
「……船外の櫂が動き始めるにはもう少し時間がかかるかもしれない」
アキムさんが片ひざをつき、釜の中を覗き込んで呟いた。木造船は息を吹き返した。衝突事故の危険を解消しただけでなく、船の後ろから引っ張って資源を運んでいる網にも形状を維持させる魔法力が注がれるはずだ。目の前の危機を回避し、僕たちは何とか急場をしのいだ。けれど、問題はまだ解決していない。アキムさんの表情は険しく、溶けて無くなったジョースタック老先生の足首があった辺りを見つめていた。
「先生……すみません。ジョースタック先生……」
涙ぐんでいるようだった。僕にとってアキムさんが師匠であるように、アキムさんにとってジョースタック元魔法研究所長もまた師匠であったのかもしれない。僕は立ったまま振り返り、背後に置いてある3つ並んだ壷を眺めた。
「アキムさん……今日、唐突に船の問題が起こった理由はこれでしょう。今までひとりで続けてこられた、動力炉に液体を注ぎ込む作業……僕には心中を理解することすらできませんが、つらい仕事を中断してしまったのは……ご両親を動力炉に入れた罪悪感に追い詰められたからですね」
アキムさんは立ち上がり、視線の高さを僕と合わせた。目は赤く充血しているが、涙の跡は見えない。
「……カウルの言うとおりだ。勘が鋭くて助かった。今まで自分と関係のない人間を燃料としていたときは罪悪感など無かったのに、自分の親を同じ目に遭わせた途端、良心の呵責に耐えられなくなった。『アキムの方舟』が聞いて呆れる。私に皆を導く資格などない。所詮、自分だけが大事な偽善者なんだよ」
視線が大釜の中心に向けられた。まだ7色に輝き続けている。
「最初は年の多い者から順に選んでいたんだ。厳密に考えれば、その方法だって平等とは言えない酷いものだ。私はいずれ魔法士たちの親兄弟を犠牲にしなくてはならないことを考慮して、まず自分の家族で試した」
アキムさんの目が大きく見開いた。
「……地獄だったよ。生きながら地獄に落ちたようだった。青白く人形のようになってしまった身体とはいえ、今後どうなるかわからない。命の可能性を奪ったんだ。その時、自分が積み重ねてきた罪の重さを初めて実感した」
かける言葉がなかった。どこかで、自分の親はまだ無事なのだろうという希望が沸いてくることがむしろ申し訳ない。アキムさんは続けた。
「私は自分の罪を問うため、ジョースタック先生を液体の状態から起こした。決して燃料にするつもりなどではない。教えを乞い、私が間違っていれば叱って欲しかった。だが、先生は何も答えてはくれなかった……」
僕が何か言わなければ、アキムさんは自分の命で彼が「罪」と決めたものを償おうとするだろう。ようやく言葉が見つかった。
「アキムさんがやらなければ、レジスタ共和国から逃げ延びた者たちは全滅していました。心が痛むのはわかりますが、間違ってはいないはずです! 問題はひとりで抱え込んでしまったことではないでしょうか。僕で役不足なら、ご友人を壷から解凍して相談しましょう。ジョースタック老先生ばかりじゃないはずです。セグさん……仲の良い方だって他にいるじゃないですか!」
「……セグか。あいつもバカな奴だ。人のことを異端者だの愚かだのと好き放題に言っておきながら、同い年だと嘘をついていたんだぞ。対等に付き合いたいからだと……。木造船の建造途中に何気なく打ち明けられたことがどれだけ私にとって重かったか……。カウルも見てみるか? あいつも他の案山子と同じく青白い顔で壷の中に漂っている! 本当にバカな奴だ」
アキムさんはじっと僕ではなく横にある虚空をみつめていた。逆効果だった。そして絶望の目……何もかも諦めて運命を受け入れようとする嫌なまなざしに変わっていた。
「アキムさ――」
「悪いな……カウル。先ほどは一度助けてもらっておきながら、やはり命を釜に溶かしてもらう。阻止したければまた突き飛ばせばいい。……だが、いささか疲れた。おまえに言っておくことはひとつ。決して自分の家族は動力炉の釜に入れないことだ。それさえ守れば、私より長く務められるだろう」
家族か……。結局自分には師匠を止めることはできない。無念だ……。なぜ僕たちはこんなに苦しまなければならないのか。影の王を作り出し、打倒した後もレジスタ共和国を崩壊させた「神」には慈悲というものが全くない。むしろ悪魔の仕業だろうか。僕は拳を強く握り締めた。
「……カウル、世話になった。ありがとう」
アキムさんはゆっくりと煮えたぎる釜の前まで歩いていく。最後に祈りを捧げるためか天井を仰いだ――。その時だった。
「ちょっと、アキムっ! 助けてよ!」
動力室と上階をつなぐ梯子。その真ん中あたりでティータさんがバランスを崩して動けなくなっている姿があった。




