1 レジスタ共和国の最期
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突然それは起こった。快晴だったはずの大空が真っ二つに割れた。広大な蒼穹の中央に白い1本の線が生じ、瞬く間に距離を伸ばすと天球の両側まで達した。ひと目では長い雲ができたかに思える天候の変化は、直後に周囲から正反対の墨色がにじみ出て単純な気象変動ではないと証明した。
雷鳴の如き金切り音が天地をこだまする。レジスタ共和国という山に囲まれた小国は、天上を北東から南西へモノトーンの直線によって切り裂かれた。
国中で人影がちらほら反応したが、悲鳴もどよめきも聞こえない。そもそも野外にいる人間の気配が極めて少ない。
レジスタ共和国に住む人間……彼らのほとんどは一箇所に集まっていた。国の中央に位置する首都コア北部の閑静な牧草地域、仰々しく置かれた一艘の巨大な木造船に10万を超える人間が乗り込んでいた。
木造船の大きさは旧レジスタ城、現魔法研究所より一回り小さい。巨大船に違いないが街ひとつとは比較にならない。魔法の力で木造船に詰め込まれた10万人以上の国民は全く姿を見せなかった。代わりに魔法士のローブを着た者が数名、木造船の甲板を端から端までせわしなく奔走していた。
時を置くことなく別の変化が生じる。はるか北西の国境沿いに黒い水をたたえていたスカジ湖があふれ、闇が広がるように周囲を呑み込み始めた。たちまち湖の面積は4倍ほどになった。光の粒が黒い湖水に垣間見られるが、闇の速度は風を凌駕する。距離の近い村はすべて跡形も残らず姿を消した。
首都コアの北では巨大な木造船が乾いた地面に錨を下ろした。地表に突き刺さった鉄の爪は無意味に映る。けれど、魔法士たちは皆、真剣な面持ちで船の多様な装置を起動させていた。
木造船に帆はない。太古のガレー船を思わせる船体は、両側に30本ずつ木製の櫂を持つ。そして船には尾のように伸びる黒い網が10本続き、黒い岩石が大量に包まれていた。岩石の正体は固形化された石油である。
空を2つに割るモノトーンの亀裂は徐々に横幅が勢力を広げ、白い枠からあふれた漆黒が天上を覆った。数刻前まで昼だった世界は、黄昏を通さず直接闇夜へと変わっていった。
メリメリッ……バリバリバリバリバリッ!
落雷を受けた樹木の裂けるような音が大地と空を震わす。ヒビが入り、派手に切り裂かれたのは地面そのものだった。レジスタ共和国の大地がまるでガラス板の欠片のように容易く砕かれようとしている。堅い土地や岩山も力尽きるように無数の亀裂に囲まれ端から破片となっていく。
裂けた場所からは、スカジ湖からあふれた黒い水と同色の液体が噴水のように飛び出した。方々から発生する濃墨によって、割れた地面もろとも底からせり上がる闇に呑み込まれそうになる。
暗黒の夜が深まる中、大地の亀裂に生じた闇の奥から一斉に光る粒が現れる。以前から事件の兆候の如く漂っていたもの。月や満天の星とは異なる発光体……。不思議なことに数字の0と1を象っていた。天上の漆黒にも星々を思わせるように光の粒が大量に発生し始める。至る方向から発せられる光に今度は国中が昼のように照らされた。
首都コアの中心に位置する魔法研究所では、オースと呼ばれる浅黒い肌をした魔法研究士がひとり扉の前に残っていた。彼は自分が「プレイヤー」ではなく、寿命の少ない「案山子」であることを知っていた。だから命よりも慣れ親しんだ土地を選んだ人間のため最後まで尽くすことを決意した。
地面に亀裂が生じ、街の木造建築すべてが濃墨に呑み込まれる中、助けを求めてやってきた者たちを頑丈な壁の内側へ保護する。おそらく堅固な魔法研究所も間もなく地面ごと切り裂く強大な力場の餌食となるだろう。たとえ数瞬であっても、研究所を頼って飛び込んできた人間に安寧を与えることが主任魔法研究士自ら定めた任務であった。
その100メートル北に位置する木造船からは魔法研究所の様子を克明に眺めることができる。甲板で働く魔法士たちが見たかつての職場の最期は、上階が下階を押しつぶして平らな瓦礫となる様子だった。
正門の鉄扉が大きくはじけ飛び、浅黒い肌をしたオースの身体が空中にはじき飛ばされた。崩壊した元研究所の北側まで遠く、大きな弧を描いて飛んだ魔法士のローブ姿はまるで人形のようだった。
魔法士たちの瞳に残ったのは、黒い水面に落下したオースの身体が闇の如き液体に覆われながらも、肌の白く変色した姿だった。青白い陶器という言葉が似合う様は、死という言葉とは概念の異なる存在のように見えた。
破砕する地面によって吹き飛ばされた人間は、いずれも同じ最期を向かえた。皆、黒い水面へ叩きつけられ、青みがかった白い肌となって浮かんでいた。崩れた家や木々の隙間を埋めるように白い人形は横たわった姿で次々と水面に現れる。レジスタ共和国のあらゆる村や町は例外なく、同じ運命をたどった。
数え切れない破片となった地面からあふれ出る水位は時間の経過とともに上昇し続ける。やがて押し寄せる黒い波に乗り上げるようにして木造船が動き始めた。地上のほぼ全域が水没していた。木の軋む音と共に船体が左右に揺れる。
甲板の魔法士たちは船上のあちこちにつかまり、身体が外へ投げ出されないようにやり過ごす。幸運にも大きく傾いたのは1往復のみで、細かな揺れを残して船体は安定した。網によって繋がれた10個の黒い岩石の塊は一度浮かび上がり、再び水中に沈んでいった。
甲板で周囲の様子を確認していた栗毛の魔法士が中央の船室へと駆け込む。しばらくして船上に再び姿を現した彼は、他の魔法士たちを集めて大声で叫んだ。
「アキムさんの話では動力も安定しているようだ。『アキムの方舟』の出航だ!」
歓声が沸き起こり、魔法士の数名は船の後方まで急いだ。すぐに錨が巻き上げられる。
「アキムの方舟」と呼ばれた巨大木造船は、かつてスカジ湖があった方角に向かって、水中を漂う光の粒と一緒に前進し始めた。もはや国境と呼ばれた場所には何もなく、黒い水の流れが複数に枝分かれしつつ続いている。木造船は導かれるようにそのうちの1本を進んでいった。後方でガラス片の如く割れ、水中へと消えゆくレジスタ共和国に別れを告げて……。
魔法暦102年10月10日、レジスタと名づけられた土地最後の日のことである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――木造船は現在、止まっている。僕はアキムさんの言葉に従って、久しぶりに動力室へと入った。足元の空間は船底まで続く。木造船の動力室と並んで最も重要な区画は、唯一知らないことが存在する。梯子を一段ずつ下りていくたびに緊張で汗がにじみ出てくる。異様な空間はその場に居るだけで生気を吸い取られそうだった。




