7 カウルの回想(余)
僕やアキムさんの故郷であるレジスタ共和国は山に囲まれた盆地を領土としていた。「影の王」が出現するまで王政を敷いていた同王国は、魔法暦元年に現在の名称へと変わる。
建国以来、抱えていた問題は魔法暦100年に国を滅ぼすと予言された影の王の存在。さらに国境の山に正体不明の紫色の霧がはびこり、侵入者をことごとく死に至らしめた。レジスタ共和国は100年もの間、隣国から隔離された。
魔法士たちは魔法暦100年10月10日、「運命の日」の決戦で影の王を打倒した。国に平和が訪れたはずだったが、宿敵を打倒した後も霧が晴れることだけはなかった。まるでレジスタ共和国の人間を檻の中に閉じ込めるため、何者かが用意したかのようだ。
依然として隣国との交流が途絶えたまま、国は新たな変化に直面した。
レジスタ共和国にはいくつか湖が存在する……。最も大きなものは国の北西国境近くに山岳と連なるように位置するスカジ湖だ。国境の山脈から染み出すように広がる湖面は、首都コアの敷地と変わらぬ面積がある。国中の河川が最終的にスカジ湖に流れ着くことから、古くから「レジスタの海」という異名を持っていた。
平らな国土の中で最も低い位置にあるスカジ湖は目に見えぬほどの深さに特徴があり、湖底まで至った者はいない。地下水として山脈の下に通じ、隣国の巨大な河川へ合流し、長い距離を隔てて本物の海へ注ぐと言われている。
僕たちの周囲に起こった変化とは、そのレジスタ国最大の湖が山の国境の方から次第に「黒く」変色し始めたのだ。
「黒い」というと影の王を想像してしまうが、漆黒の色艶をしていた元宿敵と違い、光を吸い込む闇といった表現が似合う色合いだった。
国の水源ではなく下水道ということで、火急の騒ぎにはならなかったが、魔法研究所は10名以上の魔法士を派遣して検査を実施した。話を聞きつけたアキムさんと僕も魔法合成の実験を中断し、現場へ駆けつけた。
「……カウル、どうやら魔法合成が可能になったのとは別の変化が国全体に発生したようだ」
不思議なことに前代未聞の事件にも関わらず、早くもアキムさんは何か気づいたようだった。日を追って黒い面積を広げるスカジ湖に対し、原因究明の責任者となったアキムさんは調査計画を立てた。
最初に調べるべきは人体への影響。そう述べたアキムさんは、自ら水中へ飛び込んだ。小動物を使って最低限の保証を得たうえだが、相変わらず大胆な行動には皆、唖然とした。
湖面の水中数メートルまで迫っていた黒い靄……その正体を調べるため、潜水調査隊が組織された。アキムさんを筆頭に、彼より若い魔法士で構成される。僕も率先して参加した。
何か特別な装備を身につけるわけではない。目を守るために、透明性の高いガラスをつけたゴーグルなるものを身につけ、防寒の工夫をしたうえで素潜りだ。季節は冬の只中。冷たい水の中は最初澄んでいるが、数メートル潜っただけで視界が暗くなる。光が黒い靄で寸断されるようだ。
潜水する魔法士は暗闇の中に閉ざされることを考慮して常に各個人が先に進む者の脚に手を当てて数名単位で散策した。1メートル離れた後ろの者に脚を叩かれれば引き返す。僕は主に先頭を担当し、何度も黒い湖水へ入っていった。
――結論が出た。黒い水、湖に溶け込んだ靄状の物質は一切、人間に危害を加えることがない。かつて「黒」と言えば、人間を死に至らしめる「影の王」を連想したものだが、色とイメージを繋げて不安になる必要はない。
調査を続ける間も黒い部分は勢力を広げ、湖面全域を覆い始めていたが、水が変色しただけであって、人が口に含むことすら可能だった。もちろん、命知らずな挑戦をしたのは調査隊の責任者、アキムさんに他ならない。
スカジ湖へやってきた魔法士たちは皆、胸を撫で下ろした。近い村に拠点を置いていたものの、原則的に野営で生活していた僕たちは調査作業から解放され、村で休暇を取ることが許された。
アキムさんだけは、魔法研究所長のジョースタック老先生を呼んで調査を続けていたらしい。後始末と説明され、僕は村で同世代の魔法士たちと穏やかな時間を過ごした。
首都コアへの帰り支度を始めていたある日のこと、せわしない魔法士の声とともに辺りが喧騒に包まれた。怪我人が発生したのだという。先に向かった魔法士たちが村まで連れ帰ってきたのはジョースタック老先生だった。右腕を肘の上あたりから負傷したらしく、指先に至るまで幾重にも包帯を巻いて宿舎に運び込まれた。
アキムさんは怪訝な表情を浮かべながら付き添っていた。借りていた宿の一室から魔法士たちが退去し、老先生が入院した。
医師とアキムさん以外は部屋への立ち入りを禁止された。皆が原因を知りたがったが、情報は病室の出入り口で遮断される。誰も現状を理解できず黙り込んだまま、一晩が過ぎた。翌朝、病室から出てきたアキムさんは僕の手を引っ張り、宿の外へと連れ立った。
「カウル……どうやら黒い水の調査は今後、禁止しなければならなくなった」
昨日まで全く危険はないと判断されていた結論が覆された。
「私たちにとって無害な水であることに違いはない。ただし、特定の人物に対しては恐るべき危害を及ぼす存在だ」
アキムさんは両手で僕の肩をつかんだ。険しい顔から汗が頬を伝って落ちる。
「ジョースタック先生は調査隊の一員ではないため、予想できなかった。カウルは知っているだろうが、我々の年齢より上の世代には秘密がある。国境の湖から生じている黒い水はその秘密に大きく関わるものだ。だから、先生だけ右腕に怪我を負った。この問題は魔法士に限った話ではない。黒い水は国中の人間に対して危害をもたらす可能性がある。事実の詳細も公表できない。あくまで調査の結果、危険な水であったとだけ説明するつもりだ」
僕の両肩から手を離すと湖の方角へ顔を向けた。湖の周辺を眺めているわけではない。国境にそびえる山のさらに向こう、世界の果てに視線を走らせていた。驚くほど冷たいまなざしだった。この目――見たことがある……。嫌な記憶が頭をよぎったが、アキムさんは視線をこちらに戻して話を続けた。声に焦燥感をにじませていた。
「黒い水はやがて国中を呑み込むだろう。……と言ってもスカジ湖の水量が増すわけではない。レジスタ共和国の水すべてに同じ変化の訪れる日がいずれやって来る。我々は再び存亡の危機に立たされるだろう。その前にレジスタ共和国の人間すべてを説得しなければならない。果たしてどれだけの人が理解を示してくれるか……。いずれにせよ、国を挙げた一大事業が必要だ。カウル、私に力を貸してくれるか?」
レジスタ共和国に住む人間の秘密と危機。実のところアキムさんが言うほど理解していなかった。僕は混乱しながら首を幾度となく縦に振った。多少なりとも平静を取り戻したのか、アキムさんは穏やかな顔で一言「ありがとう」と呟いた。
その時から2年……木造船に舞台を移しながら、僕はずっとアキムさんの補佐を続けている。木造船の仕組みについて誰よりも勉強し、詳しくなるのは当然だった。
――余計なことまで思い出してしまった。僕たちが乗り込んだ木造船は国境から染み出してきた黒い水に対抗し、目的地までたどり着くために作られた。魔法の合成を発展させた技術の結晶だ。設計から建造まで携わっているアキムさんがいる限り、船で起こった問題はすぐに解決するだろう。
昔の記憶を呼び起こしつつ船倉地下2階を外縁の機関室に沿って1周してきた僕は、螺旋階段の場所まで戻っていた。階段は甲板からこの階までを繋ぐ。最下層へ進むためには、鍵のかかった蓋を開けて梯子で下りなければならない。鍵はアキムさんが所持し、僕は自分の意思で動力室に入ることを禁じられていた。
唐突に床の合間から頑丈なケヤキの蓋が開いて見覚えのある顔が飛び出した。船長のアキムさんだった。
尋常ではない雰囲気だ。目は充血し、薄い無精ひげがあごを覆っていた。
「呼びに行く手間が省けたな。カウル……話したいことがある。下に来てくれるか?」
普段の冷静沈着なアキムさんとは思えない、震えた声だった。動力室で何かが起こったに違いない。僕はゆっくり顎を引いた。船長であり、師匠でもある魔法士は礼を言うことなく、表情を変えずに梯子を下りて行った。僕もまた覚悟を決めて後を追った。




