6 カウルの回想(下)
ジョースタック老先生は、魔法士のローブについた土埃をはたいた。曲がった腰に幾度か手を当て、背筋を伸ばす。
「アキム……業火の魔法については現状で対処法がない。若い者に見せたい気持ちはわかるが、また鎮まるまで待たなければならん。わしは見張りに疲れた……」
アキムさんは年長の老魔法士に向かって静かに頭を下げてから、こちらを向いた。
「カウル……、魔法の合成によって作られた新しい属性は従来と比べ物にならないほど強力なものばかりだ。業火と呼んでいる火4・風3の組み合わせは、消す手段のない焦げ茶色の炎を発生させる」
右手の親指で背後にある燃え盛った炎を指した。
「不思議なことに従来の火より温度が低く、容易く燃え広がることはない。物質が燃焼する際に生じる炎とは現象自体が異なるようだ。理由は不明だが、周囲の酸素がなくなろうが温度を下げようが決して消えない。……そこで連想した。もし、『地獄』と呼ばれる常に炎で覆われているような世界が存在するとしたら、資源はすぐに炭化し尽くしてしまうだろう。焦げ茶色のコイツは、激しく物を燃やさない。酸化することも炭化することもない。だから地獄にある炎と同じものだろうと推測して『業火』と名づけた」
にわかには信じられないが、目の前に実在しているからには土を覆いかぶせようが水をかけようが消えない炎があるのだ。赤土に墨を落としたような不気味な炎は依然、勢いを緩める気配はない。無害であれば何の問題もないのだろうが、高温でないとはいえ熱は確かに感じる。井桁を組む木材自体は黒く変色していた。急速に炭とならなくても生じた熱によって徐々に変質しているようだ。
「アキムさん、影の王との決戦で使うことができていれば、別の結果が得られたかもしれませんね……」
多くの死者を生じさせた影の王との戦いでは、あらゆる知恵を結集して人間側が勝利した。強力な武器があれば良かったとタイミングの悪さを呪わずにはいられない。
「何が幸運かはわからない。カウル、影の王が用いた人間の命を燃やす炎を覚えているか?」
忘れたことなどない。空に浮かんだ巨大な球体に顔が生じ、口から吹き出した黒い塵は、魔法士の集団に接触するや否や得体の知れない朱色の炎を噴き出して、巻き込んだ人間すべてをミイラに変えた。数百名が命を散らす正視できない光景だった。
「――実は影の王が使っていた魔法合成も確認している。火3・風4の組み合わせだ。死を待つだけの家畜を使って既に実験した。気味の悪い黒い塵、朱色の炎、命を奪う能力……我々が被害に遭ったものと全て同じだ」
生唾を呑み込んだ。まさか、凄惨な殺戮現場が再現可能などという言葉までは信じられない。
「……そちらはカウルにも見せることはできない。永久に使用禁止だ。話を戻すと、影の王が魔法士の早急な死ではなく、生きて戦場から返さないことを目的としていたら朱色の炎の代わりに業火の方を使っていたかもしれない。何が不幸かは別として、決戦時に焦げ茶色の炎を喰らっていたら、現在まで生きている魔法士はひとりもいなかっただろう」
背中が総毛立った。目の前にある井桁の炎が途轍もなく恐ろしいものに思えた。アキムさんと僕を見つめていたジョースタック老先生が隣に立ち、こちらへ言い聞かせるように呟いた。
「魔法技術も使う者次第ということじゃろう。アキムが判断したように禁術としてしまえば二度と悲劇を繰り返すことはない。カウル……魔法研究所の理念に逆らうことになるが、魔法の合成に関してはすべてを公開することはできない。君を呼んだのは信頼に足る者と認めたからじゃ。魔法合成について知っているのは、アキムとわしと君だけになる」
僕は視線をアキムさんに戻した。険しい顔をしながらアキムさんは話を続けた。
「ジョースタック先生が手伝えないときは、私とカウルとで魔法の合成について実験を続けることになる。いずれ、部分的に皆に伝えなければいけないことも出てくるだろうが、魔法合成の仔細すべてを知っている人間は限定しなければならない。特に火と風を合成する魔法については、大きな混乱をもたらすだろう。故に禁術という枠を設けた。カウルなら理解できるだろう?」
いつの間にかゆっくり顎を引いた。事の重大さを肌で感じたのだと思う。
「それでは暗い話はここまで……将来を明るく変えそうな魔法合成について教えよう」
アキムさんの表情がほころび、まなざしに好奇心が満ちた。
「例えば……生命誕生の謎に迫るものがある」
そう言って先ほど魔法弾を放っていた、ペケ印がついた場所に戻っていった。手招きされるまま、僕も近くまで移動する。アキムさんはそばに置かれた魔法具を数枚手に取って、案山子の1体へ早足で移動した。手袋をはがして手持ちのものに差し替え、別の5箇所へも同じく移動して手袋を差し替えた。手を上げて合図すると、今度はジョースタック老先生が僕のそば、魔法弾発射の位置に立った。
「アキム、わかっておると思うが無茶はほどほどにな」
心配した顔つきで、老先生は懐から魔法具の手袋を取り出し2枚重ねで身につけた。右腕を上げて案山子のひとつへ照準を合わせ、透明に輝く魔法弾を放つ。1分後に2発目、さらに3発目……アキムさんの時と同じく6発の魔法弾を別々の案山子へ放ち、右手に氷属性の魔法弾を撃ち出す1枚をかぶせた。木の棒の魔法士が再び反応しはじめる直前だ。
アキムさんが合成した魔法弾の飛び出す射線上に立ち入って、ちょうどジョースタック老先生の10メートル先あたりでこちらを向いて仁王立ちした。
案山子の腕から吹雪の渦と、灰色の煙が3つずつ塊となって同時に飛び出した。ジョースタック老先生は同時にすべての魔法弾を水平に伸ばした右腕の先で受けとめ、直後に2色が混合した青白い魔法弾をアキムさん目掛けて放った。
飛び出した塊はアキムさんの身体に着弾した。青白い光に包まれたアキムさんの身体に変化が現れる。みるみる顔の起伏がなくなり、腕が短くなり、背が急激に小さくなった。何が起きているのか茫然と見守るほかない。そんな僕の視線の先で魔法士1人は完全に姿を消し、同じ場所の地面に透明ながら七色に輝く粘液が残った。
「……カウル君、これがアキムの言う『生命のスープ』じゃ。姿を消したように見えるが、アキムはこの粘液の中で生きておる」
ジョースタック老先生は魔法具の手袋6枚を持って、案山子の元へ向かった。ひとつずつ別のものに付け替える。戻ってくるなり、再び魔法弾を撃ち出す所作に入った。先ほどと同じように1分ごと、魔法弾が案山子へ向かって飛び、今度は火球と若草色の光が老先生目掛けて集まってきた。再び複数の魔法弾を右手の魔法具で受けとめた老先生は、手のひらをアキムさんの消えた場所へ向ける。
深い緑色となった光の塊は、地面で七色に輝く粘液に向かって地表を滑空するように飛び出した。誰もいない場所で、今度は粘土細工を造るように人の形が現れ、顔の細部にいたるまで精巧に形を成していく。見知った顔、先ほど姿を消したアキムさんだった。
「ふぅ……。ちょっと疲労が残る点を除けば元通りだ。衣服の汚れまでそのままだから、完全再現だな」
言いながら満面の笑みを浮かべた。
「……見たとおりだ。粘液状に見えた生命のスープでいる間の記憶はない。まだ調べることは山ほど残っているが、新たな可能性を感じるだろう? もしかしたら、体調に良い結果をもたらすかもしれない。カウルも一度経験してみると良いだろうな」
僕はとんでもない、と首を横に振った。隣でジョースタック老先生が最初はわしもそう思っておったと苦笑した。まだ見たものを理解するには随分と時間がかかりそうだが、人間の秘密を探る手がかりになるかもしれない。それにしても、何と刺激的な研究であることか。久しぶりに身体の奥底から沸き立つ感情を味わった。
その日から早速、僕は寝食を犠牲にして魔法の合成理論を詳しく教わることになる。いつも思い出すのはきっかけとなった最初の日の出来事だが、頭に詰め込んだ知識は木造船で過ごすようになってからも欠けることなく留まり続けている。
魔法合成理論の基本部分について少し話そう。4属性のうち火と氷、風と土は反対の効果を持つ属性であり、打ち消し合わずとも互いを弱める。合成することに意味が無い。
平面の紙に縦と横、十字の線を引き、交点を原点とする。数学で用いられる平面図だ。原点の上方向を火、下方向を氷、右方向を風、左方向を土とする。
火と合成した魔法は風であれば原点の右上、土であれば左上に位置する。両方の場所に、合成する割合を変えて生み出せる2つの新しい魔法が存在する。例えば火と風を合成した魔法はアキムさんによって禁術指定された2種類だ。
原点の右下と左下……氷と風、氷と土を合成した魔法も加わり、合成によって誕生した魔法の種類は全部で8つある。いずれもが火・氷・土・風、従来の4属性とは比較にならないほどユニークで強力なものが揃っている。
木造船を維持している各部品は氷4・土3を合成し、あらかじめ魔法弾の効果を「保存」している。アキムさんが見せてくれた、吸収した魔法弾を再び発射するまでに多少の時間差を生じさせる簡易なものではない。永遠に魔法の効果を押し留めて少しずつ消費することができる。無人の動力を活用する木造船は、合成された「効果保存」の魔法が原理となっている。
櫂を動かす部品は刻印に記された命令どおり、保存された魔法効果によってゴムの繊維を修復する。修復するのは土属性の魔法弾であり、その魔法効果を生み出すのが効果保存の魔法というわけだ。
合理的な運用が不可欠だが、魔法士たちの魔法力を大量に詰め込んだ部品の数々は長時間にわたってゴムの伸縮する能力を維持し続ける。建造に1年以上をかけた大型木造船は、動力部から送られる信号を引き金に各所が自律的に駆動し、ゴムの束を幾度も伸縮させて長期間の自動航行を可能にする。
もちろん木造船が備えている機能は効果保存だけではない。船の後ろから自動修復する網で周りを覆い、黒い水の底で引っ張っている大量の石油資源は、人間を生命のスープに変える魔法と同じ仕組みで体積を小さく圧縮し、固形化している。牽引している資源は、苦労を重ねて獲得した石油以外にも貴重な鉱石が多数ある。
船の機能について、他にも例をあげれば枚挙に暇がない。魔法属性の合成はレジスタ共和国の文明を完全な別次元へと引き上げる役割を果たした。かつて異邦人によってもたらされたという「魔法」は途方も無い存在だということを改めて証明したのだ。
……記憶をたどった僕は一息ついた。ところが、当時を思い出そうとするたび、芋づる式のようにオマケがくっついてくる。世界は別の変化の兆候も見せていた。魔法合成が人間にとって都合の良い変化だとすれば、それは良くない変化の始まりだった。
(補足)【情報技術とは関係ありませんが……設定裏話】
魔法合成の考え方にxとyの平面図を用いたのは2次元の位置ベクトルで表現するためです。x軸のベクトルとy軸のベクトルを足したものが魔法合成されたベクトルです。
魔法合成の属性比率が4:3と3:4の象限ごと2種類の組み合わせであるのは、ベクトルの大きさが整数の5になるからです。直角三角形の全ての辺を整数にする組み合わせが3:4:5という事例と同じです。整数の組み合わせは数を増やせば幾らでもありますが、古代エジプトでも使われていた上記に絞りました。
本作で魔法の設定は整数を重視しています。厳密には整数値にこだわることと離散数学とは関係ありません。まとまった世界観を構築するためです。魔法属性の合成は、平面図の座標で例えれば(3、4)(4、3)(-3、4)(-4、3)……(以下略)の計8種類になります。




