2 船内食堂にて
急いで甲板から船内に戻った僕は、螺旋階段を先ほどと逆回りに階下へ降りていった。景色が右から左へ急速に流れて失調感さえ覚えたが、目をまわしている暇などない。甲板の下方向、自室がある船員居住区のさらに下、船長室と機関室がある甲板地下2階まで滑るように階段を駆け降りた。
木造船の甲板下……船倉は大きく3層に分かれていて、上から居住区、機関部、動力部と大別される。船長のみ有事の際に速やかに行動できるよう、居住区から離れて機関部と同階で生活するようになっていた。
「アキムさん、いらっしゃいますか!」
船長室の出入り口、仕掛けが動けば壁の一部が消える場所で声を上げた。
――返事はない。
部屋の壁にかかった札を確認すると、「外出中」と書かれていた。船長と2人で部屋の前まで来たときに「責任者在室中」とかかっているような当てにならない札だが、部屋の中に気配もなく、今回に限っては正しいようだ。
木造船は縦も横も充分な広さを備えている。機関室は船の外郭全般に沿って壁で仕切ることなく張り巡らされ、その内側に船長室のほか食堂や休憩室など複数の部屋が配置されている。食堂や休憩室に限っては一度に数十人が利用できるほどの間取りだ。
今いる廊下は中央の3部屋を区切るように貫いている。螺旋階段の場所から船首に向かって左側は船長室、その先に食堂、右側は休憩室……船員の詰め所となっている。船長室の前から薄暗い廊下の先へ目をやると、食堂の出入り口が開いたまま外に光が漏れていた。
食事中かもしれない……。僕は引き寄せられるように明かりの方へ歩いていく。室内から金属調理具のぶつかる音が鳴った。
開いた入り口から飛び込んだ先には、1人の女性が立っていた。思いがけず柑橘系の香りが鼻をくすぐった。
「あら、カウル君。起きたのね」
明朗な高い声で名前を呼ばれた。調理場に立って何やら忙しく動いていたのは、船長の奥さんであるティータさんだった。みかん色の長い髪を後ろに垂らし、前はエメラルドグリーンの髪留めでまとめている。
開放されたままの出入り口は、食堂の中でも調理するスペースに接しており、向かって左に食事をとる巨大な空間が広がっている。今いるのは食堂の調理場側だった。
「ティータさん、船長はいらっしゃいませんか?」
「アキム? さっき、船が止まったと言って来た後、あなた宛の伝言を告げて、下の動力室に行ったみたい」
やはりアキムさんも船に起きた異変に気づいたようだ。
「……あの人が言うには、しばらく動力炉を検査するから呼ぶまで待っているようにって」
ティータさんが笑顔で言葉を伝えてきた。
みかん色の長髪をなびかせる女性は、僕とは11歳年が離れた元魔法士だ。船長と同い年で故郷も同じだと聞いている。綺麗な人で、僕とは入れ替わりで魔法研究所を離れたようだが、在籍中は若い魔法士たちの憧れの人物だったらしい。
同郷とはいえ、なぜアキムさんと一緒になったのかはよくわからない。船長は色恋には全く縁がないタイプで、とても美人にモテるとは思えないからだ。まあ救国の英雄だから、目をつけた女性を力づくで手篭めにすることも可能だったのだろう。
お洒落な服装に均整のとれたスタイルの中、お腹のあたりだけが大きく膨らんでいる。妊娠6ヶ月目らしい。アキムさんとティータさんの夫婦は何とも仲むつまじく、見ているこちらまで微笑ましくなる。
「ねえ、カウル。うちの人のことだから、いつ声がかかるか分からないわよ。今のうちに朝食にしたらどう?」
パンを焼いた良い匂いが漂ってきた。ティータさんの言うとおり、お腹はすいている。
「ええ、いただきます」
緊急時ながら、二つ返事で食事の誘いを受けることにした。
大きな長方形をした木目模様の際立つテーブルが3つ、食堂隅の調理場から反対側の壁に向かって伸びるように並んでいる。そのうち中央の最も手前側の椅子を引いて腰を落ち着けた。
ティータさんは調理場の前に立って火をかけていた。燻製肉を焼いているようだ。火と言っても炎があがっているわけではなく、フライパンの表面に描かれた魔法の刻印から無害な魔法弾が飛び出し、吸収の刻印を押された具材の近くでスパークして熱を加えるという仕組みだ。鼻腔を刺激する心地良い匂いが食堂の一角に満ちた。
こちらに背中を向けて料理しているティータさんを眺める。白地に一輪挿しの花の絵柄をあしらったワンピースに控えめな赤のスカート、その上から水色のエプロンを羽織っていた。31歳というのが信じられないほど色艶のある人だ。むしろ自分が付き合った女の子にはない色香がある。
彼女の右手には手袋がはめられている。以前に見せてもらったのだが、彼女には右手の親指をのぞく4本の指が途中から無い。ところが全く悲壮感はなく、まるで人があらかじめ、そのように造られたかのように自然な美しささえ感じる。
料理や作業をするときだけ、指の代わりになる機能をもった手袋を右手にはめる。魔法の力が込められており、まったく不自由を感じることなく自在に指のない部位を動かせるそうだ。
ティータさんは左片手に持ったフライパンの上で焼いた肉を、調理具できれいに裏返していた。
鼻孔を広げていると僕のそばへ皿を持ってやってきた。
「朝食だからトーストと燻製肉よ。カウル君は卵好きだから、目玉焼きも乗せてね。あったかいうちにどうぞ」
湯気をあげた皿が目の前に差し出された。
「わたしも一緒に食べるわ。うちの人の夜食をつくったとき何も口にしてなかったから」
テーブルをはさんで反対側の椅子を引くとエプロンを外して隣の椅子に置き、静かに腰掛けた。
僕はさっそく手を合わせて軽く挨拶した。食器の横に置かれたナイフとフォークを使って肉を切り、手でちぎったパンの上に乗せて口へ運んだ。
「……カウル君はすごくマナーをわきまえているよね。アキムは田舎育ちだからか、パンは直接口で噛んでちぎるのよ。正直、あなたを尊敬するわ」
彼女と同郷なはずの船長の悪口を聞かされながら、燻製肉とパンの切れ端を口へ運んだ。先ほどまで鼻腔を刺激していた香りが一度に口の中へ広がる。
肉汁を堪能しながら、つい本音が口をついて出た。
「君づけはやめてください。僕も成人した男なんですよ。アキムさんやティータさんと同じ大人です」
「ふーん……」
ティータさんの大きな瞳がこちらをじっと見つめた。内心緊張しながら顔を見返した。傷やシミひとつない彫刻のような顔立ちだった。
「そうは言っても、うちの人だって弟みたいな雰囲気だし……。もっと年下のカウルは子供みたいなイメージがあるの。気にさわるんだったら、これから気をつけるわ」
「あ、いや……今すぐじゃなくても良いんです」
僕は殊勝な態度とは裏腹に、腹の中で笑いをこらえていた。
アキムさんはどう考えても見た目以上に精神年齢が高い。時折、高齢だった前魔法研究所長と同じような発言をすることがある。それを弟とは、本当におかしなことを言う人だ。
彼女の手に目を向けると、左手の薬指には大きな透明の宝石がついた指輪をはめていた。料理しているときは身につけていなかったものだ。複雑な作業をする時は外しているようだが、普段はシンプルな金の結婚指輪に加えて、この大きな宝石の指輪をはめている。
「ティータさん。その指輪、食事のときはつけるんですね」
彼女は左手の指を眺めつつ、頬を緩ませた。
「アキムがくれた最初の指輪なの。婚約指輪といって先に渡されたんだけど、最近ようやく慣れたかな。別世界にもないサイズのダイヤモンドだって。わたしはよくわからないけれど、汗まみれになって持ってきたから……あの人の気持ちと同じだと思ってるの」
顔を赤らめることはなかったが、愛する人を想う強い感情が伝わってきた。
アキムさんの話では実際のところ、巨大な宝石を魔法で精製するまでに相当苦労したようだ。自分ひとりで作らなければ意味が無いと言ったアキムさんは当時、幾度も姿を消した。最新の魔法を使ってなおかつ山篭りしてようやく作った宝石は、友人の職人へ依頼してあった指輪部分と繋げて、おそらくレジスタ共和国で最も価値のある装飾品となった。
ひとつ問題があるとすれば大きすぎるゆえの機能性の低さだ。重みも結構あるだろうに、プレゼントされた方もできる限り身につけるとは誠実なものだ。
自分もいつの日か、ひとりの女性とここまで大きな絆を持つことになるのだろうか。船長と奥さんの夫婦の間には半年経てば子供も生まれるだろう。やはり、自分は2人にとって子供のような存在なのかもしれない。産まれてきた子供には優しい兄として接してやりたい。
ぼうっとしていたのか、自分と同じくナイフとフォークを使って食事していたティータさんから声が飛んできた。
「さあ、カウル君。手が止まっているわよ。冷めないうちに食べなさい」
まるで母親だ。彼女に唯一欠点があるとすれば、自分のペースに他人を巻き込んでしまうところだろうか。案外、アキムさんとは相性が良いのかもしれない。また小言をもらう前にフォークを持つ手に集中した。
「……カウル君。うちの人のこと、よろしくお願いね。なんか今日はいつもと様子が違っていたから少し心配なの。今、船の中には私たち3人しかいないから、あなたにしか頼めないの」
僕は首を縦に振って残ったパンを口に頬張った。




