最終章 運命の日(魔法暦100年) 後編 1
魔法力が枯渇寸前だった聖弓魔法奏団は息を吹き返した。全く消耗していない新たな供給役を計算に加え、部隊を再編成する。援軍に来た者たちも「隠し玉」を準備していた。供給役の小集団へと加わる前に、黒い巨体の中央目掛けて土の塊を放り込んでもらう。投入した「隠し玉」の数は累計で1000個を超えた。
指示を伝え終えた私は一息つき、改めて「影の王」について推理と想像の翼を広げていた。
影の王の弱点は「水」である。けれど魔法の属性に含まれていない。「風」の属性は効果があるどころか敵のエネルギー源だった。かつて影の王と対峙したとき魔法士たちは不本意にも騙され踊らされ、手酷い目に遭わされた。
100年前に現れたという魔法の伝道師については疑わしい点が多い。影の王が持つ弱点や逆効果の属性などは初歩的な問題だ。100年という歳月を操ってまで封じ込める能力を有しているのなら、知っていておかしくない。
あえて伝えなかったのではないだろうか。すでに疑惑は確信に変わりつつある。影の王を生み出した創造者も魔法弾の仕組みを熟知したうえで、魔法の伝道師と申し合わせたかのように有利な条件を空の怪物へ用意していた。神が人間に課した試練と考えるには、犠牲者の数が多すぎる。
我々に与えられた不公平な条件だが、魔法弾の属性に水がない一点だけは影の王にとっても誤算となった。魔法属性を合成できない不利を解消できたからだ。
もし、水が魔法弾で生み出されるものだったら、炎に包まれた影の王へ撃ち込んだときに火属性と水属性が互いを打ち消し合い、弱点を突くことはできなかっただろう。現在魔法士たちが放っている土属性の魔法弾も、影の王の身体を満たしている水が魔法属性だったら同様に反発が生じてしまったはずだ。
魔法属性ではない天然の水を利用したからこそ、火の魔法弾によって鉱石に変化する術を封じた怪物へ大量に浴びせかけることができ、他方で土の魔法弾を使って横たわる身体の上に植物を創造することができた。
自分たち魔法士は魔法属性を合成できず、敵の弱点である水を魔法属性として与えられず……。2つの悪条件を背負いながら、理不尽な策謀にほころびを見つけて解決まで至った。これは逆境に立たされた人間の「意地」だ。そして難攻不落の怪物攻略へ光を差したのは、紛れも無く「役に立たない」烙印を押された文献から学んだ知識だった……。
ゆっくり息を吐き出した。気づけば影の王の中央に樹齢100年以上の巨木が誕生していた。少しずつ根元から朽ちてゆくものの、瞬時に巨大な命を絶やすことはない。枯れた後に残された実と種からも新たに発芽する。誕生する草木の数は時間と共に増え続けた。魔法士の創造する植物は質と量の双方で進化していった。
唐突に百歳の巨木が何本も幹を伸ばし始める。砲台役魔法士たちは驚くそぶりさえ見せず、変わらぬ間隔で連結魔法弾を撃ち続けた。今や漆黒の塊は原生林の土壌となりつつある。土属性と風属性の力比べは前者へ傾いているようだ。
ふと奇妙な感覚に襲われた。雨音が次第に遠ざかっていく――。急に自分の周りから気配が遠のき、視覚だけが研ぎ澄まされていった。
どうやら雨は音だけが消えているわけではなかった。雨粒ひとつひとつが見えるほど地面への落下が遅くなっていた。触れようとすれば簡単に捕まえられそうだ。時間の進み方が遅くなっているのだろうか。自分の意識が身体から飛び出していくような不思議な感覚に包まれていた。
自分に近い漆黒の泥の一部が2メートル近く隆起した。右腕を胸の前へ上げて臨戦体勢をとったが、攻撃してくる気配はない。敵意すらなかった。
盛り上がった黒い塊は人間の輪郭をしていた。影の子と違い、精巧な彫像のように細部まで人間の姿に近づいていた。色だけは漆黒のままだった。
目の前の人影に見覚えがあった。世話好きで背の高い……赤髪の先輩魔法士だ。
「アキム、ひさしぶりだな」
黒い人型の彫像は髪の先端を手で整えつつ声を発した。異様な状況だ。周囲を見渡したが他の魔法士たちは全く動かなかった。理屈はわからないが自分を除く時間そのものが停止している。致し方ない……。
「レッドベース先輩、おひさしぶりです」
私は彫像の前まで歩み寄り頭を下げた。
「影の王相手によく戦った。先輩として誇らしいよ」
笑顔で語りかけてくる……ように見えた。
「アキム……話があるんだ。俺たちは今、影の王の身体に囚われている。肉体は死滅したが魂は影の王と共に残っているんだ」
改めて相手の全身を眺める。本当にレッドベース先輩なのか、それとも影の王が仕掛けた罠なのか、判別できない。
「俺たちは魂を外へ解放するため尽力している。おまえが影の王を弱らせてくれたからだ。あともう少し……もう少しで囚われた魂は影の子となった身体から逃げられそうなんだ。けれど突然に現れた植物が影の王を覆ってしまい、今一歩というところで阻まれている。もし、現状のまま影の王を倒したとしても、魂が解放されなければ俺たちは苦しみ続け、諸共に地獄へ落ちてしまう。魔法士の誰も望んでいない結末だ。生きている者たちが必死になって戦っている最中に頼むべきではないことは承知している。だが既成概念にとらわれないアキムなら理解できるだろう?」
「……攻撃を中止して先輩たちに時間を与える、ということですか?」
「そうだ。半刻ほど猶予をもらえれば、俺たちがなんとか突破口を見つける。影の王が動けない今なら可能だ。外へ出たあとは魔法士たちに加勢しよう。肉体はないが助けになるはずだ。魔法士で決断を下せるのはおまえだけだ。頼む……犠牲となった者たちを助けて欲しい」
信じがたい話だ。にわかに判断を下すことができず天上を仰ぎ見た。鈍色の雲が空を覆っていた。影の王の餌食になった者たちの魂など今まで考えたこともなかった。決して信心深いわけではないが、死んだ者たちが姿を変えてどこか安らかな場所へ向かうという概念は持っていた。
静かに口を開いた……。
「レッドベース先輩の言いたいことはわかりました。私も魔法研究に身を捧げた同門として、犠牲となった方々を救いたいという気持ちはあります。けれど……今は死者の魂よりも意地悪な教官ひとりの家族を助ける方が大事なんです」
レッドベースの形をした彫像はにやりと笑った。意外な名前が登場したことに意表を突かれたのか、私の返答に皮肉めいた印象を受けたのかわからなかった。
なんとなくだが「やれるものならやってみろ」と言葉を発したように感じた。
数秒も経たず耳に再び雨音が飛び込んできた。目の前の彫像は雨に呑み込まれるように溶け、眼下となる影の王の辺縁に崩れて消え去った。
忽然と同じ場所が柱のごとくせり上がった。高さ十メートルほどの黒く巨大な腕が空に向かって伸び、長い影が私の周囲を暗く染めた。背後から名前を呼ぶ声が聞こえたが、すぐに途絶えた。漆黒の腕は手のひらを私の頭へ押し付けるようにして倒れ、泥の中に全身を呑み込んだ。目の前が濃墨に染まる。暗幕が下りて視界が完全に閉じた。かつて敗北を喫した時の記憶、仲間たちの血の匂いがよみがえる。私の意識は混濁としたまま暗黒の世界が広がっていった。




