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視線の先、巨大な顔の周囲は触手が埋め尽くしている。身体全体を変形させた奥の手なのだろう。暗雲垂れ込める空の下、再び大気を振動させて空気をいっぺんに口内へ吸い込む。
左右4箇所の砲門から「十字連弩」が飛び出し球体の空洞内に炸裂した。影の王の顔面は口の中を炎で満たしながら苦悶の表情を浮かべ、怒りに満ちた眼差しを聖弓魔法奏団中央後部にいる私へ向けた。魔法士たちの指揮系統を見抜いたようだった。影の王は体内に取り込んだ大量の空気を吐き出そうと力をこめた。
死の宣告だった。生命を奪う塵が放たれる――。そう思った瞬間、白亜色のローブの襟首を何者かがつかんで櫓の2階から私を地面へ放り投げた。背中をしたたかに打ちつけ、肺の中身が搾り出されるような感覚に襲われる。
全く同時に、黒い塵が仰向けに転がった顔の前を吹雪のように駆け抜けていった。視界の端にとらえた櫓は足場ごと塵の中に呑み込まれ、消し飛んだ。
聖弓魔法奏団の中から数え切れない悲鳴が上がった。顔を向けた私の視線の先で鮮血色の炎が大きな火柱となり、上空まで立ち昇っていた。
「バカ野郎! 魔法士を束ねる指揮官が何ぼうっとしてるんだ!」
通り過ぎた黒い塵の後に飛び出した人影から鉄拳が見舞われた。頬の痛みで正気に戻り、目の前に組み付いている魔法士を確認した。銀髪、黒い眼帯……デスティンだった。
改めて目の前に広がる惨状が視界に入った。炎の下で苦しそうにもがく魔法士100名以上が身体から精気を奪われ、骨と皮だけの姿へ変貌した。
「聖弓魔法奏団が受けたダメージは大きいが、まだ戦える。命令を出す指揮系統が健在ならな」
デスティンは立ち上がって魔法士たちの方へ身体を向けた。白亜色のローブをまとっているが右目を覆う黒い眼帯だけは再会したときのままだ。漆黒を身にまとうのは、私とティータに対するけじめなのだと言う。
「俺は6年前、最後まで指揮を執ることができなかった。味方の魔法士を一度に失ってしまい我を忘れ狼狽し……正気を取り戻した時は、ティータが火属性の大砲弓を撃つ準備に入っていた。俺は彼女と一緒に爆発に巻き込まれ、倒れた彼女に治癒の魔法を送りながら痛みで意識が途切れた。不甲斐ない指揮官のせいで『聖弓魔法兵団』は壊滅的な被害を受けた。今でも後悔している。やり直すことが叶うのなら当時の戦場に戻りたいと思っているよ」
魔法士たちの命を燃やし尽くす鮮血の炎は、無残な屍を残して消え始めた。聖弓魔法奏団中央に配置された200名近い命は消え失せたが、彼らの両側にいた魔法士たちは距離を空けることで被害から逃れた。全滅だけはかろうじて免れることができた。
影の王は空気を大量に吸い込み、次は左翼側の部隊目掛けて黒い塵を吐き出した。もはや地獄絵図だ。両肘を地面についたまま視界に入れることはできないが、魔法士たちは得体の知れない炎に包まれて百名単位で命を燃やし尽くしただろう。
私は背中に受けた衝撃でしばらく咳き込んでいたが、鮮血の炎が目前の空間から消えるのを見計らい、起きて聖弓魔法奏団の現状を確認しようとした。
「まだ立ち上がるな!」
銀髪の魔法士が叫んだ。
「影の王が吐き出した黒い塵は、微細ながらも空中に散乱しているようだ。火属性の魔法弾で燃やし尽くすから待っていろ……」
振り向いた魔法士の右腕は痩せ衰えたように細くなっていた。次第に頬も痩せこけていく。
「俺の右肩あたりに付着したようだな。小さい炎だが俺の命を吸い取っているようだ。これでは治癒の魔法弾でも追いつかないだろう。とんでもない奴だよ。俺たちの敵は……」
銀髪の隻眼魔法士は私の後ろまで下がり、骨と皮だけになった右腕を無理やり左手で持ち上げ、手のひらが合わさるように両手の指を胸の前で組み合わせた。
「俺が育てた砲台役の魔法士はまだ生き残っている。今、太陽は君だ。彼らを宜しく頼む」
デスティンは組んだ手に意識を集中させ、手袋がひっついた「元」右腕を左手でつかんで火属性の魔法弾をなぎ払うように撃ち出した。屍以外、何者も存在しなくなった場所に炎の群れが飛び出す。まだ空中に残っていた黒い塵は火の魔法弾と反応して朱色の炎を噴き上げ消滅した。湯気の立ち昇る銀髪の魔法士は両膝をついたまま動かなくなった。
私はデスティンが作った空間へ躍り出て周囲を確認した。左右へ遠ざかるように避難していた魔法士たちが指揮官の健在を目にして、幾らか平静を取り戻したようだ。
右翼は端から150名ほどが命を失い、私の立つ中央部分は200名、左翼も200名以上が命を散らしていた。聖弓魔法奏団は半分の人数を失ってしまった。
影の王は次の標的を求めて地上を睥睨していたが、魔法士たちの残骸跡に残った塵を燃やす炎に気づいたのか、再び聖弓魔法奏団の中央目掛けて息を吸い込み始めた。
まだか……。
ただ待っていた……。背後で命の灯火を消そうとする銀髪の魔法士を振り返ることはなかった。魔法士の指揮官として託された責務を全うするため、かつて研究成果からヒントを得た影の王へ反撃するチャンスを待っていた。
先刻から感じていた……冷たい雫が肩を濡らすのを。影の王は空中で燃え盛る巨大な炎の塊と化していた。火が覆っていた触手を押しのけて出てきた人間の面は当初漆黒で塗り固められていたが、炸裂させた魔法弾と周辺部からの侵食で今や激しく燃え盛っていた。中央に深く発生した空洞も炎で充満し、内外ともに火の及ばない場所はなくなっていた。
影の王が息を吹き出すため力をこめた。戦局が変わったのは一瞬だった。
パラパラ……。
大地を優しく叩く音が鳴り響いた直後、上空から無限の水滴が矢のように降り注いだ。
世に存在する打楽器を総動員させたほどの轟音が辺りを包み、大粒の雫が激しく地上を叩きつける。水滴の矢が作る軌跡は視界を奪い、耳へ届くはずの振動は炎の音、人の声すべてかき消された。滝のごとく空から落ちる水の塊は地上も空中も関係なく、ありとあらゆるものを呑み込んだ。
魔法暦に前例のない、レジスタ共和国において100年に一度の豪雨だった。




