Ver5.1 運命の日(魔法暦100年) 前編 1
魔法暦100年10月10日午前6時、レジスタ共和国の東側全域は厚い雨雲に覆われていた。前日9日の夕暮れに出現した半透明の「影の王」は、陽が完全に隠れて夜のとばりが下りても消えることなく、上空に居座り続けた。レジスタ国民は魔法暦で初めて朝もやの中に黒色の球体を見つけた。
首都コアでは、朝から多くの民衆が東の街外れに広がる丘陵地帯に押しかけ、空の遠く東南東に鎮座する災厄の塊をじっと固唾を呑んで見守っていた。
魔法研究所が誇る「聖弓魔法奏団」は時間を遡ること日の出前から影の王が出現した場所へ移動を完了し、たいまつの明かりを頼りに陣形を整えていた。総勢1100名、かつてない大陣容である。リーダーの主任魔法研究士に率いられて経験の浅い魔法研究生も参加している。
影の王は、魔法暦94年に先制攻撃を仕掛ける前と同様の姿で、直径100メートルの巨体を倍の200メートル上空に浮遊させていた。動きは見られず未だ休眠状態なのだろう。敵本体直下から北に500メートル離れた位置……横長に並んでいた全魔法士が標的を南側に見据えつつ、扇状に部隊を広げた。連結魔法弾による同士撃ちを避けるため、互いが射線に入らぬよう完全包囲ではなく半包囲にとどめている。
私は決戦の指揮を託されていた。見晴らしの良い2階建ての櫓を「聖弓魔法奏団」仮想戦闘位置の中央から影の王に向かう反対側に設け、上階から魔法士たちが持つたいまつの炎を俯瞰していた。白地に赤と青の直線で装飾を施したローブが冷えた風に揺れる。櫓は2階の足場にハシゴを付けただけの簡素なつくりだが、自分と魔法士たちの重要な大本陣である。戦闘が始まれば、櫓の上から指示を飛ばす手はずだ。
大きく深呼吸した。まだ戦端を開く段階ではない。影の王が復活する時刻は訪れていない。
100年前の記述通りならば「影の王」が封印されたのは太陽の高い時間帯であり、完全復活するのも日中であることが予想される。夜間でなければ問題ない。視覚に頼って行動する人間は夜行性ではないからだ。
完全復活を待って攻撃開始することについては魔法研究所内で反論もあったが、魔法の伝道師の言葉に従って「運命の日」の封印が解けてから「魔法弾」で攻撃する算段に決まった。魔法暦94年の先制攻撃は失敗し、奇策が通用しないことは証明済みだった。
やがて大草原の果て、国境に延々そびえる高嶺の稜線から顔を覗かせた太陽は、一面曇天の隙間を縫って緋色混じりのまばゆい光を放ち始めた。魔法士の証である白亜のローブを着た人間の群れが徐々にあらわになる。部隊は広域に点在しながら半円をなぞるように展開している。
私は魔法士たちの陣形が予定通りであることを確認して、気を引き締めるために頬を両手で3回叩いた。如才ないが見栄えもしない29歳の魔法士に国家の、そして生活を営む人間全ての命運がかかっている。
時間が刻一刻と過ぎていく。上空の球体が微動だにしないまま、地表は熱を帯び始めた。宿敵「影の王」が半透明の身体から復活し、活動を開始するのは分厚い雲の垂れ込めた鈍色の空が明るく染まる正午過ぎだった……。
地響きが足をつたって皆の身体を揺らし始めたかと思うと、灰白色となった空から幾重もの光の帯が地面に向かって降り注いだ。空中に浮かぶ薄黒い球体の周りに光の渦がひとつふたつ出現し、くるくると回転する。魔法を扱う者から見ても異様としか表現できない。
総勢1100名の魔法士たちが一様に身体を硬直させた。生前から存在する仇敵のお出ましだ。
光の渦は増殖しながら回転し続けた。10、20……数え切れない渦が上空の一部を埋め尽くす。おそらく……というより勝手な推測だが、影の王本体ではなく宿敵を本日へ送り込んだとされる、魔法の伝道師が使った超常能力に関わるものではないだろうか。自分たちの操る魔法弾と似た輝きを放っていた。
遠くからの地響きが直下の地鳴りへと変わり、激しく大地を揺さぶった。私は櫓の上から落ちないように手すりを強く握り締めた。先ほどまで感じた印象とは全く異質で不気味な気配が光の渦たちの中からあふれ出る。
一瞬だった――。光の渦はまばゆい輝きとともに消え去った。同時に頭上から現れたのは、今まで見たものとは全く違う、漆黒の球体に別の生命体がくっついた異形の姿だった。
9本の黒い龍の首が伸びていた。かつて魔法士たちが敗戦を喫した折、一時的に活力を得た影の王から生えていたものと同じだ。首の1本は「大砲弓」と呼ばれていた当時最大規模の魔法弾によって吹き飛ばしたが、6年の休養期間を経て風穴の開いた本体もろとも回復し、元の本数に戻ったらしい。
龍の首以外にも黒い液体をつまんで引き伸ばしたような突起物が球体全域を覆っていた。水棲生物の文献で見たイソギンチャクを思い出すような無数の触手だ。龍の首も触手も球体同様、表面は黒い液体に包まれている。
空に浮かぶ「影の王」。人間を動物を喰らい、国を滅ぼす災厄の塊――。
影の王の身体にたむろする触手のうち、球体下部の1本が重力に引かれるように大きく伸びた。粘液状に尾を引いて伸びる突起は先頭部分を切り離す。黒い雫と呼ぶには大きすぎる物体が地面に向けて落下した。着地して黒い粘液の塊が周囲に広がる。
聖弓魔法奏団には攻撃対象の中心直下から200メートルの距離を隔てて戦闘待機するよう伝えてあった。人間が得体の知れない敵に戦いを挑むのだ。確実に先手を打たねばならない。
影の王が復活した姿を見せる前から、大量の光が視界をさえぎる状況で魔法士たちは規則正しく300メートルほど前進し、黒い雫が落下した先を魔法弾の照準正面に捉えていた。現在、私の立つ櫓から前方へ広がるように聖弓魔法奏団が半円の弧を描く。半包囲の中心に影の王。目標中心まで水平距離200メートル、天候による障害なし、行軍の乱れなし。
再び深呼吸した。6年前に喫した敗戦のイメージはない。魔法研究所で主任魔法研究士として采配を振るった歳月が、私に揺るぎない自信をもたらしていた。
「全魔法士へ告ぐ! 影の王を打倒し、運命の日を乗り越える時が来た! 長年に渡って費やした時間、周到な準備と綿密な戦略は目前の敵を倒すのに十分な戦力を整えた。後は我々魔法士が訓練通り、己が四肢を頼みに闘うだけだ。聖弓魔法奏団へ命ずる! 総力をもって攻撃を開始せよっ!」
高く張り上げた声がはるか上空まで飛んでいった。主任魔法研究士――現在は「聖弓魔法奏団指揮官」の声に従い、魔法士たちが一斉に攻撃行動を開始した。扇状に並んだ魔法士たちの最前列から炎の光条が幾本も飛び出し、目前の光景を貫いていった。




