04
急に、空気がたわんだ気がした。耳鳴り。
足元から冷気が立ち上る。ひやりとした温度の中に、覚えのある匂いがした。清々しく、甘い――。
目を開く。
鼻先に義父の指先があって、ひっと息を呑んだ。
けれど、その手がまったく動かない状態にあることがわかった。
義父の手首をつかむ、大きな手。ゴテゴテした指輪が4つ。
思わず顔を上げた。
金髪の輪郭が白く浮き上がり、ピアスが光を弾く。
――コーラさん。
不愉快な顔。多分、かなり怒っている。
「だ……誰だ!? どこから入ってきた!?」
我に返った義父が、突然現れた男の手を振り払って、距離を取った。
不愉快そうに細められた目が、譲に流れる。否。譲の斜め後ろだ。ちっ、と忌々し気に舌打ちする。
その手のひらが、譲の頭上を薙ぎ払った。
またあの香りが流れていって、譲はほっと息をついていた。
苦しかった呼吸が、急に楽になる。肩と背中にのしかかっていた重さが消えた。
「け、警察、警察を……」
義父が、台所の入り口にある固定電話を手に取った。
万華が動いた。床にこぼれた水を踏んで、たった二歩で、義父との距離を詰める。
義父の胸ぐらをつかみ、ソファに放り投げた。電話機が床に落ちて、ツー、という発信音が鳴る。
「義理の娘を襲おうとしてたやつが、警察? 笑わせんなよ」
静かなその声に、わずかに滲む侮蔑の笑い。
それが合図だったのか。義父の体が浮き上がった。まるで何か見えないものに掴まれて放り投げられたかのように、リビングの壁に飛んでいく。壁に押し付けられて、義父の顔が歪む。何かを叫んでいるが、声にならない。音すら奪われているようだった。
「仮にも親子の縁を結んでおきながら、それを穢そうとするとは。おまえみたいな人間が、俺は一番嫌いなんだよ。反吐が出る」
譲は、むき出しの腕をさすりながら、リビングに向かった。立ち込める冷気に、身震いする。
「くそめんどくせえな。――消すか?」
譲ははっとした。その横顔に本気を感じ取って、咄嗟に服をつかむ。
「だ、だめ!」
彼は、譲を見なかった。もう片方の手で、その腕に触れる。
「何も、されて、ないから。私が勝手に、勘違いを、しただけ……だから」
「勘違い? はっ」
万華が笑う。冷たい笑い方だ。譲は目を伏せて、しかし手に力を込めた。
「お願い。その人は、お母さんの、大切な人だから……」
静かになった。
やがて、舌打ちが飛んで、それを合図に義父が床に倒れた。気絶しているようだった。
譲はほっとして、目の前の万華を見る。腕に触れたままだったことに気づいて、慌てて手を離した。
リビングの時計が音を鳴らす。
「あの……どうして……」
「どうして?」
万華はイライラした様子で振り返る。
「おまえが呼んだからだろうが。おかげで番組、いいとこだったのに見逃した。おまえがいなくて、せっかく制限なく見られてたっていうのに」
「……呼んだ……?」
彼は信じられない、といった目で、譲を見下ろした。
髪をぐしゃりと掻いて、不満をぶちまける。
「だから嫌なんだよ、人間に名前を知られんの。簡単に俺たちを呼び出しやがる。神はデリバリーじゃねえんだぞ」
え?
譲は目を見開いた。
「……神?」
「おまえ、本当に鈍感なやつだな。神だよ神。あの神社に祀られてる」
神社の――。
譲は呆然とした。
普通の人間じゃないなんて、とっくに知っていた。
けれど、それがまさか「神様」だなんて。
「……うそ」
信じられない。
「神は嘘をつかねえんだよ」
万華がそう吐き捨てた。
「いいか。おまえ、二度と呼ぶなよ。俺だってヒマじゃねえんだ。次くだらない用事で呼んだらタダじゃおかねえ」
そして彼は、空気に溶けこむように、譲の前から消えていなくなった。
譲は、力なくソファに座り込んだ。
もしかして夢なのかも、と思った。
けれど、床には義父が気絶して眠っている。
多分きっと、目覚めたとき、義父の記憶はないのだろうな。とぼんやり思った。
ソファにもたれかかって、静かに息を吐く。
そうか、とようやく納得した。
祖父がどこかあの人に遠慮していた理由。数々の不思議な出来事。全部がそうだったのだ。
コーラさんは……。
胸が、ぎゅっと苦しくなった。
翌日、譲は下宿先へと帰った。
帰りたいと母に言ったら、あっさり頷かれた。もっと早く言い出していればよかった、と思う。
祖父に帰宅の挨拶をして、離れへ入った。
襖を開けると、エアコンの効いた明るい部屋に、万華の姿があった。
譲のベッドの脇に背を預けて、腕を組んだ状態で、目をつむっている。
胸が規則正しく上下している。伏せられた目の睫毛が、頬に影を作っている。
明るい日差しが、柔らかそうな金髪に落ちて、空気に溶けていくようだった。
一体どれだけ入り浸っていたのか。
空のコーラのペットボトルが、大量にテーブルの上に散乱していた。
譲は、息をひそめて、その寝顔を眺め続けていた。




