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神は嘘をつかない  作者: 梨千子
2. コーラの味
11/20

04

 急に、空気がたわんだ気がした。耳鳴り。

 足元から冷気が立ち上る。ひやりとした温度の中に、覚えのある匂いがした。清々しく、甘い――。


 目を開く。

 鼻先に義父の指先があって、ひっと息を呑んだ。

 けれど、その手がまったく動かない状態にあることがわかった。


 義父の手首をつかむ、大きな手。ゴテゴテした指輪が4つ。

 

 思わず顔を上げた。

 金髪の輪郭が白く浮き上がり、ピアスが光を弾く。

 ――コーラさん。

 不愉快な顔。多分、かなり怒っている。


「だ……誰だ!? どこから入ってきた!?」


 我に返った義父が、突然現れた男の手を振り払って、距離を取った。

 

 不愉快そうに細められた目が、譲に流れる。否。譲の斜め後ろだ。ちっ、と忌々し気に舌打ちする。

 その手のひらが、譲の頭上を薙ぎ払った。

 またあの香りが流れていって、譲はほっと息をついていた。

 苦しかった呼吸が、急に楽になる。肩と背中にのしかかっていた重さが消えた。


「け、警察、警察を……」


 義父が、台所の入り口にある固定電話を手に取った。


 万華が動いた。床にこぼれた水を踏んで、たった二歩で、義父との距離を詰める。

 義父の胸ぐらをつかみ、ソファに放り投げた。電話機が床に落ちて、ツー、という発信音が鳴る。


「義理の娘を襲おうとしてたやつが、警察? 笑わせんなよ」


 静かなその声に、わずかに滲む侮蔑の笑い。

 それが合図だったのか。義父の体が浮き上がった。まるで何か見えないものに掴まれて放り投げられたかのように、リビングの壁に飛んでいく。壁に押し付けられて、義父の顔が歪む。何かを叫んでいるが、声にならない。音すら奪われているようだった。


「仮にも親子の縁を結んでおきながら、それを穢そうとするとは。おまえみたいな人間が、俺は一番嫌いなんだよ。反吐が出る」


 譲は、むき出しの腕をさすりながら、リビングに向かった。立ち込める冷気に、身震いする。


「くそめんどくせえな。――消すか?」

 

 譲ははっとした。その横顔に本気を感じ取って、咄嗟に服をつかむ。


「だ、だめ!」


 彼は、譲を見なかった。もう片方の手で、その腕に触れる。


「何も、されて、ないから。私が勝手に、勘違いを、しただけ……だから」

「勘違い? はっ」


 万華が笑う。冷たい笑い方だ。譲は目を伏せて、しかし手に力を込めた。


「お願い。その人は、お母さんの、大切な人だから……」


 静かになった。

 やがて、舌打ちが飛んで、それを合図に義父が床に倒れた。気絶しているようだった。


 譲はほっとして、目の前の万華を見る。腕に触れたままだったことに気づいて、慌てて手を離した。


 リビングの時計が音を鳴らす。


「あの……どうして……」

「どうして?」


 万華はイライラした様子で振り返る。


「おまえが呼んだからだろうが。おかげで番組、いいとこだったのに見逃した。おまえがいなくて、せっかく制限なく見られてたっていうのに」

「……呼んだ……?」


 彼は信じられない、といった目で、譲を見下ろした。

 髪をぐしゃりと掻いて、不満をぶちまける。


「だから嫌なんだよ、人間に名前を知られんの。簡単に俺たちを呼び出しやがる。神はデリバリーじゃねえんだぞ」


 え?


 譲は目を見開いた。


「……神?」

「おまえ、本当に鈍感なやつだな。神だよ神。あの神社に祀られてる」


 神社の――。

 譲は呆然とした。


 普通の人間じゃないなんて、とっくに知っていた。

 けれど、それがまさか「神様」だなんて。

 

「……うそ」


 信じられない。

 

「神は嘘をつかねえんだよ」


 万華がそう吐き捨てた。


「いいか。おまえ、二度と呼ぶなよ。俺だってヒマじゃねえんだ。次くだらない用事で呼んだらタダじゃおかねえ」


 そして彼は、空気に溶けこむように、譲の前から消えていなくなった。

 

 譲は、力なくソファに座り込んだ。


 もしかして夢なのかも、と思った。

 けれど、床には義父が気絶して眠っている。


 多分きっと、目覚めたとき、義父の記憶はないのだろうな。とぼんやり思った。


 ソファにもたれかかって、静かに息を吐く。

 

 そうか、とようやく納得した。

 祖父がどこかあの人に遠慮していた理由。数々の不思議な出来事。全部がそうだったのだ。

 コーラさんは……。

 胸が、ぎゅっと苦しくなった。



 翌日、譲は下宿先へと帰った。

 帰りたいと母に言ったら、あっさり頷かれた。もっと早く言い出していればよかった、と思う。


 祖父に帰宅の挨拶をして、離れへ入った。


 襖を開けると、エアコンの効いた明るい部屋に、万華の姿があった。

 譲のベッドの脇に背を預けて、腕を組んだ状態で、目をつむっている。

 胸が規則正しく上下している。伏せられた目の睫毛が、頬に影を作っている。

 明るい日差しが、柔らかそうな金髪に落ちて、空気に溶けていくようだった。

 

 一体どれだけ入り浸っていたのか。

 空のコーラのペットボトルが、大量にテーブルの上に散乱していた。


 譲は、息をひそめて、その寝顔を眺め続けていた。

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