未亡人ベリルは守り抜きたい⑧
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「…完敗ですな」
どれほどの沈黙が続いただろうか。
やがて、ハルトマン伯爵が深く長い溜息を吐き出し、天を仰いだ。
その顔には、先ほどまでの激しい怒りはなく、どこか憑き物が落ちたような、奇妙な安堵が滲んでいた。
「アルス卿が遺したものは、数え切れない。その中でも、特に素晴らしいのは、夫人…あなただ。あの男の意志は、確かにあなたの中で生きている」
「もったいないお言葉です、伯爵」
私が静かに頭を下げると、伯爵は王国の高官へ向き直った。
「特使殿。大司教殿が提示された条件、我が帝国は全面的に受け入れよう。後日、両国の国家元首による正式な調印式を取り計らう」
「…っ、承知、いたしました」
高官もまた、ハンカチで額の汗を拭いながら深く頷いた。
テーブル越しに、ハルトマン伯爵と高官が硬い握手を交わす。
それは、両国が流すはずだった無数の血が、新たな希望と利益に置き換わった瞬間だった。
「…よかった」
私は小さく息を吐き出し、そっと胸を撫で下ろした。
エララ様と視線が合い、お互いに、ほんのわずかだけ安堵の微笑みを交わす。
感情だけで訴えかけても、感情で返されるだけなのだ。
感情を押し返すのは、論理的に破綻のない合理性のみ。
そんなことを考えていると、なんだかあの人に近づいていっている気がして。ふふ、と自然に笑みがこぼれた。
◇
国境会談の行われたその日の夜。
私は、ベリルさんが滞在しているクォーツ家の別邸へと招かれていた。
「エララ様、どうぞ。お口に合うとよろしいのですが」
「ありがとう、マルタさん。素晴らしい香りです」
マルタさんが淹れてくれた温かい紅茶の香りが、張り詰めていた私の神経を優しく解きほぐしていく。
テーブルの向かいには、すっかり張り詰めた糸が切れたように、ソファに深くもたれかかっているベリルさんがいた。
「ふふっ。昼間の冷徹な『当主代行』様とは、まるで別人ですね」
「もう、からかわないでください、エララ様。…本当に、生きた心地がしませんでした」
ベリルさんは苦笑しながら、ティーカップに口をつけた。
「でも、見事でした。アルスさん仕込みのあの立ち回り。彼が見ていたらきっと、心から拍手を送っていたでしょうね」
「…そうでしょうか」
ベリルさんは少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「なんだか最近、彼のことばかり考えてしまって。そのせいか、少し体調も…うっ…」
言いかけて、ベリルさんがふいに口元を抑えた。
顔色が悪くなり、少し苦しそうに呼吸をしている。
「ベリルさん?」
「ベリル、大丈夫!?」
「お母様…!」
私とマルタさんとエマさん、皆が慌てて駆け寄る。
マルタさんは背中をさすっていたが、
はっとしたように目を見開いた。
「ベリル…。それに、胸のむかつきや立ちくらみ…。エマの時と…」
「…えっ?」
マルタさんの言葉に、ベリルさんは息を呑んだ。
「私と…同じ?」
エマさんが不思議そうに、マルタさんを見上げる。
「ええ、そうよ、エマ。ベリル――お母様のお腹には、新しい命が、もしかしたら」
「えっ…私、お姉ちゃんに…お姉ちゃんになれるの?お母様!」
エマさんの問いに、ベリルさんは大きく息を吸い込み、そして震える両手で、そっと自分のお腹を包み込んだ。
「そうね、エマ。あなたはお姉さんになるかもしれないわ」
それを聞いたエマさんは、喜びを隠しきれない様子で、早速ベリルさんのお腹に話しかけ始めた。
隣で聞いていたマルタさんはと言うと…。
口元を抑えて泣き崩れている。
「私と、アルス様の…」
ポロポロと、大粒の涙がベリルさんの頬を伝い落ちた。それは、彼を失った悲しみの涙ではなく。確かな希望と、彼が残してくれた愛の結晶への、喜びの涙だった。
「ふふっ…ああ、どうしよう。私、守らなきゃ。エマも、この子も。家も…」
泣き笑いのような顔で、愛おしそうにお腹を撫でる彼女の姿は、とても強く、そしてこの上なく美しかった。
「ベリルさん、おめでとうございます」
窓の外には、争いの火種が消え去った静かで穏やかな夜空が広がっていた。空に瞬く星の光は、まるで私たちを見守る彼のように、優しく、あたたかかった。
クォーツ家に、神のご加護を。
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