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結局のところ、私の願いは届かなかった。数刻の後に、黒衣を纏った狼藉者に、私達は取り囲まれていた。下卑た視線。だが、どのような穢れた欲望を向けられようと、私の内にあるのは、どうか穏便に済んでほしいという願いだけだった。
「こんな夜更けに、お嬢さん方二人で、少し不用心じゃあ、ないか」
「そうだなあ、俺たちが、守ってやってもいいんだぜ?」
何と答えるべきか、私は迷った。愚かな娘を装って、話を合わせておくべきか。硝子樹の実を渡せば、あるいは満足して帰るだろうか。オルニアスで更に謝礼を渡す、と言えば? などと。しかし、そんな私の逡巡に反して、ユースの返答は迅速だった。
「あなたの“腰”の“なまくら”で、何が貫けるというの? 笑わせないでほしいわね」
私は思わず、溜息と共に天を仰いだ。
黒衣の男は一瞬だけ、呆けた顔をしたが、直ぐに怒りに顔を赤くして、腰の剣に手を掛けた。それを合図にしたかのように、一斉に皆が剣を抜き放つ。
「なまくらか試してやるよ。売女めが! 夜通し貫いてやるから覚悟しておけ!」
「ユース……」
「灰は灰に、よ。所詮、こいつらは――」
男の一人が、剣をユースの首筋に押し当てた。そのままユースの腰に手を回す。ユースはそれを一瞥して――
「塵に過ぎないわ」
男の腕に触れた。
「……あ?」
塵は塵に。ユースの言葉通りのことが現実となった。ユースが触れた途端に、男の腕が、白い砂、いや、塩と塵になって崩れ去り、風に流されていく。持ち手を失った剣が落ちて、地面に突き刺さった。
私は殆ど反射的に、ユースに向かって何かを叫ぼうとした。何を言おうとしたのかは、自分でも分からない。男の悲鳴が、私の言葉と意思をかき消したからだ。
「ああああああ!」
叫びを上げて尻餅を突いた男を、ユースは踵で蹴り飛ばすと、悠々と、周囲の賊へと歩いていく。男たちは皆、何が起きたのか理解できていなかった。
「お前たちは、塵よ。塵は塵らしく。夜の風に吹かれ、虚しく散るがいい」
男たちは、恐怖か、あるいは、ユースの総身から放たれる魔力に身を竦ませ、動けなくなっていた。ユースが、取り囲んでいた男の一人に触れると、その男は胸元に風穴を開け、叫びを上げることもなく、絶命した。
ここで漸く、彼らはユースが外見通りの存在でないことを理解したようだった。誰もが武器を投げ捨て、背を向け、逃げ出そうと走り出した。
「待て、ユース、もう彼らに戦意は――」
「戦意はないけど、悪意はあるわ」
ユースが無慈悲に、腕を振るう。光の軌跡が宙に描かれ、無数の稲妻が迸った。稲妻は、大気を焦がしながら、走り出した賊たちの背中を次々に打ち抜いていく。
「……」
言葉もなかった。私は、失った腕と、徐々に崩壊していく身体を見ながら、うわ言を呟いている男に視線を向けた。
「……なぜ、とは聞きかない。誰であれ、生きている以上、何かしらのやむにやまれぬ理由はあるものだろう。しかし……軽薄さの代償が死とは」
「あ……? 俺が、軽薄……?」
私は口を噤んで何も答えなかった。答えるべきではないと思ったからだが。私の態度が癇に障ったらしい。男の虚ろな瞳に、怒りからか光が戻ってくる。男は健在な方の腕で、剣を手に取った。
私はただ、男を見ていた。
「ふざけやがって……俺はな……常に覚悟をして……生きていた! お前のような……どこぞの令嬢とは違う」
どうやら男は私のことを、貴族の令嬢か何かだと勘違いしているらしい。私も敢えて訂正することはしなかった。
「覚悟か。だが――」
「なら何故、そもそもこんな賊に成り下がったの? 馬鹿馬鹿しい」
私の言葉を遮って、ユースが口を挟んだ。私は思わずユースを見たが、ユースはそれを無視した。
「ねえ、あなた、もしかして……自分がこれから死ぬのは、運が悪かったからだとか思っていない? それとも、こんなことをしなければならない世界が悪いとか、そんな風に思ってる? 生まれた環境が悪かったとか……そんな風に本気で思ってないかしら」
ユースの言葉に、男はたじろいで目を眇めた。
「だから、あなたは軽薄なのよ。あなたの覚悟は、その程度。そんなんだから、あなたは風に吹かれて散る程度の、塵なのよ。あなたを殺す前に、ひとつ教えてあげるわ」
「おい、ユース。殺す必要は……」
「殺すわ。殺す必要は大いにある。ヘレーネ、あなたも私の話をよく聞いておくべきだわ」
ユースは腕を広げて、身体を捻り、美しい髪を揺らした。
「星の女神は、他の神々と違って、己の被造物である、あなたたち人間に、特別な加護を与えなかった。何故だと思う?」
ユースの問いに、私は答えられなかった。答えを知らなかったからではない。私にはユース言いたいことが既に分かっていた。その上での細やかな反発だった。
「それは、女神が、自分が創ったものに責任を負わない糞野郎だったからだ、そうだろ? 俺を産んだ母親と同じだ!」
「その通り。と言いたいところだけど、違うわね。そんなもの、不要だからよ。死より何度でも蘇生する無限の命も、あらゆるものから傷付けられない永遠の身体も。過剰にもほどがある。馬鹿馬鹿しい。星の女神が人間に与えた、たった二つのもの。それだけで十分だったからよ」
神話において、神々は、己の生み出した生き物達にそれぞれ特別な加護を与えたが、星の女神だけは、何も与えずに、ただ、秩序とそれを守る術を授けたという。
「道徳と法が俺を守ってくれたことはないね。そして、俺が殺した者を守ったこともない」
「ええ、そうね。だからあなたは死ぬのよ。分かる? あなたは法と道徳を投げ捨てた。私は別にそれが、悪だとか、そんなことを言うつもりはないの。ただ、馬鹿なことをしたと思ってはいるわ。だって、そうでしょう。道徳と法だけが、実際、弱者が強者と釣り合いを取るために必要な道具なんだから。端的に言って……何の力も覚悟もない無能なあなたは、ただ奴隷として生きていれば、死なずに済んだのに」
私がユースを黙らせるより早く、男の剣がユースの首元を狙った。鋭い突きだった。熟練の騎士でも、容易く放てるものではないだろう。それだけの怒りが込められた一撃だった。だが、剣がユースに触れることはなかった。ユースに触れる前に、剣は塵となって、風に攫われてしまった。
「あなたは結局、自分の弱さから逃げたのよ。奴隷として、社会や自身より高尚な存在の道具として生きる覚悟も、社会を打倒する覚悟も、死ぬ覚悟さえないから……あなたはより弱い者を殺して生きることにした。どんなに悲劇ぶったって、結局はそれだけでしょう。いえ、勿論、それは別にいいのよ。だって、してるのよね? 覚悟。当然、自分より強いものに殺される覚悟を、してるのよね? なのにどうして……狼狽えているの? 震えているの? 恐れているの?」
ユースの手に光が収束していく。
「それとヘレーネ。あなた、さっきその男に、『誰であれ、生きている以上、何かしらのやむにやまれぬ理由はあるものだろう』と言っていたわね。ヘレーネ、それは逆よ。だからこそ、特定の誰かを憐れむ必要なんてないの。誰だって、何かしらの理由があるんだから。別に、この男だけじゃないわ。覚えておいてね、ヘレーネ。あなたの大好きな平等というのは、そういうものよ」
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『彼は呪うことを好んだのだから、呪いが彼自身に返るように』
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私は憂鬱な気分で、燃え盛る炎を眺めていた。
私の憂鬱は、別にユースの行いが原因ではない。ユースの行動は確かに過激だったが、それそのものを咎めるつもりは、私にはない。どうであれ、ユースがいなければ、私は死んでいたか、奴隷か、良くても賊たちの情婦になっていただろう。
軽薄なのは、私の方だったのだ。
そもそも、ユースが行動を止めなかったのは、それを私が許したからである。ユースは契約に縛られているのだから、私が本心からユースを止めようとしていれば、あの男たちは生き長らえたはずなのだ。
しかし、そうはしなかった。何故ならユースの言う通り、そして彼ら自身が言う通りに、私は彼らにも覚悟があると、そう思ったからだ。彼らは自分の意志で、道徳と法を軽んじたのだと。
しかし、覚悟など……彼らに覚悟を求めた時点で、私は総ての弱者に同じように覚悟を求めたのではないか。
それは何と、酷なことだろうと、私は思う。残酷なことだ。私は結局、彼らを許せなかった。だから、彼らは死んだのだ。