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愚かにも私は、森林の出口が近付いて漸く、禁域への出入りを環視しているであろう門番の存在について思い至った。何故、今に至るまで考え付かなかったのだろう。己の愚かさに思わず、溜息が漏れる。
私は、門番になんと話を付けるか必死に考えたが、良さそうな案は何も思い浮かばなかった。何を言ったところで私とユースの容姿では冗談にしか聞こえないだろう。
「止まれ! おい、おい、お嬢さん方、森で一体、何をしていた? 森への立ち入りは禁じられているんだぞ」
「……オルニアスからの立ち入りは禁じられているかも知れないが、王国からの通行は禁じられていない。そうでしょう?」
物語の主人公であるのなら。きっとここで妙案を思い浮かぶのだろうが。生憎と|何も思い浮かぶことのなかった私は下手な嘘を吐くぐらいならば、事実を言って狂人と見られることを選んだ。案の定、門番は顔を顰めた後に、鼻を鳴らして笑った。私も同じように笑った。因みに。王国側からの立ち入りが禁止されていないのは事実だ。そのような法律も御触れも存在していない。敢えて禁じるまでもなく、誰も近寄らないからだが。
私は、微笑んだまま、続けた。
「私には、星の瞳がある。赦しの瞳が。その印が。私が森へ入り、或いは、出ることに、どんな瑕疵が?」
「はは、印などあるわけがない。お嬢さんが女神の巫女だとでも言うのか? 安心しろ。悪いようには――」
不意に、門番の声が途絶えた。私は訝しんで、眉を顰めた。門番は私を睨め付け、些か乱暴に、私の前髪を掴んで持ち上げた。私は門番の瞳がうっすらと青白く発光しているのを見た。青白く輝く瞳は、霊の瞳。霊的な視力の証であるという。
「馬鹿な、ある。本当にあるぞ」
ユースは私を掴んでいる門番の腕を振り払うと、門番を睨み付けた。ユースの容姿が異様に整っているが故に、その視線に宿る怒りが、一層浮き彫りになっていた。
流石、魔術師の国。霊の瞳を持つ門番とは豪勢なことだ、などと。呑気なことを考えていた私は、ユースの怒りに、思わず、困惑してしまった。可哀想な門番は蒼褪めて膝を着き頭を下げた。
「大変な……無礼を。どうか、お許し下さい」
私は職務に忠実なだけの門番を些か不憫に思ったが、ユースはそうは思わなかったらしい。
「女神は貴方を罰するでしょう。貴方は侮ったのだから。あらゆる秩序と平等の女神、その信徒を」
私は、呆れて、思わず溜息を洩らした。女神はそこまで狭量ではないだろう。神話において神々は地上の争いの醜さに見かねて天へと去ったとされる。だが、星の女神だけは最後まで地上に残り、世界が安定するまでの間、全ての生を見守ったとされている。星は夜を照らさず、されど、ただ見守るもの。故に、星光は、慈悲深い女神である。
門番は可哀想にすっかり蒼褪めて震えていた。私は門番の肩に触れて、立ちあがるように促した。
「大丈夫。女神は貴方の誠実な勤務態度を祝福する筈です。罰するなど、在り得ない。星に誓って。誠意はあらゆる過ちを免責するものです」
*
私はてっきり、大陸北部には常に雪が降り積もっているものだとばかり思っていた。王国に住む誰もがオルニアスは雪国であるということばかりを話すので、妙な勘違いをしていたらしい。実際には、冬季から初夏までの間にしか雪はないのだという。
私は安堵したと同時に少しばかり残念に思った。私は生れてこれまで、雪というものを見たことがない。知識として知ってはいても、体感したことはないのだ。とはいえ、雪はなくとも夏季にしては肌寒いのも事実であり、王国の温暖な気候に慣れていた私は、適応するのに難儀していた。
オルニアス自治領は、オルニアスの魔術大学を中心に発展した都市国家である。古い時代の王国において、月の女神に仕えていた魔術師達が、同じく月の女神に仕えていた司祭達から疎まれ迫害された際、星の女神の導きで、硝子樹の大森林を抜け、逃れ出た者達が寄り集まって出来たとされている。
それが事実かどうかを知る由はない。だが、なんであれ、硝子樹の大森林と竜の山脈によって、大陸は上下に分断されている。帝国も王国もオルニアスには手を出せずに、自治領として認めざるを得ないらしい。
私達は、オルニアスに向かう前に、近くの町で物資を調達することにした。ユースは兎も角としても、私には野宿をする為の寝具や雨具が必要だった。夏季とはいえ、寒冷地なら猶更である。
食料に関しては、館から持ち出した堅いパンや、干し肉が幾つかあったが、決して、余裕があるとは言えない。何よりも水分に関しては致命的な問題があった。
私はあの館から、葡萄酒の瓶を何本か頂戴していた。綺麗な水の代わりとして。館で見付けた大きな鞄に詰めて、小さい方を私が。大きい方をユースに持たせてある。だが、この幼い少女の身体は、致命的に酒に弱かった。
森林の門番が、無一文の私達を見かねて、幾許かの銀貨と銅貨、そして水が入った革袋を恵んでくれていなければ 、とっくに渇きに狂っていただろう。
*
「……はぁ……っ……はぁ」
この幼い身体は、当然のことながら、過度な運動には適していなかった。いや。身体ではなく、私自身が、かもしれないが。まして、子供故の溌剌さなど、既に思い出の彼方にしかない。
私とて。子供の頃は、今よりは少しばかりマシだった。私“達”は駆け巡る風だった。太陽と月。二人の私の友人。彼等と王都を走っていた時は、どれだけ道を往ったとしても、疲れることはなかったというのに。
友を失った時に。私は私の幼さと。そして、それ故の無垢さと。その特権を失ったのだろう。どれだけ外見が変わろうと。所詮、私は──
「──ユース……はぁ……休憩に、してくれ」
ユースは不満こそ言わなかったものの、疲労から動けない私の身体を好き放題に弄んで楽しんだ。そのせいで尚更休息が長引いて、結局、町へ辿り着く前に、野宿をする羽目になった。本来ならば、半日ほどで着く道程だったのだが。
私は、整備された道の横で野宿をするのは何処か馬鹿馬鹿しいとは思ったが、荒野の只中や森の中でするよりは何倍もましだった。勿論、野宿などしないほうがよいに決まっているが。
私達は、ユースが魔術で起こした火で暖を取り、疲れを癒した。開墾された見晴らしの良い平野。草木は少なく、薪となるようなものは多くなかったが、ユースの力の前では薪など不要だった。火は虚空に揺らめき、世界そのものを薪としているかのように、消えることなく、燃え続けた。
良く知られていることだが。魔術は、発現させるよりも、維持する方が困難であるという。虚空に燃える火は、精霊の力、その強大さの表れだった。
「ねえ、ヘレーネ。気付いている?」
「……。ああ、少し前からだな。こんな見晴らしのよい路で襲って来るとは思えないが」
「残念だけどね、ヘレーネ。この道の最果ては硝子樹の大森林なのよ? そして私たちは、そこからやって来た。分かる? 普通の人間は、こんな道通らないの。だって、行き止まりなんだもの」
「……確かに」
私は観念して溜息を吐いた。視線を向けた道の先に、複数の人影が闇に紛れて在った。黒い外套を纏い、意図的に夜に隠れ、此方の様子を窺っていた。
私の瞳が暗闇をよく見通すのは、星の女神が私に刻んだ加護の故なのだろうか。だとしたら、女神の加護も案外大したものではないのかもしれない。
「ユース、もし仮に……あれが夜盗の類だとして」
「十中八九そうでしょう」
「……私に逃げ切れる可能性はあると思うか?」
「ないわね」
逡巡することなく答えたユースに、私は、小さく息を漏らした。
「だろうな」
「安心なさい。私なら、この場から一歩も動かずに、あいつらを塵に還すことが出来る。貴方が、そう望んでくれるなら」
私は、彼方にいる顔も見えない人影の方を向いた。ユースの言葉には、恐らく一片の欺瞞もない。私は、ユースの指先から迸った稲妻が、館の壁を跡形もなく粉砕したのを思い出し、思わず、身を縮めた。
「まあ……敢えて此方から、手を出すこともない。彼等が賢明であることを祈ろう」
「では、もしも賢明でなかったら」
私は口を噤んで、空を見上げた。何と答えろというのだろう。
「星の女神は……“今度は”助けてくれないわよ」
「分かっている。……だが、その時は、お前が私を助けてくれるのだろう?」
ユースは満足そうに笑って、私の頬に触れた。私は濡れた犬のように首を振ってそれを解く。
──本当に。彼等が賢明であることを祈るしかない。私は善悪を語るほど高尚な精神は持ち合わせていないが。……然し、彼等は分かっているのだろうか。夜盗であれ盗賊騎士であれ……法や道徳とは互いに交わされる約束だ。それそのものが意味を持つわけではなく、善悪を規定するわけでもない。
「……法を破ることが悪なのでも、道徳に反することが悪なのでもなく。そして罪人は悪故に裁かれるわけでもない」
「あら、詩人なのね、ヘレーネ。まあ、私ならもっと端的に言うけれど」
『弱さよ、汝の罪は軽薄なり』




