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私は、小走りで、その建物へと近寄り扉を叩いた。返答はない。勿論、幾ら頭が回っていなくとも、このような場所に人が住んでいるとまでは思っていなかった。
私は扉に手を掛けると、おずおずと真鍮の取っ手を引いた。――開いた。鍵は掛かっておらず私の淡い期待は守られた。建物の中は私の想像に反して、小奇麗で、埃っぽくなかった。木の腐った匂いや雨漏りの匂いもしなかった。石畳の床は冷たくひんやりしていたが、夜風を防げるだけで外よりも格段に暖かかった。
私は部屋を物色して、幾つかの脆い毛布と葡萄酒を見付けた。葡萄酒は信じられないことに、透き通る硝子の容器入っていた。暖炉と薪(即ち、硝子樹ではない普通の薪木である)も見付けたが、残念ながら火付け道具は見付からなかった。
私は外に落ちている硝子樹の葉と適当な金属片を用いれば火を起こせるのではないかと思案したが、直ぐに面倒になって諦めた。恐らく、堪え性のない私には無理だ。
私は大人しく毛布を何重にも重ねて眠ることにした。
*
目が覚めると、まだ辺りは暗かった。部屋の燭台に、火は灯っておらず、私が眠ったのは窓辺だったので(窓には透明な硝子が嵌め込まれていた)朝が来れば直ぐに分かる。私は再び眠りに着くか迷ったが、頭は妙に冴えていて、再び目を閉じる気にはなれなかった。
私は眠る際に枕元に置いていた葡萄酒の栓を外して(硝子製の栓と魔法によって封印されていた。行商がよく使う魔法であり私にも覚えのある魔法構文だった)呷った。喉が焼けるような感覚を覚えて、思わず咽てしまう。
私は酒が好きではない。然し、現状、飲み水が貴重であるのは間違いなく、我慢するしかなかった。私は酒が好きではない。好きではないが、生憎、酔いには強くその点に関しては幸運だった。
私は立ち上がり背筋を伸ばすと、昨日物色することのなかった部屋を歩き回った。
最初に入った部屋で品質の良い大きめの鞄を見付け、私はそれを頂戴した。葡萄酒の容器を入れるのに都合が良かった。
また、真銀(地下の妖精が好むらしい金属)で織られた赤い外套を発見した。真銀を用いた銀糸の布鎧は熱に強く、軽く、強靭であり、祷りの為に軽装を好み無骨な鉄鎧を厭う神殿騎士に愛用されたという。更に言えば赤い木の実の汁と儀式で聖別された真銀は霊的な守りを持つ。外套自体は少々、装飾過多なきらいがあり、私の趣味ではないが、寒さを凌ぐには丁度良い。有難く頂戴した。
不思議なことに館は、外観から想像していたよりも広く、魔法的な力を用いて拡張されているらしかった。そのような魔法が存在するとは聞いたことがないが、私にとっては目の前にあるものだけが真実であり、疑う余地はない。
一階は粗方探索を終え、館の奥、最後の扉を開こうとした時だった。鋭い、焦燥に似た直観が、胸を貫いた。扉に手を掛けたまま、私は彫像のように固まり、理由なき躊躇から静止していた。
扉を開けてはならぬと、何かが告げていた。私は扉から手を離し、一歩下がる。そして扉を注視した。扉には力ある神の言葉が刻まれていた。
私は震える手を意思の力で律しながら、扉に再び手を掛けた。扉をゆっくりと引く。――だが、拍子抜けしたことに扉はびくりともしなかった。私は震える手で扉を離した。思わず零れた溜息が安堵のものなのか、或いは、落胆なのか、自分でも判断が付かなかった。
私は最初に見つけた部屋に戻り、探索によって得たものを分別し、鞄に詰めた。
館を散策している内に、ひとつ気が付いたことがある。この館に置かれている物には、文化的な統一性がない。例えば、私が客間のような部屋の暖炉上で見付けた短刀には、八つの矢の紋章が刻まれていた。八矢の紋章はレライエ(現在、愚かにも、此の大陸中部は二つに両断されている。即ち、レライエとオノケリスの二国に)の王家を表している。
だが、私が別の場所で見付けた、金属片(儀式用の槍の穂先であると思われる。通常、柔らかな銀を鋭く研ぎ澄ませる理由は他にはないだろう)には背に火を持つ蜥蜴の紋章が刻まれていた。火蜥蜴は、火の象徴であると同時に、呼び水の象徴であり、魔術的な意匠としては珍しいものではないが、故に有名な意匠は記憶に残っている。
此の火蜥蜴と風精が向かい合う紋章は、帝国の騎士団が用いる意匠である。
他にも森の妖精が鍛冶に使う特殊な魔術文字が刻まれた指輪や、獣人が好む奇抜な(端的に言えば、隠しどころが曝け出されている)衣装なども見付けた。
此の館が如何なる理由を以って建てられたのかについて、私には知る由もない。始めに私は、星の女神が、自らの加護を与えた信徒たちの休憩所、若しくは、家として、此の館は用いられたのでないかと推測したのだが。
館の中には宗教的な側面は見られなかった。――あの扉に刻まれた古き神の言葉は別であるにしても。
だが、何れにしても、この館を複数の存在がかつて使用したことは間違いないだろう。そして、その何人かは、私と同じ境遇であったに違いない。では、かつてこの館を利用した人間は、無事に森を抜けることが出来たのだろうか。……私には、そのことで明るい希望を持つことが出来なかった。そもそも、この館に置かれていた様々な物品の数々が、かつてのこの館の利用者のものであるのならば、彼等はこの館から出てさえ――
私は、嫌な予感に駆られ、立ち上がった。窓からいつの間にか光が差し込んでいる。夜が明けたようだ。防寒具は手に入れた。いつまでも、この館に留まる理由もない。そう自分に言い聞かせ、私は小走りで玄関へ向かった。