私は、小走りで、その建物へと近寄り扉を叩いた。返答はない。勿論、幾ら頭が回っていなくとも、返答があるとは思っていなかった。
私は扉に手を掛けると、おずおずと真鍮の取っ手を引いた。
────開いた。
鍵は掛かっていなかった。幸いにも、私の淡い希望は守られたわけだ。建物の中は、私の想像に反して、小奇麗で、埃っぽくなかった。木の腐った匂いや、雨漏りの匂いもしなかった。磨かれた石畳の床は冷たくひんやりとしていたが、夜風を防げるだけで、外よりも格段に暖かかった。
私は部屋を物色して、幾つかの脆い毛布と葡萄酒を見付けた。葡萄酒は信じられないことに、透き通る硝子の容器に入っていた。暖炉と薪(即ち、硝子樹ではない普通の薪木である)も見付けたが、残念ながら火付け道具は見付からなかった。
私は外に落ちている硝子樹の葉と適当な金属片を用いれば火を起こせるのではないかと考えたが、直ぐに億劫になって諦めた。恐らく、堪え性のない私には無理だ。
私はその日は大人しく毛布を何重にも重ねて眠ることにした。
*
目が覚めると、辺りはまだ暗かった。
部屋の燭台に、火を灯すことは出来なかったが、私が眠ったのは窓辺だったので(窓には錬金術師達が使うような、透明な硝子が嵌め込まれていた)日が昇れば、直ぐに分かる。
私は再びの眠りに着くか迷ったが、頭は妙に冴えていて、再び瞼を鎖す気にはなれなかった。
私は立ち上がり背筋を伸ばすと、昨日物色することのなかった部屋を歩き回った。
最初に入った部屋で品質の良い鞄を見付け、私はそれを有難く頂戴することにした。
また、真銀(地下に住まうの土妖精が好むらしい貴金属)で織られた赤い外套も発見した。真銀を用いた銀糸の布鎧は熱に強く、軽く、強靭であり、祷りの為に軽装を好み無骨な鉄鎧を厭う神殿騎士に愛用されたという。更に言えば赤い木の実の汁と乙女の儀式で聖別された真銀は霊的な守りを持つ。外套自体は少々、装飾過多なきらいがあり、私の趣味ではないが、寒さを凌ぐには丁度良い。これも、有難く頂戴することにした。
不思議なことに、この建物は、外観から想像していたよりも異様に広く、魔法的な力を用いて、空間を拡張されているらしかった。そのような魔法が存在するなどとは聞いたことがない。だが、私にとっては目の前にあるものだけが真実だった。疑う余地はない。
一階は粗方探索を終え、建物の奥、最後の扉を開こうとした時だった。鋭い、焦燥に似た直観が、胸を貫いた。扉に手を掛けたまま、私は彫像のように固まり、理由なき躊躇から静止していた。
扉を開けてはならぬと、何かが告げていた。
私は扉から手を離し、一歩下がる。そして扉を注視した。扉には力ある神の言葉が刻まれていた。
私は震える手を意思の力で律しながら、扉に再び手を掛けた。扉をゆっくりと引く。――だが、拍子抜けしたことに扉はびくりともしなかった。私は震える手から扉を離した。思わず零れた溜息が安堵のものなのか、或いは、落胆なのか、自分でも判断が付かなかった。
私は最初の部屋に戻り、探索によって得たものを分別し、鞄に詰めた。
この建物を散策している内に、ひとつ気が付いたことがあった。
この建物に在る物品には、文化的な統一性がない。例えば、私が客間のような部屋の暖炉上で見付けた短刀には、八つの矢の紋章が刻まれていた。八矢の紋章はレライエ(現在、愚かにも、此の大陸中部は二つの統治に両断されている。即ち、王国と帝国の二国に)の王家を表している。
だが、私が別の場所で見付けた、金属片(儀式用の槍の穂先であると思われる。通常、柔らかな銀を鋭く研ぎ澄ませる理由は他にはないだろう)には背に火を持つ蜥蜴の紋章が刻まれていた。火蜥蜴は、火の象徴であると同時に、呼び水の象徴であり、魔術的な意匠としては珍しいものではないが、故に有名な意匠は、私の記憶に残っていた。
此の火蜥蜴と風精が向かい合う紋章は、帝国の騎士団が用いる意匠である。
他にも森の妖精が鍛冶に使う特殊な魔術文字が刻まれた指輪や、獣人が好む奇抜な(端的に言えば、秘所が曝け出されている)衣装なども見付けた。
此の建物が如何なる理由を以って建てられたのかについて、私には知る由もない。
だが、何れにしても、この建物を複数の存在がかつて使用したことは間違いないだろう。そして、その何人かは、私と同じ境遇であったに違いない。
では、かつてこの場所を利用したものは、無事に森を抜けることが出来たのだろうか。
……私には、そのことで明るい希望を持つことが出来なかった。そもそも、この建物に置かれていた様々な物品の数々が、かつてのこの場所の利用した者達の残留物であるのならば、彼等は────
私は、嫌な予感に駆られ、立ち上がった。窓からは、いつの間にか光が差し込んでいる。夜が明けたらしい。防寒具は手に入れた。いつまでも、この場所に留まる理由はない。そう自分に言い聞かせ、私は小走りで玄関へ向かった。