宿屋
目を覚ましたら、部屋の中が明るかった。
外からは昼の日差しが注ぎ込んでいて、行きかう人々のざわめきが聞こえて来る。火の国の都市ヒューバーの宿屋だ。
(……帰って来たのよね?)
うーん、良く思い出せない……。
魔王戦が終わって気を失った気がする。
(ああ……死ななかったのね。本当に良かった)
ベッドの上に半身を起こして、ぼんやりと考える。
長い艶やかな黒髪に、細い腕と白い肌。それはアンジェリカのもの。
生きて帰れたのだ!怪我もしてないように見える。
(ギデオンがあんなに心配していたものね。きっとこれで、長い旅が終わったのよ)
思えば本当に長い旅だったのだ。
アンジェリカとして、リリーとして、ライラとして。
何度も向き合ったのは、同じ魔王だった気がする。あの黒光りする大きな瞳と何度も対峙した。
ガチャリ、と扉が開く音がして、顔を上げるとギデオンが買い物袋を持って入ってきた。
あれから何日経ったんだろう。
彼はいつもと変わらない様子の、平民と変わらないシャツとズボンに身を包んでいるけれど、鍛えられた肉体は隠せない。整った美しい顔立ちも、その煌めく銀色の髪も、一目で人を惹き付けるのだ。彼はとても魅力的な人だ。
ギデオンは起き上がっている私を見て一瞬動きを止めた。
「……目を覚ましたのか」
真顔で私を見下ろして、アイスブルーの瞳は私をじっと見つめた。そうして少し考え込むように黙った。何かしら?
「魔の山を下りてどれくらい時間が経ったの?」
「三日だ。途中少し飲食をさせたが……覚えているか?」
「ううん。そう……」
「……アンジェリカだな」
「え?」
ギデオンは荷物を机の上に置くと、ベッドの端に腰かけ、私の額に手を宛てた。
「熱はないな。体調はどうだ?」
「……」
額に彼の体温を感じる。
触れられたところから熱が広がるように体が熱くなる。
そうしてすぐ目の前には彼の顔がある。
「どうした?アンジェリカ」
息が掛かりそうなほど近くで、彼が私の顔を覗き込んでいる。
心臓がどくどくと跳ね上がる。
え?なにこれ?
体温が上昇している。動悸。息切れ。え。病気?
「顔が赤い?」
「……」
「レイルを呼ぶか」
立ち上がろうとするギデオンの腕を掴んで引き止める。
「なんだ?アンジェリカ」
「おかしいけど……おかしくない」
「……は?」
「体がおかしいけど!病気じゃない!と思う……」
「なんだそれは」
討伐前に一月ほど過ごしたこの宿は何も変わらない。私の体も変わらない。何も変わらないはずなのに。
(何かしら……?何か変よね?)
違和感を覚える。何も変わらないのに。何もかもが変わっている気がする。
「大丈夫だから……あれからのことを聞かせて」
「……討伐隊は、もう王都に帰った。俺たちも一度戻らねばならない。けれど寝たきりのアンジェリカを無理に移動させたくなかった。俺たち四人だけ後から戻ることを了承してもらっている」
「そう……」
「誓約書に従い支度金ももらってるし、一度は戻る必要がある。それに呪いのこともだが、まだやることは残されてる」
「そうよね……戻りましょう。私も一度家に戻るわ。勘当されてないみたいだし……」
ギデオンは私の言葉に軽く頷いた。
「分かった、なら俺が送り届ける」
「ありがとうギデオン」
彼は考えるように手を組んだ。そうして少し言いよどむ。
「……俺と一緒に居たいと言っていたのは、本気なのか?」
「あ……」
彼は、討伐に向かう前の私の話の続きをしようとしている。
「俺としてはとても嬉しいことだが……どこまで望まれているのか分からないから話をしておきたい」
そうよね、私は言いっぱなしだったし……。
「……なにも無理する必要はない。アンジェリカが望む通りにする。どうやって過ごすことを望んでいる?」
「どうやって……?」
「たまに会う程度でいいのか?頻度は多い方がいいのか?それとも共に暮らすことまで望んでいる?皆で暮らしたいか?俺は良い友人であればいいのだろうか」
「……」
え、と思う。ややこしいことになってる!と。
だってそんなつもりじゃなかった。
言った時の私は『彼が望んでくれるなら、夫婦のように暮らしたい』くらいに思っていた。
元々のアンジェリカの望んでいたように、彼の子供を作って生きられないかと。
でもきっと、彼の気持ちが良く分からない私では迷惑になるだろうから、仕方ないから友達くらいの距離かしら?とも考えてた。
でもそれを聞いたギデオンは、友人のようにか?と真っ先に考えてくれた。それ以上考えてない。
という、私たちの気持ちの行き違いを、今の私は簡単に訂正出来ない。
(私何考えてたの。ギデオンと夫婦!?子供を作る!?)
子供……子供を作るには……男と女が……。
めしべとおしべが……。
頭がぐるぐるとする。
夜の営みが……。
それ以前に結婚もして……。
え?結婚式?私が?誰と?
――ギデオンと!?
「アンジェリカ」
「ひゃう」
「……なんだ?」
「なんでもないです……」
私の心臓潰れちゃうんじゃないかしら。酷使のし過ぎで。ずっと早鐘を打っている。
これは何かしら。心臓がずっとむず痒いような、溢れそうな想いでいっぱいなのだ。
ギデオンが訝しむように私を見つめている。
「お前おかしいぞ。体が辛いんだろう。少し寝ていろ。また話そう」
「うわっ」
ギデオンが私の頬に手を宛てて「熱い」と言った。
立ち上がろうとするギデオンの腕を私はまた引き留めた。
「待って、行かないでお願い、ギデオン……」
「なんだ?」
「一人にしないで……あなたと一緒に居たいの」
「……」
探るような視線を向けた後に彼はまたベッドに腰を下ろした。
近い。
それに、とってもとっても今更なのだけど……。
密室で、薄い寝巻一枚の私は、同じベッドの上でギデオンと見つめ合っている。
(ああ、本当に私には恥じらいなんて全くなかったのね。どうしていままで平気だったのかしら……!)
ここに来るとだいぶ分かってきた。
今の私はライラの心にとても近くなっているんだ。
魔王を倒したせいなのかもしれない。ライラの夢をたくさん見ていた。
思えば、アランを好きになった気持ちだって今は正確に思い出せる。大好きで恋して仕方なかった人。
そうして今目の前にいるのは……。
アランの記憶を持っていて、リリーの養い子で、アンジェリカが一目で欲しいと思った男の人。
不完全な心と体を持つ私を、それでも好きだと言ってくれて、抱えて生きてくれようとしたギデオン。
『忘れるな。俺が好きなのは、何度も魂をすり減らした今のアンジェリカだ。ぽんこつな情緒と、人を振り回す行動をする、何をしでかすか分からない子供みたいなやつだ。普通を求めているわけじゃない』
『今のままでいい。楽しいことをして生きろ。嬉しいことに笑え。少なくとも、リリーもアンジェリカも知ってる俺たちは、そんなありのままのお前と過ごす事が他の何よりも楽しいのだから』
『お前はそのままでいい。ずっと一生でも、俺の側にいてくれ。それは、俺にとっても一番に嬉しいことだ』
何も返せない私に、大きな大きな愛情を与えてくれようとした。
どうしてそれほどまで私を求めてくれたんだろう。
私は愛を知る前から、愛されることだけ知ってしまっていた。
言葉に出来ない想いが溢れて、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
悲しいんじゃない。嬉しくて、どうしようもなくて涙が出るのだ。
「どうして泣くんだ?」
突然泣き出した私の頬をギデオンが撫でる。困惑しているのが伝わってくる。
「辛いのか?また何か思い出したのか?」
「違うの……」
「なんだ?」
「あの……あのね」
「ああ」
「私を抱きしめてくれる?」
「……ああ」
ギデオンの逞しい腕が私抱きかかえる。
大きな胸に顔を沈めて、彼の体温を全身で感じると、彼の手が私の背中をなだめるように撫でていく。
ほっとするように体の力を抜いていく。
彼の胸の中は世界で一番安心する。
私を一番に幸福にするのは、この人の存在だけ。
切ないような苦しいような気持ちが溢れて、伝えなくてはどうしようもない衝動に駆られる。
私はこれをライラの時に経験している。
アランには伝えられなかった。あの時は……想いあうことも出来ずに終わってしまったけれど。
「ねぇ、ギデオン」
「なんだ?」
「私あなたの腕の中が安心するのよ」
「知っている」
「……あなたが好きよ。ギデオン」
私の言葉に彼は一拍置いてから、体を勢いよく引き放した。
「……は?」
「私はあなたに恋をしているわ。あなたが、男性として好きなの」
「……」
無表情に私を見下ろす、全く信じていないギデオンの瞳を見て思わず笑ってしまう。
たぶんだけど、またいつものやつだくらいに思って聞き流そうとしている。
そっと彼の片手を取ると、彼の大きな手を私の心臓の上に宛てる。
「心臓の鼓動が凄いでしょう。こんなことをしてて、恥ずかしくて私叫び出しそうなのよ」
「……」
「ライラがアランを好きだった時よりも、もっとずっと、アンジェリカはギデオンが好きだわ」
私の台詞に、初めて彼の瞳が揺れる。
「私と付き合ってくれる?ふふ、いつかの台詞の逆みたいね」
アランから言われてあの時の私は怒ってしまったけど。
「恋人になって、結婚して、子供にも恵まれたら嬉しい……私は普通の人として生きてみたい。ずっと望んでも得られなかった生き方を今度こそしてみたい。あなたの隣で」
真っすぐに彼を見据えて言うと、彼は段々と頬を赤く染め上げていく。
「……本気なのか?」
彼が信じられない気持ちも良く分かる。だって私はずっと彼を振り回していたのだから。
「愛してるわ、ギデオン」
私の台詞に目を見開くようにしたギデオンは、震える腕を私に回して来た。強い力で抱きしめられる。
「愛してる、アンジェリカ」
「私もよ」
この人が好き。
だけど私はまだ、自分の気持ちの変化に戸惑ってる。きっとギデオンだってそうだろう。
大丈夫。私たちには時間がある。これからゆっくりと、新しい気持ちを育てていければいいのだ。




