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第1話 ガクチカがなかったから

 田中誠、二十五歳。


 「同じ会社に三年は勤めろ」と世間は言う。無責任な言葉だと今は思う。三年経つ前に、人間の方が先に壊れることもあるのだと、誰も教えてくれなかった。


 俺が入れたのは証券会社の営業職だった。それも三次募集でやっとだ。金融、コンサル、商社。花形と呼ばれる職種はことごとく落ちた。エントリーシートは通る。筆記試験も悪くない。なのに面接に進むたびに、決まって同じ質問が待っていた。


「学生時代、力を入れたことは何ですか」


 何がガクチカだ。


 俺は地方都市の、いわゆる中流家庭の出身だった。親は教育費だけは惜しまなかった。塾にも通わせてくれたし、参考書も好きなだけ買わせてくれた。だが留学や、部活・学生団体でリーダーシップを発揮するといった、今の就活で評価される「経験」には、金も時間も回らなかった。共働きの両親に、休みのたびに海外や合宿に送り出す余裕なんてなかったからだ。


 実家の太い連中が内定を総なめにしていくのを、俺は指を咥えて見ていた。一次で落ち、二次で落ち、三次まで進んでも落ち続けるのは、想像以上に惨めだった。自分の何が悪かったのか、最後まで分からなかった。がむしゃらに勉強してきたはずなのに。


 そうしてようやく拾われたのが、この証券会社だった。


 ノルマを達成できない者に人権はない。月初に配られる見込み客リストを片っ端から架電し、断られ、また架電する。朝礼では成績がホワイトボードに数字だけで貼り出され、下位から名指しで詰められる。


「気合いが足りない」

「昨日は何件回った」

「田中はいつも言い訳から入るな」


 精神論と数字がごちゃ混ぜになった叱責を浴びながら、それでも今月のノルマには届かない。届かせるために、人のいいおばあちゃんを言葉巧みに口説き落として契約を取る。電話の向こうで「あなたが言うなら」と笑う声を聞くたび、胃の底が冷たくなる。それでも口は止まらない。止め方を、もう忘れてしまった。


 もうそんな人生は嫌なんだ。


 夜の十一時、電車もすっかり空いた頃、ようやく帰路につく。座席に座ると、電車の揺れだけで軽く吐き気がした。最近はいつもこうだ。


 帰りにコンビニに寄って、油だらけのコラボラーメンを買う。せめてもの楽しみのはずなのに、最近は味がよく分からない。それでもこれを食べないと一日が終わった気がしなくて、結局買ってしまう。このせいで、こんなに動き回っているのに体重は増える一方だった。


 スマホを座卓に立て、ストリーミングの映画をぼんやり眺めながらラーメンを啜る。画面の中で誰かが誰かを愛していたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。


 もうだめだ。明日こそ休んでメンタルクリニックに行こう。何度目かも分からない決意を、今夜もする。産業医は会社の手先だから相談しない方がいいと、先輩が耳打ちしてくれたことがある。頼れる場所はどこにもない。


 会社のチャットアプリの通知音が鳴った。反射的に肩がこわばる。見なくていい、今夜くらいは。そう思うのに、指は勝手にスマホへ伸びていた。


 ——結局、俺はスーツも脱がないまま、座椅子を枕にして倒れ込んだ。



***



 鶏の鳴き声で目が覚めた。


 会社のアラームじゃない。もっと生々しい、獣の声だった。


 見慣れた天井がない。蛍光灯もない。頭上にあるのは、煤けた梁と、藁を編んだ屋根裏だった。土と藁の匂いが鼻を突く。湿った空気は生温かく、東京の冬とはまるで違う。


 体を起こそうとして、違和感に気づいた。腕が細い。自分の腕じゃない。竹を編んだ寝台は硬く、背中に格子の跡がくっきりついている。


阿玕(アー・カン)、目が覚めたの」


 聞こえてきたのは、聞いたことのない言葉だった。それなのに、意味だけはすんなりと頭に入ってくる。客家語(はっかご)だ、と誰かが自分の中で囁いた。声のする方を見ると、四十絡みの女が心配そうにこちらを覗き込んでいた。母親らしい、という感覚だけがある。


「……」


 答えようとした声は、自分のものではなかった。低い。声変わりを終えたばかりの、少年の声だ。


 体を起こす。視界の高さがおかしい。窓の外には、朝もやのかかった水田が広がっていた。稲の緑が、朝日を受けて光っている。空気は湿っていて、遠くで鶏と、それから虫の声がする。


 灰色のビル群も、電車の轟音も、コンビニの照明も、どこにもなかった。


 俺は——田中誠は、どうやら死んだらしい。そして今、見知らぬ誰かの体の中にいる。


 窓の外の水田を見つめながら、頭の中で誰かの記憶が、ゆっくりと像を結び始めていた。広東省、花県。西暦一八三七年。そして、隣の部屋から聞こえてくる、うわ言のような譫言——


「……上帝(しょうてい)が、俺に語りかけた……」


 その声に、聞き覚えはなかった。だが不思議と、これから何が起きるのか、自分だけは知っている気がした。


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