第2話 雪の日、白い手袋
忘れもの市は、王都のどの市とも違っていた。
声はある。灯もある。人影もある。けれど、そこにあるものはどれも、どこかこの世の端から少しだけはみ出しているようだった。
露店の天幕は、雨に濡れた喪服のように黒かった。吊るされた小瓶には、琥珀色、青白い色、灰のような色の光が沈んでいる。箱の中には、乾いた花、ひびの入った鏡、片方だけの靴、古い楽譜、開封されなかった手紙が並んでいた。
客たちは、誰も大きな声で話さない。
母の形見らしき櫛を握りしめた女。
銀貨を数えながら泣いている少年。
軍服の袖口だけを残して、顔を深い外套に隠した男。
まだ若いのに、ひどく老いた目をした娘。
誰もが、忘れたいものを持っていた。
エリアナは市の奥へ進んだ。
黒い布が掛けられた小さな台。煤けた天幕。吊るされた薬瓶。骨のように細い銀の匙。
その露店だけは、霧の底に沈んでいるように静かだった。
店主の老婆は、深い皺に埋もれた顔で、片目だけを油を塗った黒曜石のように光らせていた。
エリアナは、そこで銀の小瓶を見つけた。
瓶の底には、薄い金色の光が沈んでいる。光は水のように揺れ、時折、白い雪の欠片にも似たものを浮かばせた。
札には、乱れた字でこう書かれていた。
《雪の日、白い手袋を渡された記憶。状態良好。返品不可》
エリアナは、その文字から目を離せなかった。
雪の日。
白い手袋。
それは、彼女にも覚えのある言葉だった。
「これは、誰の記憶ですか」
老婆が布の奥で笑った。
「売った者の名は言えないよ」
「売ったのですか」
「いいや。正確には、剥がれ落ちたのさ。記憶には、自分から売られるものと、持ち主から剥がれて流れ着くものがある」
老婆は、金色の小瓶を曲がった指で弾いた。小さな音がして、瓶の中の光が震えた。
「その記憶に、あんたが映ってる」
エリアナは黙った。
瓶の中の光を見ていると、胸の奥が奇妙に痛んだ。知らない場所を押されているような痛みだった。
「買います」
「買ってどうする」
「確かめます」
「人の記憶を見るってのは、鍵穴から心臓を覗くようなものだよ」
「それでも」
老婆は、しばらく彼女を見ていた。
「金貨三枚」
エリアナは金貨を置いた。
老婆は小瓶を差し出す前に、低い声で言った。
「覚えておきな。記憶は真実じゃない。記憶は、心が耐えられる形に変えた過去だ」
エリアナは答えなかった。
小瓶の封を切ると、金色の光が指先に絡みついた。
次の瞬間、彼女は雪の中に立っていた。
王宮の庭園だった。
十年前。
まだエリアナが十二歳で、レオンハルトが十三歳だったころ。
雪が降っていた。
王宮の雪は、街の雪より白い。煤も泥も知らず、ただ庭園の石像と薔薇棚の上に静かに積もっていく。凍った噴水の縁には薄氷が張り、薔薇の枝には棘だけが黒く残っていた。
幼いレオンハルトは、庭園の隅で一人泣いていた。
第二王子は、いつも比べられていた。
兄王子は聡明で、華やかで、人の心を掴むのが上手かった。人前で笑えば場が明るくなり、剣を抜けば騎士たちが歓声を上げた。
レオンハルトは穏やかで、慎重で、言葉を選びすぎる子どもだった。
王族にとって、それは美徳ではない。
優しい王子は、しばしば弱い王子と呼ばれる。
その日、彼は兄に言われたのだ。
お前など、生まれなければよかった、と。
そこへ、幼いエリアナが現れる。
「殿下」
「見るな」
「見ていません」
「見ているだろう」
「雪を見ています」
幼い彼女はそう言って、彼の隣に立った。
しばらく二人で、雪を見た。
風が薔薇棚を鳴らした。凍った枝が触れ合い、かすかに乾いた音を立てる。遠くの回廊では、侍従たちの足音が響いていたが、庭園の隅だけは、世界から切り離されたように静かだった。
やがてレオンハルトが言った。
「兄上が、私など生まれなければよかったと言った」
「そうですか」
「慰めないのか」
「慰めてほしいのですか」
「……少し」
幼いエリアナは考え込んだあと、自分の手袋を片方外して、彼に渡した。
「では、これを」
「なぜ手袋」
「手が冷たいと、余計に悲しくなります」
レオンハルトは驚いた顔をした。
「そういうものか」
「たぶん」
「たぶん?」
「私も、全部を知っているわけではありません」
幼いエリアナがそう言うと、レオンハルトは泣きながら少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、記憶の中の光が強くなった。
彼は思っていた。
この子の隣にいると、息ができる。
エリアナは小瓶の記憶から弾き出されるように現実へ戻った。
忘れもの市の霧が、足元を這っていた。
胸の奥が痛かった。
嫌われたのだと思っていた。
飽きられたのだと思っていた。
彼にとって、自分はもう重荷でしかないのだと思っていた。
だが、瓶の中にあったのは、嫌悪ではなかった。
あの日の雪。
白い手袋。
幼い王子が、初めて息をつけたと思った瞬間。
それが、瓶の中にあった。
では、彼はなぜそれを失ったのか。
なぜ、それを失ったまま、自分を遠ざけたのか。
嫌われるよりも、忘れられる方が優しいのか。
忘れられるよりも、理由も分からず避けられる方が残酷なのか。
エリアナには、分からなかった。
彼はあの日を失った。
それでも、エリアナの前で苦しそうに目を逸らした。
ならば、失われなかったものもあるのだろうか。
記憶ではなく、もっと曖昧で、もっと始末に悪いものが。
エリアナは小瓶を握りしめた。
霧の向こうで、老婆が言った。
「あんたはもっと傷つくよ」
エリアナは老婆を見た。
「なぜです」
老婆は答えなかった。
ただ、白く濁った片目を細めた。
「記憶を失った者はね、失った理由まで忘れることがある」
その言葉の意味を、エリアナはすぐには理解できなかった。
ただ、小瓶は冷たかった。握っているのに、少しも温まらなかった。
彼女は市を出た。
霧の道を戻ると、王都の灯が少しずつ輪郭を取り戻していく。城壁の影、石畳、遠くの鐘楼。現実はそこにあった。だが、さきほど見た雪の日もまた、確かにどこかにあった。
屋敷へ戻ると、王宮から使者が来ていた。
届いたのは、正式な婚約解消の書状ではなかった。
レオンハルト本人からの手紙だった。
封蝋には、第二王子の印章が押されている。けれど、蝋の縁は少し歪んでいた。急いで封じたもののようだった。
エリアナは、灯の下で手紙を開いた。
《会いたい。
ただし、私の言葉を信じないでほしい。
この手紙は、私が私をまだ信じられるうちに書いている》
エリアナは、その手紙を三度読んだ。
会いたい。
信じるな。
私が私をまだ信じられるうちに。
彼は記憶が剥がれ落ちる前に、この手紙を書いたのだ。
手紙の最後には、場所が記されていた。
王立図書館、地下書庫。




