第1話 婚約破棄された夜
王都には、忘れもの市が立つ。
月に一度、霧の深い夜だけ、東門の外れに市が現れる。
昼の東門は、何の変哲もない場所である。荷馬車が軋み、干し草の匂いが漂い、門番が退屈そうに槍にもたれている。城壁の向こうには麦畑が広がり、古い水車小屋の先で道は森に飲まれて終わる。
だが、月のない夜、霧が低く這うと、その終わったはずの道の奥に灯がともる。
赤い灯。
青い灯。
獣脂の匂い。
湿った土の匂い。
誰かの笑い声。
誰かのすすり泣き。
そして、古い紙を裂くような、かすかな音。
市で売られているのは、古い櫛、片方だけの手袋、読まれなかった手紙、名を失った指輪、持ち主の分からない肖像画である。
だが、本当に価値があるのは、品物ではない。
そこでは、記憶が売られている。
母の声。
初恋の横顔。
死んだ友と最後に笑った夕暮れ。
憎むために握りしめていた言葉。
忘れなければ生きていけない罪。
人は、忘れたい記憶を売り、他人の記憶を買う。
王国法では禁じられている。神殿は、記憶の売買を魂の改竄と呼んだ。王家は、忘れもの市など存在しないと布告した。
だが、存在しないものに禁令は出ない。
王都の人々は、その矛盾を知っていた。知っていながら、知らない顔をした。知らない顔をすることにかけて、この国の民は、王侯貴族よりよほど巧みだった。
エリアナ・ロシュフォールが忘れもの市へ足を踏み入れたのは、婚約を破棄された夜だった。
その三ヶ月前から、第二王子レオンハルトは少しずつ変わり始めていた。
最初は、本当に些細なことだった。
王宮の回廊ですれ違ったとき、彼はエリアナの名を呼ぶ前に、ほんの一瞬だけ迷った。
「エリ……」
そこで言葉を止めた。
次の瞬間には、いつもの穏やかな微笑を浮かべていた。けれど、その一瞬の空白は、エリアナの胸に小さな棘のように残った。
呼びたくなかったのだろうか。
そう思った自分を、彼女はすぐに恥じた。王子には多くの務めがある。疲れていただけかもしれない。考え事をしていただけかもしれない。
けれど、一度生まれた疑いは、薄い染みのように心の底へ広がっていった。
春の初め、庭園で茶を飲んだときもそうだった。
白い藤が咲き始めた午後で、庭園には甘い香りが満ちていた。小卓には、銀の皿に盛られた菓子が並んでいた。蜂蜜を薄く塗った焼き菓子、乾燥果実のパイ、そして砂糖漬けの菫。
その砂糖漬けを、レオンハルトはいつもエリアナへ先に勧めてくれた。
「君はこれが好きだったな」
そう言って、少しだけ得意げに笑うのが常だった。
王子にしては、ささやかな得意だった。けれどエリアナは、そのささやかさが好きだった。大広間で民に向ける微笑より、祝宴で貴族たちに向ける完璧な礼より、二人きりの茶卓で彼が見せる、その小さな記憶の方が、ずっと大切だった。
けれど、その日、レオンハルトは砂糖漬けの菫に触れなかった。
彼は何気ない様子で、蜂蜜を塗った焼き菓子を取り、エリアナの皿へ置いた。
「今日は、こちらを」
「ありがとうございます」
エリアナは微笑んだ。
たったそれだけのことだった。
冷たくされたわけでもない。焼き菓子は美しく、蜂蜜の香りも悪くなかった。
それでも胸の奥が、少しだけ沈んだ。
今までは、覚えていてくれた。
そう思った瞬間、エリアナは自分を恥じた。婚約者が砂糖漬けの菫を先に渡さなかったくらいで傷つくなど、浅ましい。愛されているかどうかを、菓子一つで量ろうとするなど、愚かしい。
彼女は何も言わず、焼き菓子を一口食べた。
甘かった。
甘すぎるほどだった。
レオンハルトは、その皿をじっと見ていた。まるで、自分が何を間違えたのか分からないまま、どこかで間違えたことだけを知っている人のように。
「口に合わなかったか」
「いいえ。おいしいです」
「そうか」
彼は笑った。
いつもと同じ笑みだった。
けれど、エリアナには遠く見えた。
二ヶ月前には、茶会が延期されるようになった。
一ヶ月前には、手紙が短くなった。
半月前には、王宮で会っても、彼は人目を避けるように視線を逸らした。
理由は、いくらでも考えられた。
公務が忙しい。
王家の政務が重い。
聖女アメリアの件で、王宮が慌ただしい。
けれど、心はいつもいちばん残酷な答えを選ぶ。
会いたくないのだ。
話したくないのだ。
私を見るのも、つらいのだ。
あるいは、もう他の誰かを見ているのだ。
やがて、王宮に噂が流れた。
第二王子殿下は、聖女アメリア様に心を移されたらしい。
聖女アメリア。
癒やしの力を持ち、貧民街で病人を救い、枯れた井戸に祈りを捧げ、水を戻した娘。王都の民は彼女を愛した。彼女が笑うと、誰もがそこに救いの形を見たがった。
エリアナは、その噂を否定したかった。
けれど、否定するための言葉を、レオンハルトはもう彼女に与えてくれなかった。
彼は以前より痩せた。会議で書類を取り落としたという話も聞いた。謁見で言葉に詰まったとも、視察先の孤児院で、以前訪れた子どもの名を思い出せなかったとも聞いた。
王宮の執務室には、夜更けまで灯がともっていた。
側近たちは、第二王子殿下はご多忙なのだと言った。
貴族たちは、聖女に夢中で務めが疎かになっているのだと囁いた。
エリアナには、どちらも本当には聞こえなかった。
ただ、彼の中で何かが静かに壊れている。
そう感じるたび、胸の奥に細い氷が差し込まれるようだった。
それでも、彼が自分から遠ざかっていることだけは確かだった。
そしてその夜、王宮では舞踏会が開かれた。
白い大理石の床。高く吊られた金の燭台。濃い香水と、温室から運ばれた薔薇の匂い。壁際には、噂を食べるために集まった貴族たちが並び、その目は皆、宝石より冷たく光っていた。
レオンハルトは広間の中央にいた。
隣には、聖女アメリアが立っている。
誰もが、分かりやすい物語を期待していた。
冷たい公爵令嬢が捨てられ、優しい聖女が選ばれる物語。
傲慢な婚約者が退き、真実の愛が勝つ物語。
民衆が好む、涙と拍手に満ちた物語。
エリアナもまた、その舞台の上に立たされていた。
レオンハルトは、彼女を見た。
ほんの一瞬だけ、彼の瞳が揺れた。
「エリアナ・ロシュフォール」
彼は名を呼んだ。
以前と同じ声だった。
けれど、以前あったはずの温度はなかった。
「君との婚約を、白紙に戻したい」
広間が静まり返った。
怒りも、侮蔑も、勝ち誇った響きもない声だった。だからこそ、場はより深く冷えた。
エリアナは微笑んだ。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
レオンハルトはわずかに唇を引き結んだ。
「私は、君を愛していない」
その言葉だけが、刃だった。
悪いと言われれば、反論できた。
冷たいと言われれば、沈黙できた。
王家のためだと言われれば、公爵家の娘として頭を下げられた。
けれど、愛していない、と告げられたら。
そこには礼法も、血筋も、家格も、政治も役に立たなかった。
エリアナは一礼した。
「承知いたしました」
泣かなかった。
怒らなかった。
問い詰めなかった。
その姿を見て、誰かが囁いた。
「冷たい方ね」
別の誰かが言った。
「だから殿下は、聖女様を選ばれたのだわ」
噂はその場で形を得た。
白い聖女と、冷たい公爵令嬢。
捨てられた女と、選ばれた女。
人々は複雑なものを嫌う。分かりやすい物語にできるなら、真実など邪魔でしかない。
エリアナは、最後まで美しく立っていた。
そして屋敷へ戻る馬車を、途中で止めさせた。
従者には、少し風に当たりたいと告げた。
夜気は冷たく、霧は深かった。石畳の先で街灯がぼやけ、世界は急に輪郭を失った。
何かを売るつもりだった。
今夜の記憶でもよかった。
婚約者だった時間でもよかった。
彼を待ち続けた三ヶ月でもよかった。
彼をまだ信じたいと思っている自分自身でもよかった。
忘れられるなら、何でもよかった。
そうして、エリアナは忘れもの市へ辿り着いた。




