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古代ギリシャの人々が安全に使える岸を求めて発展させていったという謂れがその地名の語源となっているヤルタ。クリミア半島の南の端にあるこの都市は、一九世紀後半以降、ロシア皇帝とその一族を始めとする上流階級の人々に深く愛される高級リゾート地となっていた。一年を通じて(ロシア的価値観で言えば)極めて温暖で、ほとんど雪も積もらず、さりとて黒海から吹き込む清涼な海風のおかげで酷暑とも無縁とくれば、その理由も容易に理解出来る。
皇帝と一族、そして上流階級に属する人間全てをこの世から永遠に追放してしまったソビエトがロシアの大地を支配するようになっても、ヤルタの価値は些かも揺るがなかった。こうして今、ヤルタの地に建つリヴァディア宮殿――ロシア皇帝ニコライ二世の離宮として建造された、イタリア・ルネサンス様式の白亜の館にアメリカ、イギリス、ソビエトの首脳が一堂に会しているのも、ソビエトの皇帝、もといソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンがヤルタの地をそれなりに気に入っていたからである。
一九四五年に入ると、世界の国々を巻き込んだ第二次世界大戦は誰の目にも明らかなほど終焉に向かっていた。
ヨーロッパを席巻した忌まわしきナチス・ドイツに対し、西からはアメリカ、イギリス両軍がライン川を目指して突き進み、東からはソ連軍がベルリンまで七〇kmを切るところまで迫っていた。
アドルフ・ヒトラーがいかに総統地下壕から全軍を指導しようとも、ナチスの偉大な科学力によって生み出された新兵器たちが前線に投入されようとも、大河の流れを棒杭一本で食い止める事など出来やしないのだ。
西太平洋のあちこちで繰り広げられている戦闘も、着実にその包囲の輪を大日本帝国の本土へ狭めている。マリアナ沖海戦で日本帝国海軍を打ち破り、マリアナ諸島に築いた飛行場から銀色の巨鳥が飛び立ち、かの国を焼き払いつつある。
アメリカにとって一つだけ気に入らないのは、フィリピン・レイテへと足跡を残したはずの彼らの軍隊が、大日本帝国陸海軍の決死の反撃で叩きだされてしまった点である。アメリカにとって、まさしく不都合な真実だった。アメリカの未来を担う若者を中心に一六万人も一挙に失ってしまった惨劇は、国内の有権者たちに大きな衝撃を持って受け止められている。あの作戦に関わった高級軍人のうち、国民からも人気のあった海軍大将も含めて何人をも軍より追放したが、それで国内に忍び寄る講和の機運を打ち消せるものでもない。
全くもって、講和など論外である。あの極東の島国は、ナチス・ドイツと同じように無条件降伏というただ一つの正しい道しか与えてはならない。フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領はそのように固く信じている。
だからルーズベルトが、理想主義的で現状を正しく認識しているとは言いがたいチャーチル首相をわざと外し、自身と同じように現実主義者だと理解しているスターリン書記長のみ呼んで、アメリカとソ連のみの秘密会談を二月八日に行ったのは当然の成り行きだった。
「チャーチル氏を招かないのは全く正しいご判断ですな、ルーズベルト閣下」
それまでの会議が行われていた大広間からは離れた別室に、スターリンの声が響いた。
「いかにイギリスがこの大戦において重要な役割を演じているといえども、極東の現状認識という点では、かの国は我がソビエト、そして貴国と比すれば一段も二段も劣る」
「スターリン閣下、我が国としてはそうした現実主義に根ざした話し合いをしていかねばなりません」
深々と椅子に身体を預けているルーズベルトが言った。アメリカ史上初の大統領職四選を成し遂げた彼の肉体は今、病魔に蝕まれている。取り繕ってはいるが、その病身ぶりは隠しようもない。
ルーズベルトのそうした様子を冷静に勘案しつつ、スターリンは頷きながら切り出した。
「貴国から提案のあった対日参戦は、我がソビエト人民に戸惑いを与えるでしょう。我が国と日本は小規模な紛争こそあれ、ナチス共のような卑劣な侵略を日本が仕掛けてきた訳ではない。そのような国相手に戦争を行う事は、この度の大祖国戦争に身を捧げた人民が納得しないのです」
後半の部分はともかく、日本との関係云々は事実だった。日ソ中立条約に基づき、日本は静謐保持をソ連に対する基本原則としていたからである。
ソビエトの権力機構にいる全ての者が違った印象を抱く微笑みを浮かべながら、スターリンは続ける。
「だから私は、人民を納得させるために、かつてロシアが日本との戦争の結果奪われた南サハリンとチシマ列島の領有、及び満州における鉄道と港湾権益の確保を提案しました。そうすれば人民はこう思うでしょう。『対日参戦は、四〇年前の雪辱を果たすための正統な戦争なのだ』と」
スターリンの言っている内容には、誤りが含まれている。南サハリンは確かに日露戦争の結果日本の領土となった地だが、千島列島は全島が一八七五年に締結された樺太・千島交換条約により日本の領土となった島々で、日露戦争とは何の関係もない。
ソビエトという国(あるいはスターリン)の本質を表している一幕だったが、日本の北のちっぽけな島ごときに何の興味も抱いていないルーズベルトにとってはどうでも良い事実だった。
「スターリン閣下の仰る事は正しいと思いますな。日本にとってそれらの島は過ぎたる領土でしょう。彼らは国を閉ざして引き篭もっていた時代に抱えていた島々のみ与えておけばよろしい。我が合衆国としては、その前提に立ち、貴国に日ソ中立条約の破棄と、ナチス・ドイツ降伏後の速やかなる対日参戦を要望します」
ルーズベルトの発言に、スターリンは満足気に頷いた。アメリカが、南サハリンとチシマ列島の割譲に同意した言質を得たからだ。
「ナチス降伏後に対日参戦する事へ異論はありません。問題はそれをいつにするか、という点ですな」
「我が国は、降伏後二ヶ月から三ヶ月、成し得るならば一ヶ月で日本への参戦を行ってもらいたい、と考えております」
スターリンは、ルーズベルトの言葉にしばし思案した。
「――よろしいでしょう。ただし、戦力の極東に対する配置転換は我が国としても最大限の努力を払いますが、海洋を押し渡る船舶については、これまで以上の支援を要望するところです」
要するに、お前たちの参戦要請に乗ってやるから、もっとレンドリースを寄越せ、という事だ。
これに対しルーズベルトはこともなげに言い切った。
「無論、そのつもりです」
ほう、とスターリンは内心感嘆した。こんなにもあっさりと要求を認めたからだ。
「貴国のご配慮にソビエト人民を代表して御礼申し上げます。しかし、よろしいのですかな。貴国は昨年一〇月に日本軍の攻撃で手痛い損害を被ったと聞き及んでいますが」
「確かに、陸上兵力を中心に少なからず痛手を負った事は否定出来ません。ですが、我が国の生産力を持ってすれば、失われた兵器や船舶の数を揃える事ぐらい造作も無い……貴国へのレンドリース分も含めて」
民主主義の兵器廠を舐めてもらっては困る――ルーズベルトの顔がそう物語っていた。
スターリンは楽しげに何度も頷いた。民主主義などという弱体で、空虚な、国を腐らせる思想など欠片も価値を見出していない彼だが、その兵器廠から生み出される無限の物資については別である。その驚嘆すべき国力が自分たちに友好的に向けられている今の情勢が純粋に楽しかった。
その後、二大国家の巨頭たちは極東における第二次世界大戦後の枠組みを決めていく話を閉ざされた部屋で続けた。
大方の方針が決定された後に、ようやく顔を出す事になったウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル首相は、スターリンに対してルーズベルトがいかに安請け合いしたかを悟り、祖国イギリスから別れていったアメリカの前途に思いを馳せた。そして恐らくは、その苦難の未来にルーズベルトはこの世にいない事も……。
「アメリカがソビエトへ送る最後の物は、十字架と聖水になるだろう。もちろん、無神論者どもには何の意味もないがね」
二カ国で進められた秘密会談の結果を説明されたチャーチルの(私的な)コメントが、この老齢な政治家の心境を端的に物語っていた。
チャーチルは、ナチス・ドイツを打倒するために手を組んだ相手が、その誕生時に殺しておけば良かったと信ずるような疫病を振りまく悪魔である点を、片時たりとも忘れた事がない。
※ ※ ※
現在は中央合同庁舎第五号館として厚生労働省や環境省などが入居する建物がある東京都千代田区霞ヶ関一丁目に、帝国海軍の軍政を司る海軍省と、軍令を担う軍令部が共同使用している赤煉瓦の建物があった。
昨年の一一月二四日以降、マリアナ諸島から飛来するB-29爆撃機により本土空襲が激化していく中、未だこの赤煉瓦周辺だけは平穏を保っている。
ただし、この瀟洒な建造物の中で勤務している人間の心模様は別である。帝国海軍の中でも選りすぐりのエリートたちが勤務に励んでいるが、誰一人として前途に明るいものを見出していない。
そして日本帝国海軍は実力組織であると共に、官僚組織でもある。官僚組織である以上、彼らは日一日としたい寄ってくる破局の瞬間が避けられない事を自覚しながら、法令と慣例に則った業務をこなしていくしかない。
太平洋戦争開戦以来、平時と比べれば麻の如く乱れがちになっているとはいえ、一九四五年(昭和二〇年)の定期人事異動の季節がやって来ている。その人事案を纏めている海軍省人事局の一室から出てきた男は、小脇に清書した書類束を挟んで、自身の直属の上官が勤務する二階の部屋へ向かっていった。
彼の上官は、部下が大臣決済を求めてきたあらゆる書類にくまなく目を通すタイプの次官だった。大臣が傍目には茫洋として掴み所のない大人のような人なので、余計にそう振る舞わねばならないと思っているらしかった。
海軍次官室の扉をノックすると、中から少し甲高い声で「入りなさい」と応答があった。
「失礼致します」
次官室へ入室した人事局長三戸寿少将に対し、次官室のデスクに座り赤鉛筆片手に書類へチェックを入れていた海軍次官井上成美中将は、
「あと少しでこれが片付く。掛けていたまえ」
と部下を座らせた。
三戸が一礼して次官室中央に置かれている幅広のソファに腰を落とし、書類束を机の上に置いた。
井上はぬるくなった緑茶を飲み干すと、今しがたまで入念に精査していた赤文字だらけの書類をデスクの向かって左手にある籠の中に入れた。籠の中は、同じように赤文字で事細かにコメントやバツ印の記入された紙が山ほど積まれている。要するに、大臣決済を仰ぐに不適当なものとして突き返しを食らった書類たちだった。その様子を見た三戸は机に置いた書類束を見やりながら内心、
(この人事案も多分あっちの籠の中へ入るんだろうな)
そうぼやいていた。彼は今までの経験上、井上次官の手による事前精査に一回も引っかからず大臣決済へ至った重要案件の存在を知らないからだ。
「纏まったようだね」
井上が三戸の対面に腰掛けながら言った。書類束を井上の方へ差し出しながら三戸は「人事局としては、そちらの通りの案を提出します」と応じた。
見る人をどこか射抜くような眼光の奥に、鋭利な頭脳を秘めている顔つきの井上が、手渡された書類を一枚一枚丁寧に読み込んでいっては、赤鉛筆で何やら書き込んでいく。
やがて一通り目を通し終え、書類を机の上にきちんとまとめ直した。
「重巡以下の艦長職については特に異論はない。前線勤務が長い者から順に出来るだけ交代させていこう」
「前線勤務が一年半近い者は出来る限り入れ替えていくべきと考えました。艦の練度維持の点では不安がありますが、今は戦線が小康状態ですし、GF稼働艦のうち駆逐艦は大半を一時的に海護総隊に入れて船団護衛をさせてますから、その中で練度を上げていってもらいたいです」
「うん――だが、戦艦の艦長は、再考の余地がある」
「と仰いますと」
井上の言葉に、三戸が真意を図りかねる気持ちで言う。井上は構わずに続けた。
「問題は新艦長の顔ぶれだ。こんなにも戦力がやせ衰えているとはいっても、まだまだ我が海軍には人材はいる。その人材をもっと活用すべきだ」
「とは言いましても、洗いざらい精査しましたが、これ以上は」
「予備役もか?」
井上の一言に三戸は一瞬、言葉の意味を飲み込めず、次いで「予備役?」と声を若干上擦らせた。
「別に現役に限る必要はない。その任に最適な人間なら予備役でも構わないじゃないか」
「しかし、特設艦などはともかく戦艦の艦長を予備役にするなど、現役の大佐は全員その任に耐えず、と言っているようなものです。部内の統制から考えても――」
「良いかね、三戸君」
戸惑う三戸に対して、聞くものに有無を言わさない剃刀のような威圧さを含んだ声で井上が告げた。
「もう我々には、時間も余裕もないのだ。付け加えるなら、未来もだ。私が戦艦というものに価値を見出していないから艦長は予備役でも構わないと言っている、などとは思ってくれるなよ。帝国海軍が、最期の最期まで適材適所の出来ない情けない組織だったと後世言われる事に我慢がならないだけだ」
こういう物言いをする時の次官が、何を持ってきても自説を翻さないのはこの半年の付き合いで思い知っている三戸に、返す言葉はなかった。あくまでこの密室の中においてだが、次官はもうこの国がどうしようもない崖っぷちにまで追い詰められている冷徹な現状について、何の躊躇もなく直截に口にする恐るべき人間だった。陸軍や右翼の過激派の耳に入れば、新月の夜道を歩けなくなる事は確実である。
「分かりました。ですが次官、そこまで仰るという事は、次官はすでに目星を付けておいでですか?」
上官の刺激が強すぎる主張をこれ以上聞きたくない三戸の問いに井上は、自身が、海軍にとって、日本にとって全く必要のない人物と信じる者の一人の名を、間接的に引き合いに出しながら答えた。
「私は米内さんの前任者――ああ野村さんの事じゃないぞ、野村さんは五日しか大臣をやらなかったからな……あの三等大将のやらかした全ての事が許せない。軍事参議官としてのほほんとしているんだろうからこの件で何を言ってきても私は一切聞く耳を持たない。今、上海で航空隊の司令をやってる彼こそ、戦艦を安心して任せられる人材だ」
井上はそう言うと、三戸に書類束を返却した。返された書類の一番初めのページに達筆な赤字で記されていたその文字を見た三戸は、確かに大艦の艦長を任せるのには十分な男だと頷かない訳にはいかなかった。
帝国海軍は、適材適所が出来ないばかりか、艦長はフネの最期と運命を共にしなければならないという馬鹿げた仕来りを、この国家存亡の大戦争時に蔓延させた輩の始末を着けない愚かな組織で、自分はその軍政部門のナンバー二だった、となるであろう未来を、井上は許す事が出来ない。彼は自分が奉職する組織がせめて、少しでもまともな在り方を取り戻した上で破局の日を迎えさせたかったのである。
三戸が部屋から退出したのを見届けると、井上は窓際まで歩み寄った。
そこから見える東京の様子を、少しでも覚えておこうと思ったからだ。
そう遠くない将来、この帝都もベルリンのように灰燼に帰す日が来る。そしてやがて、本土のあらゆる都市も後を追う事になるだろう……それが、太平洋戦争を始めた日本帝国に訪れる終局の序曲として、確定されている演目だ。
井上は密かに、序曲が奏でられないうちに終劇とさせるべく、終戦工作を水面下で進めさせていたが、この国に巣食う国賊たちは、何十何百何千万の命を鑑賞料に要求するこの喜劇を殊の外楽しみたいらしい。
「畜生どもが」
海軍軍人はジェントルマンたれ、という海兵時分の教育が何処かへ消えてしまっているかのような台詞を、井上は独り吐いた。太平洋戦争それ自体を最初から捨てていた、ある意味では軍人としては失格とも言える男の、この上ない怒りの言葉だった。
破局が訪れるまで、残り半年を切ろうとしていた二月半ばの出来事だった。
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