第1話 嵐の前の完璧な幸福
俺の名前は、前田和樹。42歳。
ごく普通の会社員だ。
埼玉県川口市にある3DKの賃貸マンション。
38歳の妻・サラ。
8歳の娘・エミと、5歳の息子・レオ。
これが、俺の「城」であり、俺の「全て」だった。
「パパ! 明日の潮干狩り、楽しみだね!」
「レオも! レオもたくさんとる!」
リビングで夕食を食べながら、子供たちがはしゃいでいる。
俺はビールを片手に、その光景を眺めて目を細める。
「ああ、わかってるよ。明日は早起きしなきゃな」
幸せだ。間違いなく、俺は幸せだった。
サラとは、いわゆる「できちゃった婚」だ。
昔は飲み友達だった彼女。決して絶世の美女ってわけじゃないが、気が利くし、料理だって一生懸命やってくれる。何より、母親として完璧だ。
俺はこの平凡な幸せを守るために、毎日満員電車に揺られ、上司に頭を下げて働いている。
定年まで勤め上げ、年金をもらいながら孫の顔を見る。
そんな「当たり前の未来」が待っていると信じて疑わなかった。
……いや、正直に言おう。
心のどこかで、ほんの少しだけ「退屈」を感じていたのも事実だ。
(俺の人生、これで終わりなのか?)
そんな空虚さを埋めるために、最近ローンを組んでデリカの最新4WDを買った。
「家族のため」と言い訳したが、本音は「冒険」への憧れだったのかもしれない。
結局は、近所のスーパーへの買い出しにしか使っていない、ただの高い鉄の箱だが。
「ねえカズキ、明日早いんだから、もう飲み過ぎないでよ?」
サラが食器を片付けながら、呆れたように言った。
「わかってるよ。この映画見終わったら寝るって」
手元には、芋焼酎のロック。
テレビでは深夜の映画が流れている。
「パパ、エミも一緒に見ていい? パパと寝たい!」
甘えてくるエミを、俺は軽くあしらった。
「だめだめ。今日は先に寝てな。パパももうすぐ行くから」
「えー、ケチー」
子供たちが寝室へ消えていく。
リビングに残されたのは、俺と、飲みかけの焼酎と、テレビの音だけ。
静かだ。
あまりにも平和で、静かな夜だった。
俺はグラスに残った焼酎をあおり、柿の種を口に放り込む。
酔いが心地よく回り、意識がぼんやりとしてくる。
(ま、いっか。もう少しだけ……)
この時の俺は、知る由もなかった。
これが、家族と過ごす「最後の夜」になるなんて。
そして、この平穏な日常が、明日には跡形もなく粉砕されることになるなんて――。
いつの間にか、俺はソファーに沈み込むようにして眠りに落ちていた。
続く




