2 きみの見ている世界
秋が完全に街へ根を下ろしたのは、
十月半ばの、ある火曜日だった。
その朝の空は、
どこまでも均一な鉛色をしていて、
手を伸ばせば届いてしまいそうなほど低く垂れ込めていた。
窓辺でコーヒーを飲んでいると、
向かいのビルの避雷針の先に、
一粒の雨粒が宿っているのが見えた。
風に小さく震えているのに、
いつまで待っても落ちようとはしない。
「今日は雨になるよ。」
彼女が言った。
「でも、まだすぐじゃない。」
「雲がね、まだ集まってる。」
「泣こうかどうしようか、迷ってるみたいに。」
僕は彼女を見る。
――いや、
正確には、声のするほうへ顔を向けた。
今日はいつも以上に、
彼女の姿が淡く見えた。
輪郭は部屋の薄暗さへ溶け込み、
境界だけが曖昧になっている。
曇りだからだろう。
光が足りない日は、
僕の目はいつもより世界を掴みにくくなる。
会社へ向かう途中、
公園の前を通る。
銀杏はすっかり色づいていた。
けれどそれは、
眩しく輝く黄金色ではない。
少し疲れたような、
褐色へ近づき始めた黄色だった。
何人かの老人が長い竹竿で銀杏を落としている。
実がブルーシートへ当たるたび、
ぼ、と鈍い音が響いた。
遠くで脈打つ心臓みたいな音だった。
「銀杏の匂い、分かる?」
彼女が尋ねる。
「あの少し苦くて、
腐りかけの甘さが混じった匂い。」
僕は息を深く吸い込む。
湿った土。
排気ガス。
遠くの屋台から流れてくる油の匂い。
それ以外は、
もう何も区別できなかった。
僕の嗅覚は、
薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるみたいだった。
どんな匂いも均され、
輪郭だけがぼやけていく。
「……少しだけ。」
そう答えた。
嘘だった。
彼女は何も言わない。
その沈黙だけが、
僕の嘘を静かに肯定していた。
編集部へ着いた頃になっても、
雨はまだ降っていなかった。
蛍光灯は白すぎるほど白く、
同僚たちの話し声、
キーボードを叩く音、
プリンターが紙を吐き出す音。
それらは一つに溶け合って、
変わることのない背景音になっていた。
僕はパソコンを立ち上げ、
「都市に生きるコケの生態」という原稿を書き始める。
最初の一文を入力する。
『コケは、都市に残された最後の抒情詩人である。
人の目が向かない場所――
壁の隙間に、
配管の根元に、
忘れ去られた植木鉢の底に。
世界でいちばん遅い速度で、
世界でいちばん長い詩を書き続けている。』
第三段落で、
指が止まった。
古い煉瓦塀によく生える、
あの灰緑色のコケ。
あの緑は、
どんな緑だっただろう。
乾いた色だったか。
湿った色だったか。
触れれば、
ビロードのようだったのか。
それとも、
紙やすりのようだったのか。
目を閉じる。
思い浮かぶのは、
図鑑の写真だけだった。
説明文だけだった。
『陰湿な環境を好む蘚類植物――』
そこには、
色も、
手触りも、
命もなかった。
「……手伝おうか?」
彼女が静かに言う。
「うん。」
僕は頷いた。
「古い壁のコケって、
触るとどんな感じなんだっけ。」
彼女は少し黙り込む。
まるで、
記憶の中にある古い壁へ、
そっと手を当てているみたいだった。
「濡れているときはね。」
ゆっくりと話し始める。
「水をたっぷり吸ったスポンジみたい。
でも、もっと目が詰まってる。」
「指で軽く押すと、
小さな水の粒がじわっと浮かんできて、
ひんやりしてる。」
「乾くとね。」
「今度は薄い絨毯みたいになる。」
「指先でなでると、
淡い緑色の粉が少しだけ残るの。」
「抹茶をこぼしたみたいに。」
僕はそのまま、
彼女の言葉を書き写した。
キーを打ちながら、
自分も本当にそのコケへ触れている気になる。
それでも、
想像と記憶のあいだには、
どうしても越えられない距離があった。
昼休みになる頃、
ようやく雨が降り始めた。
激しく叩きつける雨ではない。
細く、
長く、
季節そのものが降り続いているような秋の雨だった。
雨筋は窓の向こうで斜めに交わり、
一枚の薄い幕を織り上げていく。
僕は給湯室の窓辺へ立ち、
ガラスを伝う雨粒をぼんやり眺めていた。
「雨の跡ってね。」
彼女が静かに言う。
「一本ずつ、みんな違う道を歩くの。」
「真っすぐ落ちる子もいれば、
何度も迷いながら進む子もいる。」
「ほら、左のあの一本。」
「三回も枝分かれしてる。」
「何かを探しているみたい。」
僕はその跡を目で追った。
確かに一本の水筋が、
途中で細く分かれ、
また下のほうで一つに重なっていた。
綺麗だと思った。
けれど僕に見えたのは、
あくまで「水の跡」でしかない。
そこに、
何かを探す意思までは見つけられなかった。
「君はいつも物語を見つける。」
僕は小さく笑う。
「僕には現象しか見えない場所で。」
彼女は少しだけ黙って、
やがて優しく答えた。
「昔の君も、
そうだったよ。」
「昔……。」
僕は額をガラスへ預ける。
冷たさがゆっくり皮膚へ染み込んでいく。
「昔は、
雲にも名前をつけてたよね。」
「覚えてる?」
「もちろん。」
彼女は嬉しそうに笑う。
「積乱雲は『巨人』。」
「巻雲は『羽根』。」
「層雲は『毛布』。」
「今は。」
僕は窓の外を見る。
「雲は雲。」
「雨は雨。」
それだけだ。
そう口にした瞬間、
胸の奥へ重たい疲労が沈んでいく。
身体が疲れているわけじゃない。
もっと深い場所。
世界を受け取るための感覚そのものが、
少しずつ摩耗していくような疲れだった。
切れてはいない。
けれど、
もうほとんど光を放たなくなった電球みたいに。
彼女は何も言わなかった。
代わりに、
降り続く雨音だけが、
二人のあいだを静かに満たしていた。
午後は、
カメラマンから届いた写真集のチェックだった。
夜の都市河川を撮ったシリーズ。
黒い水面にはネオンが映り、
色とりどりの光は、
砕け、
ほどけ、
また一つの帯へ戻っていく。
一枚の写真で、
僕の手が止まる。
対岸を見つめる、
一人の人影。
後ろ姿だけが、
夜の河原へ小さく置き去りにされていた。
「この人。」
僕は画面を指差した。
「何を考えてるんだろう。」
通りかかった編集者が、
画面を一瞥して肩をすくめる。
「さあね。」
「ホームレスかもしれないし、
眠れない人かもしれない。」
「まさか全部の写真に詩でも付けるつもり?」
僕は笑ってごまかした。
同僚の背中が遠ざかるのを待ってから、
もう一度、小さな声で尋ねる。
「君はどう思う?」
「この人は、
何を見てる?」
彼女は長いあいだ答えなかった。
見つめている。
そう分かるくらい、
静かな沈黙だった。
やがて、
息を吐くように言う。
「向こう岸の灯りは、
とても暖かそうに見える。」
「でも、
この川を挟んでいるだけで、
宇宙の向こう側みたいに遠い。」
「渡りたいって思う。」
「だけど、
渡った先で何が変わるのか、
それは自分にも分からない。」
「だから、
ただ立ち尽くしているの。」
「夜が少しずつ、
自分の中へ染み込んでくるのを感じながら。」
僕は写真を見つめ続ける。
人影は、
河と光の広がりの中では、
ほとんど消えてしまいそうなほど小さい。
それなのに、
彼女の言葉を聞いたあとでは、
その小さな背中だけが、
妙に重みを持って見えた。
「君は、
いつも分かるんだね。」
思わずそう言うと、
彼女は首を横へ振った。
「分かるんじゃない。」
「感じるの。」
「君と写真のあいだには、
一枚ずつガラスがある。」
「カメラのレンズ。」
「パソコンの画面。」
「そして、
君自身の目。」
彼女は静かに微笑む。
「でも私は。」
「そのガラスを通らなくても、
世界に触れられるから。」
「……じゃあ。」
僕は小さく息をつく。
「君は。」
「僕とのあいだにも、
ガラスがあると思う?」
言い終えたあとで、
少しだけ後悔した。
重すぎる問いだった。
彼女は答えなかった。
会社を出る頃には、
雨はもう上がっていた。
雲は洗い流されたように薄くなり、
西の空だけが、
淡い橙色に染まっている。
地下鉄には乗らず、
歩いて帰ることにした。
濡れた歩道は、
街灯やネオンサインを映して、
ひっくり返した絵の具箱みたいだった。
人は相変わらず忙しそうに歩いている。
雨は止んだのに、
街だけは少しも立ち止まらない。
ただ、
忙しさの色だけが変わったようだった。
古い橋まで来たところで、
僕は立ち止まる。
橋の下には、
昼間、写真で見たあの川。
夜になった水面は静かで、
両岸の灯りを細長い光の柱に変えながら揺れていた。
「昼間の写真。」
僕は川を見下ろしたまま言う。
「どうしてあの人は、
夜の川を撮ったんだろう。」
彼女はしばらく考えて、
静かに口を開いた。
「昼間の川はね。」
「本当の姿が見えすぎるから。」
「濁った水も。」
「浮かぶゴミも。」
「護岸のひび割れも。」
「全部。」
「でも夜になると。」
「光が細かいものを隠してくれる。」
「残るのは、
輪郭と、
水に映った光だけ。」
「だから。」
「セーヌ川にもなれるし。」
「テムズ川にもなれる。」
「あるいは。」
「君が子どもの頃に見ていた、
名前もない故郷の川にも。」
「……都合のいい幻想だ。」
僕は苦く笑った。
彼女は首を振る。
「違うよ。」
「何を見るかを選んでいるだけ。」
車の音に紛れそうなほど小さな声で、
彼女は続ける。
「私たちは。」
「世界の全部なんて、
最初から見られない。」
「昼の川を見るか。」
「夜の川を見るか。」
「違うのは、
選ぶ『ほんとう』だけ。」
僕は欄干へ身体を預ける。
水面では、
光が揺れていた。
波紋に合わせて、
壊れ、
また元へ戻っていく。
その景色を見ているうちに、
ふと思い出す。
子どもの頃。
僕もこの橋で、
川へ石を投げて遊んだ。
砕けた倒影が、
ゆっくり元の形へ戻っていくのが、
不思議でたまらなかった。
「あの頃は。」
僕は笑う。
「水の中の世界が本物だと思ってた。」
「逆さまの家にも、
ちゃんと人が住んでいて。」
「灯りも、
本当に灯ってるんだって。」
「今は?」
彼女が聞く。
「今は。」
「倒影は、
ただの光学現象だって知ってる。」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥で、
何かが乾いた音を立てて砕けた。
大人になるということは、
幻想を一つずつ失っていくことなのかもしれない。
そして最後に残るのは、
説明のつく事実だけ。
冷たく、
正しく、
どうしようもなく寂しい現実だけ。
そのときだった。
彼女が、
僕の手を握った。
思わず息をのむ。
今日は、
いつもよりずっと強い。
指先の形まで伝わってきそうなほど、
強く。
「そんなこと。」
彼女は震える声で言った。
「言わないで。」
「倒影は、
幻なんかじゃない。」
「光と水が出会ったとき、
必ず生まれる会話なの。」
「君が私を見ることだって。」
「幻なんかじゃない。」
「それは、
君と世界が出会ったときに生まれた――」
彼女は、
そこで言葉を失った。
「……何が生まれたの?」
僕は尋ねる。
返事はない。
ただ、
握る手だけが、
少しずつ強くなっていく。
そのときだった。
手の甲に、
ぽつり、と温かなものが落ちた。
一滴。
そして、
もう一滴。
三滴目が落ちた頃には、
そのぬくもりはもう冷たさへ変わり、
皮膚の上で静かに滲んでいた。
――泣いている。
僕はゆっくりと顔を上げた。
橋の街灯は、
淡い琥珀色の光を落としている。
その光の中で、
僕は初めて、
涙だけをはっきりと見た。
透明な雫が、
彼女の頬を伝い、
顎の先で小さく丸くなり、
やがて重力に身を任せて落ちていく。
一粒ごとに、
街灯の光をほんの一瞬だけ映し、
小さな流れ星みたいにきらめいて、
僕の手の甲へ消えていった。
泣き声も聞こえる。
声を張り上げるような涙じゃない。
喉の奥から、
押し殺すようにこぼれてくる嗚咽。
傷ついた小さな獣が、
暗い巣穴で鳴いているような、
そんな痛みを帯びた声だった。
一つひとつの震えが、
本物だった。
一つひとつの涙が、
本物だった。
それなのに。
彼女が、
どんな顔で泣いているのかだけは、
どうしても見えなかった。
涙は見える。
泣き声も聞こえる。
握る手の震えも伝わってくる。
涙に混じる、
海風のいちばん端みたいな、
かすかな塩の匂いさえ感じられる。
けれど。
泣いている彼女の表情だけが、
焦点の外に置き去りにされたままだった。
悲しみそのものが、
一枚のすりガラスを隔てた向こう側にあるようだった。
輪郭だけが残って、
細部はすべて失われている。
まるで、
字幕のない外国映画を見ているみたいだった。
俳優たちの表情は見える。
声の調子も分かる。
激しい感情の中にいることも伝わる。
それでも、
何を悲しみ、
何を失ったのかだけは、
最後まで届かない。
「……どうしたの。」
僕の声は、
自分でも驚くほど掠れていた。
彼女は何も言わず、
小さく首を振る。
涙だけが、
静かに流れ続ける。
いくつかの雫が、
シャツの袖へ落ち、
濃い色の染みをゆっくりと広げていった。
「教えて。」
僕はそっと手を伸ばす。
彼女の頬へ触れようとして。
けれど、
指先は輪郭をすり抜け、
掴めたのは、
夜気だけだった。
そこに彼女はいる。
確かにいる。
なのに、
僕の手は、
彼女という存在へ届かない。
「僕には……」
その言葉を口にするまで、
長い時間がかかった。
「僕には、
君が見えない。」
「涙は見える。」
「泣いている声も聞こえる。」
「でも。」
「君が、
どんな顔で泣いているのかだけは、
分からない。」
「悲しみが、
どんな形をしているのかも。」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その視線だけは感じられる。
弱く、
それでいて胸が焼けるほど熱い光のように。
「……知ってる。」
涙で震える声だった。
「知ってた。」
「今日からじゃない。」
「ずっと前から。」
「それでも私は。」
彼女は言葉を詰まらせる。
「どこかで、
私の思い違いだったらいいって、
ずっと願ってた。」
「……僕は。」
静かに尋ねる。
「何が見えなくなったんだろう。」
本当は、
答えなんて分かっていた。
それでも、
彼女の口から聞きたかった。
彼女は涙をぬぐうこともせず、
小さく息を吸う。
「私の心。」
その一言だけで、
また声が震えた。
「私の心はね。」
「まるで、
すりガラスの向こうにあるみたいなの。」
「輪郭だけ残って、
細かいところは、
もう何も見えない。」
「君はガラスのこちら側。」
「私は、
向こう側。」
「君は、
私が泣いていることは分かる。」
「涙も見える。」
「声も聞こえる。」
「だけど。」
「どうして泣いているのかだけは、
もう届かない。」
橋の上に、
長い沈黙が降りる。
川の流れる音。
車が行き交う音。
街の灯りは何事もなかったように揺れている。
世界だけが、
静かに時間を進めていく。
止まっているのは、
僕たちだけだった。
「……いつから?」
ようやく僕は口を開く。
彼女は少し空を見上げた。
「分からない。」
「夕焼けと同じ。」
「太陽が沈んだ瞬間なんて、
誰にも分からないでしょう?」
「気づけば少しずつ暗くなっていて。」
「そして、
ある瞬間、
夜になっていたことに気づく。」
僕は、
手の甲へ目を落とした。
涙の跡は、
少しずつ乾き始めていた。
薄く残った塩の跡は、
小さな地図みたいだった。
「……そうか。」
僕は小さく笑う。
「僕は、
もう見えなくなってたんだ。」
疑問ではなく、
確認でもない。
それは、
ようやく受け入れた事実だった。
彼女は否定しなかった。
僕たちはそのまま、
橋の上に立ち続けた。
彼女は僕の手を握り、
涙は静かに流れ続ける。
僕の"盲"も、
同じように静かに広がっていった。
何分だったのか、
それとも三十分ほどだったのか。
時間の感覚は、
もう失われていた。
やがて、
彼女の嗚咽だけが、
少しずつ静まっていく。
「……ごめんね。」
彼女は小さく笑った。
泣いたあとの、
壊れそうなくらい弱い笑顔だった。
「泣くつもりなんて、
なかったの。」
「これは。」
「最初から決まっていたことだから。」
「決まっていたこと?」
「うん。」
彼女は頷く。
「私は。」
「君の目になるためにいる。」
「君が、
もう目を必要としなくなる日まで。」
僕は思わず首を振る。
「違う。」
「僕はこれからも、
目は必要だよ。」
そう言ったものの、
その声には、
自分でも分かるほど力がなかった。
彼女は、
そっと手を離す。
その瞬間。
身体のどこかが、
静かに欠け落ちてしまったような、
言いようのない空白が残った。
「帰ろう。」
彼女が言う。
「もう、
すっかり夜だから。」
僕たちは橋を渡りきる。
彼女は少しだけ距離を空けて歩き、
帰り道では、
もう一言も話さなかった。
街灯は、
二人の影を長く伸ばし、
重ね、
また離していく。
家へ着く。
震える手で鍵を取り出した。
三度目でようやく、
鍵穴が見つかる。
部屋の灯りをつけると、
暖かな光が静かに広がった。
振り返る。
何か話そうと思った。
けれど彼女は、
玄関の外、
廊下の影の中に立ったままだった。
「今日は。」
「一人でいて。」
「君は、
ちゃんと受け止めなくちゃいけないから。」
「……僕が、
もう見えなくなったことを?」
「うん。」
「君は?」
彼女は少し笑う。
「近くにいるよ。」
「呼んでくれたら、
いつでも。」
彼女は歩き出す。
その背中を、
僕は呼び止めた。
「待って。」
彼女が振り返る。
「一つだけ。」
「どうして、
泣いていたの?」
廊下の暗がりの中で、
僕に見えたのは、
涙を残した輪郭だけだった。
「私はね。」
彼女は静かに言う。
「君の目になれる。」
「葉っぱの葉脈も。」
「雨の跡も。」
「涙が落ちる軌跡も。」
「全部、
君へ伝えられる。」
少しだけ、
笑う。
寂しいほど、
優しい笑顔だった。
「でも。」
「どれだけ世界を見せても。」
「君は、
いちばん大切なものだけは、
見えなくなってしまった。」
「……何?」
僕は尋ねる。
彼女は答える。
静かに。
迷いなく。
「世界を見ている、
私。」
それだけ言うと、
彼女は闇の奥へ歩いていった。
猫みたいに静かな足音は、
やがて完全に消えてしまう。
僕は扉を閉め、
そのまま背中を預けて、
ゆっくり床へ座り込んだ。
部屋には、
冷蔵庫の低い駆動音だけが響いている。
手の甲を見る。
涙の跡は、
もう半分ほど乾いていた。
僕はそっと、
その場所へ唇を寄せる。
かすかな塩の味がした。
それは、
彼女がここにいた証だった。
けれど証拠というものは、
いつか蒸発し、
消え、
記憶の中の、
ぼんやりした一点へ変わってしまう。
その夜、
僕は初めて、
自分が"盲"であることを認めた。
目が見えないわけじゃない。
信号の色も分かる。
文字も読める。
人の顔だって識別できる。
けれど、
もっと深い場所にある"視る力"だけが、
壊れた電球みたいに、
二度と灯らなくなっていた。
彼女は、
僕の白杖だった。
そして、
たった一つの目だった。
そう認めた瞬間、
不思議なくらい心は静かだった。
重い病気の診断を聞いたあと、
ようやく覚悟だけが残るように。
もう、
疑わなくて済む。
窓辺へ歩く。
街には無数の灯りが瞬いていた。
昔なら、
あの灯り一つひとつに、
誰かの物語を想像していただろう。
でも今は。
「あれは一つの明かり。」
それだけだった。
そのとき。
窓ガラスに、
新しい水の筋が浮かんでいることへ気づく。
夜露だろうか。
それとも、
昼の雨がまだ残っているのだろうか。
指先で、
一筋をゆっくりなぞる。
冷たい。
湿り気だけが、
指先へ残る。
ふと思う。
――もし今、
彼女がここにいたら。
この水の跡を、
どんな言葉で話してくれるのだろう。
そう考えた瞬間、
僕は苦く笑った。
もう想像する必要なんてない。
これからは。
彼女が、
僕に教えてくれるのだから。
目の見えない人には、
目の見えない人の歩き方がある。
そして僕は、
彼女の言葉で世界を見る人間になる。
そう思ったとき。
胸の奥に、
少しだけ安堵が生まれた。
情けないほど、
静かな安堵だった。
少なくとも、
もう、
見えているふりだけは、
しなくていいのだから。
✿
自分が「見えなくなった」と認めた、その翌朝。
僕は闇の中で目を覚ました。
もちろん、
視界が真っ暗だったわけじゃない。
カーテンの隙間からは、
灰白色の朝の光が差し込んでいる。
それでもそこには、
もっと内側の暗闇があった。
方角を失ったような闇。
見知らぬ部屋で夜中に目を覚まし、
壁がどこにあるのか、
家具がどこにあるのかも分からず、
一歩踏み出すたび、
何かにぶつかってしまいそうな、
そんな闇だった。
僕はベッドの上で、
ただ待っていた。
やがて、
彼女の声が聞こえる。
目覚まし時計みたいに、
今日も正確な時間で。
「六時十七分。」
「今日は朝霧が出てる。」
「窓の外のビルは、
水に溶けた墨絵みたい。
輪郭が全部、
にじんでる。」
僕は顔を向ける。
彼女は窓辺に立っていた。
朝の光を背に受け、
髪も肩も、
淡い光の産毛に縁取られている。
振り返らないまま、
まるで独り言みたいに景色を語る。
けれど、
その言葉はすべて、
僕だけへ向けられていた。
「霧はね。」
「流れてるんじゃない。」
「静かに、
まっすぐ落ちてる。」
「灰色の薄い布を、
一筋ずつ垂らしてるみたい。」
「遅すぎて、
止まって見えるくらい。」
彼女は窓の向こうを見つめたまま、
続ける。
「向かいのマンション、
七階のベランダ。」
「ポトスを育ててる家があるでしょう?」
「今はもう、
緑がぼんやり滲んでるだけ。」
「水彩絵の具が、
水に溶けたみたい。」
僕は身体を起こし、
窓の外を見る。
霧は見えた。
いや、
灰色に霞んだ景色は見える。
でも。
「まっすぐ落ちる霧」も。
「布のような質感」も。
「滲む水彩」も。
僕の目は、
そこまで読み取ってくれない。
彼女が言葉にして初めて、
僕はそれを見ることができる。
「気温は?」
寝起きで掠れた声のまま尋ねる。
「十八度くらい。」
「湿度は高いよ。」
「空気が、
冷たい絹みたいに頬へ触れてくる。」
「今日は、
あの薄いグレーのニット。」
「それがちょうどいい。」
僕は頷き、
言われた通りの服を取り出した。
着替えながら、
ふと思う。
「どうして分かるの?」
「十八度だって。」
彼女は少し笑う。
「窓ガラスにつく水滴の速さ。」
「街路樹の葉っぱの揺れ方。」
「風は弱いけど、
葉の縁だけ細かく震えてる。」
「湿度が高い日の揺れ方なの。」
僕は窓際へ近づき、
同じように眺めてみる。
確かに、
細かな水滴はついている。
葉も、
わずかに震えている。
でも、
そこから気温や湿度を読むことは、
僕にはできなかった。
僕の目は、
景色を映すことしかできない。
意味を読み取ることは、
もうできなくなっていた。
洗面所へ向かうと、
彼女が後ろから言う。
「お湯は熱くしすぎないで。」
「肌が少し乾燥してる。」
「熱すぎると、
角質まで傷めちゃう。」
「春の小川くらい。」
「そのくらいのぬるさで。」
蛇口をひねりながら、
ふと昔を思い出す。
いつだっただろう。
昔の僕は、
自分の肌で湯加減を感じ、
自分で決めていた。
今は、
説明書を読むみたいに、
彼女の言葉を頼りにしている。
朝食は、
オートミールとコーヒー。
彼女は向かいに座っている。
姿はぼんやりしているのに、
そこにいることだけは、
不思議なくらい分かる。
「ちょうどいい固さ。」
彼女は器を覗き込む。
「溶けたバターみたい。」
「スプーンを立てると、
ゆっくり倒れていく。」
「ブルーベリーも入れたんだ。」
「実がはじけた紫色が、
白いオートミールの上で広がってる。」
「小さな銀河が、
爆発したみたい。」
僕は器を見る。
紫色は見える。
色が混ざっていることも分かる。
でも。
僕には、
ただ色が混ざっているだけだった。
「ミルクフォームは失敗。」
彼女はコーヒーカップへ視線を移す。
「泡が大きい。」
「月のクレーターみたい。」
「でも味は悪くないよ。」
「最初に苦味。」
「あとから酸味。」
「最後に少しだけ、
ナッツみたいな甘さが残る。」
僕は一口飲む。
苦い。
少し酸っぱい。
そのあと――。
ナッツ。
……そう言われれば、
そんな気もした。
僕の味覚もまた、
埃をかぶった楽器みたいに、
もう曖昧な音しか鳴らせなくなっていた。
家を出る前、
彼女が傘を指差す。
「持っていって。」
「九時頃には、
霧が細かい雨になる。」
「雨粒は小さいけど、
長く降るから。」
僕は黙って傘を手に取った。
エレベーターの中。
金属の扉に映る、
ぼやけた自分の姿を見ながら聞く。
「今日の僕、
どんな顔してる?」
彼女はじっと僕を見る。
優しく、
静かに。
「少し寝不足。」
「目の下に薄い青みがある。」
「でも頬は、
自然に赤くなってる。」
「淡く紅をさしたみたい。」
「全体としては。」
彼女は少し考え、
小さく笑う。
「疲れてる。」
「でも、
まだちゃんと立っていられる顔。」
「……何かに似てる?」
僕は尋ねる。
彼女は頷いた。
「晩秋の薔薇。」
「花びらの縁は少し巻き始めてる。」
「でも、
色だけはまだ失ってない。」
その喩えに、
僕は少しだけ笑った。
エレベーターの扉が開く。
朝霧の街へ、
僕たちは歩き出した。
通勤の道。
彼女は、
僕だけの案内人になっていた。
「信号が変わるまで、
あと七秒。」
交差点で彼女が言う。
僕は立ち止まる。
周りの人たちは、
スマートフォンを見たり、
誰かと話したりしながら待っている。
三秒ほどして、
青信号が灯った。
彼女は、
いつも正確だった。
角を曲がると、
パン屋の前で彼女が足を止める。
「見て。」
「今日はクロワッサンが焼きたて。」
「表面に蜂蜜が塗ってあって、
光を受けてきらきらしてる。」
「制服の女の子が一つ買ったよ。」
「店員さんがトングで挟んだ瞬間、
表面のパイ生地が、
さらさらって零れた。」
「金色の雪みたい。」
僕も店を覗く。
制服姿の少女が、
紙袋を持って出てきた。
袋の底には、
バターが染みた透明な跡。
確かにパン屑も落ちていた。
でも、
僕にはそれは、
ただのパン屑だった。
地上から地下へ降りる。
電車は朝の混雑で満ちていた。
彼女は車内を見渡しながら、
静かに話し始める。
「左から三つ目の席。」
「ベージュのトレンチコートを着た女性。」
「詩集を読んでる。」
僕は視線だけを向ける。
古びた文庫本。
紙は黄ばんで、
秋の梧桐の葉みたいな色になっている。
「ページをめくる前にね。」
彼女は小さく微笑んだ。
「指先で、
ページの端を何度も撫でてる。」
「まだ、
次のページへ行きたくないみたい。」
僕はもう一度見る。
確かに、
その女性はページの隅を撫でていた。
けれど、
そこに"名残惜しさ"までは、
僕には見えない。
「どうして詩集だって分かったの?」
小さな声で尋ねる。
「少しだけ文字が見えたから。」
彼女は答える。
「『影』。」
「『黄昏』。」
「『長い別れ』。」
「そんな言葉が並んでた。」
「それに。」
「口が少し動いてたでしょう?」
「心の中で、
読んでるの。」
「実用書を読む人は、
あんな読み方をしない。」
僕は本から目を離した。
車内には、
様々な匂いが漂っている。
香水。
朝食。
雨に湿った服。
金属の匂い。
全部が混ざって、
一つの朝になっていた。
彼女はそれを、
一つずつほどいていく。
「左前。」
「オレンジブロッサム。」
「少し強すぎるかな。」
「春を、
十ミリリットルの瓶へ無理やり閉じ込めたみたい。」
少し笑ってから、
続ける。
「隣の人。」
「ニラ饅頭を食べてきた。」
「息から匂いがする。」
「革ジャンの匂いと混ざって、
不思議。」
「野性と生活感が、
一緒になってる。」
僕も鼻を鳴らしてみる。
匂いはある。
でも。
そこまで細かく、
分けて感じることはできなかった。
出版社へ着くと、
仕事が始まる。
今日読むのは、
都市公園の生態についての記事だった。
冒頭には、
こう書かれている。
『春になると、公園では花々が咲き誇り、生命力に満ちあふれる。』
僕はその一文を見つめる。
「春」。
「花」。
「生命力」。
どれも、
空っぽの言葉に思えた。
殻だけ残って、
中身がなくなってしまったみたいだった。
「書き直す?」
僕が聞くと、
彼女は頷いた。
「うん。」
「でも、その前に。」
「本物を見に行こう。」
昼休み。
僕たちは近くの公園へ向かった。
季節はもう晩秋。
春みたいに咲き競う花はない。
残り咲く菊。
葉を落とし始めた木々。
そして、
静かに緑を守る低木。
「でも。」
彼女は草原を指差した。
「命はまだいる。」
「ただ、
形が変わっただけ。」
「見て。」
「芝生。」
「黄色くなり始めてる。」
「でも、
全部一緒じゃない。」
「葉先から黄色くなる草。」
「真ん中から色が抜ける草。」
「一本一本、
違う速さで秋になっていく。」
「まるで。」
「少しずつ灯りを消していく街。」
「同じ時間には、
誰も眠らないでしょう?」
僕は草を見る。
黄色い。
その違いも、
言われて初めて気付いた。
銀杏の木の下まで歩く。
彼女はしゃがみ込む。
「根元。」
「そこを見て。」
「苔だけは、
まだ春の色をしてる。」
「土が湿ってるから。」
「ほら。」
「カタツムリ。」
「さっき通った跡。」
「銀色に光ってるでしょう。」
細い粘液の線が、
陽の光を受けて、
きらりと光る。
「小さな天の川みたい。」
僕もしゃがむ。
確かに見える。
でも。
見えているだけだった。
彼女に教えてもらわなければ、
僕はきっと、
そのまま通り過ぎていた。
「あそこ。」
彼女がベンチの方を見る。
「おじいさんが鳩に餌をあげてる。」
僕も視線を向けた。
白い髪。
少し曲がった背中。
紺色の上着。
鳩たちに囲まれながら、
掌を静かに差し出している。
「餌を撒いてるんじゃない。」
彼女は言った。
「一粒ずつ。」
「掌に乗せて、
鳩が来るのを待ってる。」
「ほら。」
「啄ばむたび、
掌の皮膚が少しだけ沈んで、
また戻るでしょう?」
僕は目を凝らす。
確かに、
その小さな動きは見えた。
「世界の鼓動を、
指先で確かめてるみたい。」
彼女は静かに微笑む。
僕には、
老人が鳩へ餌をやっていることしか分からない。
でも彼女には、
その人が何を感じているのかまで見えている。
会社へ戻ると、
僕は原稿を書き直した。
秋が深まるにつれ、
公園の生命は、
静かに内側へと息を潜めていく。
銀杏は最後の力を振り絞るように黄金色へ染まる。
その色は鮮やかな黄ではなく、
古い手紙の紙を思わせる、
時間を含んだやわらかな黄。
芝生もまた、
一斉に色を失うわけではない。
一枚ずつ。
一株ずつ。
それぞれ違う速さで、
緑へ別れを告げていく。
木の根元には、
なお瑞々しい苔が残っている。
そこだけが、
大地に残された最後の春だった。
ベンチでは老人が掌を開き、
鳩の小さなくちばしが、
何度も静かにその上を叩く。
命は去ったのではない。
ただ、
囁くことを覚えただけなのだ。
原稿を読み終えた編集者から、
すぐに返信が届いた。
「いいですね。」
「秋の空気に、
ちゃんと奥行きがあります。」
画面を見つめながら、
僕は小さく息を吐く。
その文章は、
一つとして僕の目だけで見つけたものじゃなかった。
全部、
彼女が見つけた世界を、
僕の手が書き写しただけだ。
午後は編集会議だった。
会議室の窓は西向きで、
傾き始めた陽射しが、
長机の上へ斜めに差し込んでいる。
「光が動いてる。」
彼女が耳元で囁く。
「とてもゆっくり。」
「一分で、
二センチくらい。」
僕は光を見る。
確かに、
少しずつ場所が変わっている。
でも、
そこまで正確には分からない。
「今。」
「李部長のノートまで届いた。」
「紙の繊維が、
光を透かしてる。」
「裏の文字が、
水の底に沈んでる影みたいに見える。」
僕は視線を落とす。
確かに、
裏の文字が少し透けていた。
「それから。」
彼女は続ける。
「光の縁。」
「少しだけ虹色になってる。」
「窓ガラスが、
ほんの少し湾曲してるから。」
「いちばん外側は薄紫。」
「それから青。」
「緑。」
「黄色。」
「真ん中だけ、
真っ白。」
「細い虹の刃みたい。」
「部屋をゆっくり切り分けてる。」
僕は目を細める。
言われて初めて、
光の輪郭に、
かすかな色があることへ気づいた。
会議の終わり際、
編集長が僕へ向かって言った。
「最近の連載、評判いいよ。」
「読者から、
"その場にいるみたいだ"って感想が増えてる。」
僕は頭を下げる。
「ありがとうございます。」
そう答えながら、
心の中では別のことを思っていた。
その場にいるように見えているのは、
僕じゃない。
彼女だ。
僕はただ、
彼女の見た世界を、
借りて書いているだけだった。
仕事を終える頃には、
彼女の言ったとおり、
細かな雨が街を濡らしていた。
街灯に照らされた雨は、
細い糸になって、
斜めに夜を縫っている。
「傘、さす?」
僕が尋ねる。
「うん。」
彼女は頷いた。
「雨は弱いけど、
夜まで降り続く。」
「せっかく洗った髪、
濡らさないほうがいいよ。」
僕は傘を開く。
雨粒が布へ落ちる音は、
桑の葉を食べる蚕みたいに、
細かく、
絶え間なく続いていた。
「聞いて。」
彼女が微笑む。
「雨粒は、
大きさで音が違うの。」
「大きい粒は『タッ』。」
「普通の粒は『ポツ』。」
「小さい粒は、
音より先に震えだけが伝わる。」
「今日の雨はね。」
「『ポツ』が主役。」
「たまに『タッ』が混ざって、
リズムを作ってる。」
僕は耳を澄ませる。
確かに違いはある。
けれど、
僕にはただの雨音だった。
音楽には聞こえない。
横断歩道へ差しかかったとき、
彼女が急に言った。
「止まって。」
僕は反射的に足を止める。
その瞬間、
一台の車が右折してきた。
タイヤが水たまりを踏み、
大きな水しぶきを上げながら、
目の前を走り抜けていく。
あと一歩踏み出していたら、
全身びしょ濡れになっていただろう。
「どうして分かったの?」
僕が聞く。
「エンジンの音。」
「それから、
濡れた路面を走るタイヤの音。」
「急いでる車は、
少しだけ呼吸が速いから。」
青信号になる。
僕たちは道を渡った。
振り返ると、
さっきの車は、
もう街の流れへ溶け込んでいた。
「ありがとう。」
僕が言う。
彼女は少しだけ笑う。
「ううん。」
「これが、
私の役目だから。」
その言葉は静かだった。
けれど、
どこか疲れているようにも聞こえた。
諦めにも似た、
穏やかな疲労。
家へ帰ると、
夕食は簡単な麺にした。
鍋から立ち上る湯気が、
天井の照明を受けながら、
ゆっくりと形を変えていく。
「見える?」
彼女が湯気を見上げる。
「影が天井を流れてる。」
「ゆっくり動く嵐雲みたい。」
「真ん中は濃くて、
端は少しずつ薄くなる。」
「今は鯨。」
「……あ、崩れた。」
「今度は山脈。」
僕も見上げる。
白い湯気は見える。
形が変わることも分かる。
でも。
鯨にも。
山にも。
僕には見えなかった。
「麺は?」
器を持ちながら尋ねる。
彼女は覗き込み、
嬉しそうに頷いた。
「ちょうどいい。」
「ちゃんとコシがある。」
「青菜の緑が、
少しずつスープへ溶けてる。」
「水墨画で、
墨をにじませるみたい。」
彼女は半熟卵を指差した。
「割ってみて。」
箸でそっと割る。
濃い橙色の黄身が、
とろりと流れ出した。
「夕日みたい。」
「溶けた夕焼け。」
僕はそれを見つめる。
綺麗だとは思う。
でも。
その美しさは、
彼女の言葉を借りて、
初めて形になるものだった。
夕食のあと、
テレビはつけなかった。
雨音だけが、
部屋を満たしている。
時計の針だけが、
静かに時間を刻んでいた。
「今日。」
僕は口を開く。
「……疲れた?」
彼女は、
すぐには答えなかった。
僕の隣へ腰を下ろす。
音はしない。
けれど、
空気の重さが少しだけ変わる。
それだけで、
彼女がそこにいると分かった。
「疲れるよ。」
しばらくして、
彼女は静かに言う。
「でも。」
「必要なことだから。」
「君の目が休んでる間、
私が代わりに働くだけ。」
僕は首を振った。
「僕の目は、
壊れてない。」
「光も見える。」
「形も見える。」
「ちゃんと映ってる。」
彼女は優しく笑う。
「うん。」
「映ってる。」
「でも。」
「映ることと、
見えることは違う。」
「景色は、
誰かに意味を与えられて、
初めて世界になる。」
「今はその役目を、
私がしてるだけ。」
「……どうして?」
僕は静かに尋ねた。
「どうして、
そうなってしまったんだろう。」
彼女は少し考えるように視線を伏せる。
窓の外では、
雨が絶え間なく降り続いている。
その音が、
一秒一秒の沈黙を埋めていった。
「世界が。」
彼女はゆっくりと言う。
「複雑すぎたのかもしれない。」
「あるいは。」
「逆に、
あまりにも単純すぎたのかもしれない。」
僕は黙って耳を傾ける。
「細かすぎるものを、
心が全部受け止めきれなくなると。」
「人は、
少しずつ削ってしまう。」
「見なくてもいいもの。」
「感じなくても生きられるもの。」
「そうやって、
世界を簡単にしていく。」
彼女は小さく息をつく。
「でも。」
「簡単になりすぎた世界は、
だんだん、
何も語らなくなる。」
僕は目を閉じた。
その言葉は、
痛いほどよく分かった。
「逆かもしれない。」
彼女は続ける。
「全部が分かりきってしまったから。」
「もう、
驚かなくなったから。」
「心が、
見ることをやめちゃったのかもしれない。」
彼女は少し笑う。
「ごめん。」
「私は心理学者じゃないから。」
「分かるのは、
景色だけ。」
「私はただ。」
少しだけ間を置いて、
僕を見る。
「君の目だから。」
その一言だけで、
部屋はまた静かになった。
雨音だけが、
変わらず窓を叩いている。
僕は彼女の方を見る。
暖色のスタンドライトの光の中で、
彼女の輪郭は、
長時間露光で撮った写真みたいに、
やわらかく滲んでいた。
「もし。」
僕はゆっくり口を開く。
「このまま、
治らなかったら?」
彼女は少しも迷わなかった。
「そのときは。」
「ずっと、
君の目になる。」
「でも。」
僕は笑う。
「疲れるでしょう。」
彼女も、
少しだけ笑った。
「疲れるよ。」
「でもね。」
「疲れるってことは。」
「ちゃんと生きてる証だから。」
その言葉は、
妙に優しかった。
僕は何も返せず、
二人で黙ったまま、
雨の音を聞いていた。
しばらくすると、
彼女が小さく囁く。
「雨。」
「さっきより少し強くなった。」
「細い針が、
一斉に地面へ落ちていくみたい。」
耳を澄ます。
確かに、
雨音は少し密になっていた。
「遠くで救急車。」
「サイレンが、
雨に濾されてる。」
「水の底から聞こえる声みたい。」
僕にも、
ぼんやりと聞こえた。
「上の階。」
「誰かがピアノを弾いてる。」
「難しい曲じゃない。」
「短い旋律を、
何度も繰り返してる。」
「自分を慰めるみたいに。」
僕は耳を澄ませる。
本当に、
かすかなピアノが聞こえてきた。
今まで気づきもしなかった音だった。
「それから。」
彼女は笑う。
「君。」
「ちゃんと呼吸してる。」
「ゆっくり。」
「波みたい。」
「静かに満ちて、
静かに引いていく。」
僕は自分の呼吸へ意識を向ける。
吸う。
吐く。
言われて初めて、
そのリズムが聞こえてきた。
「あとね。」
彼女はテーブルの上を見る。
「紅茶。」
「表面に、
薄い膜ができてる。」
「トンボの羽みたいな模様。」
「湯気はまだ残ってるけど。」
「光の中では、
もうほとんど見えない。」
「たまに揺れるだけ。」
「まだ、
温かさが逃げてる証拠。」
僕はカップを見る。
細い湯気が、
かすかに立っていた。
「君は。」
僕は小さく言う。
「本当に、
全部見えてるんだね。」
彼女は静かに頷いた。
「それが。」
「私の生き方だから。」
その夜、
歯を磨くために洗面所へ立った。
鏡の中には、
二十七歳の僕が映っている。
歯磨き粉の白い泡。
ミントの冷たさ。
目尻にはまだ深い皺はない。
けれど、
その眼差しには、
自分でも名前をつけられない何かが宿っていた。
鏡を見つめたまま、
僕は静かに尋ねる。
「僕の目。」
「今、
どんなふうに見える?」
彼女は僕の後ろへ歩いてきた。
鏡の中には、
僕の姿と、
ぼんやりとした光だけが映る。
そこに彼女はいる。
けれど、
輪郭以外の何も、
僕にははっきり見えない。
「疲れてる。」
彼女は優しく答えた。
「でも。」
「まだちゃんと、
焦点を合わせようとしてる。」
「虹彩は深い茶色。」
「磨いた琥珀みたい。」
「疲れてるから、
瞳孔は少し開いてる。」
「夜の湖みたいに。」
「光をたくさん受け止めるのに、
ほとんど返さない。」
僕は鏡へ顔を近づける。
確かに、
濃い茶色の瞳。
少し開いた瞳孔。
そこまでは見える。
でも。
琥珀も。
夜の湖も。
それは彼女が世界へ与えた意味だった。
僕には、
ただの色しか見えていない。
しばらく鏡を見つめたあと、
僕は小さく笑った。
「ねえ。」
「時々思うんだ。」
彼女が首を傾げる。
「何を?」
「君は。」
僕は少し考えてから言う。
「僕の目じゃない。」
彼女は何も言わない。
ただ、
静かに待っている。
「君は。」
「僕の目が、
本当はこうありたかった姿なんだ。」
「もし、
まだ本当に世界を見られたなら。」
その言葉のあと、
部屋はしばらく静まり返った。
彼女は返事をしない。
鏡の中で、
ぼんやりとした光だけが、
かすかに揺れた。
まるで、
風に触れた蝋燭の火のように。
歯を磨き終え、
顔を洗い、
部屋の灯りを消す。
ベッドへ横になると、
雨はまだ降っていた。
暗闇の中、
彼女の声だけが、
耳元へそっと届く。
「もうすぐ雨は止むよ。」
「一粒ずつ、
間隔が長くなってる。」
「別れを惜しんでるみたい。」
「濡れた道路には、
街灯の光が広がってる。」
「揺れる金色の池みたい。」
「世界は一度、
雨に洗われた。」
「だから今は、
とてもきれい。」
「明日また、
少しずつ汚れていくのを、
静かに待ってる。」
僕は、
その景色を思い浮かべながら、
ゆっくり眠りへ落ちていった。
夢を見た。
夢の中で、
僕は本当に目が見えなかった。
比喩なんかじゃない。
完全な闇だった。
それでも、
彼女の声だけは、
ずっと僕のそばにあった。
「今はね。」
「夜明け前。」
「一番暗い時間。」
「でも東の空は、
もう少しだけ白み始めてる。」
「古い銀細工みたいな色。」
「ほら。」
「一羽目の鳥が鳴いた。」
「まだ自信がないから、
一音だけ。」
「君の窓辺には、
雨で落ちた葉っぱが一枚。」
「くるん、と丸まってる。」
「葉柄には、
まだ水滴が残ってる。」
「その小さな雫の中にね。」
「目を覚まし始めた世界が、
全部映ってる。」
僕は、
彼女の言葉だけで、
世界を見ていた。
自分の目で見るよりも、
ずっと鮮やかに。




