1 季節の標本
二十七歳の誕生日の朝、僕は浴室の鏡の中に一枚の顔を見た。
前髪から落ちた水滴が眉骨を伝い、頬骨を滑り、顎の輪郭をなぞって、最後には鎖骨のくぼみへ消えていく。
その軌跡を目で追いながら、僕は思った。
――これが僕の顔だ。
うん。
形容詞のない、ただの叙述文だ。
取扱説明書の一行みたいに。
歯磨き粉を絞ったとき、ふとそれが青いことに気づいた。
正確には、白いペーストの中に小さな青い粒が混じっている。
……その瞬間、僕は空の色を思い出せなくなっていることに気づいた。
空そのものの姿を忘れたわけじゃない。
頭上に広がっていて、雲が浮かぶ日もあれば、何もない日もある。
それは知っている。
だけど――。
「青」という色が、どんなふうに見えるものだったのか。
それだけが思い出せなかった。
まるで言葉の意味だけは覚えているのに、その言葉が呼び起こしていた感覚のすべてを失ってしまったような感覚だった。
僕は窓辺へ歩き、カーテンを開ける。
外には灰白色の朝霧が広がり、建物の輪郭は水に濡れた鉛筆画みたいに滲んでいた。
「――今日の雲、裂かれた綿みたいだね」
突然、すぐそばで声がした。
「端っこが光ってる。すごく薄くて、壊れそうなくらい脆い光。一度触れたら、そのまま砕けちゃいそう」
振り向く。
彼女はそこにいた。
いや、正確には――光の中にいた。
僕は一度も彼女の顔をはっきり見たことがない。
暗いからでも遠いからでもない。
視線を合わせようとすると、焦点が景色のずっと向こうへ外れてしまうみたいに、輪郭がやわらかく溶けてしまうのだ。
残るのは、「そこにいる」という存在感だけ。
それでも、彼女が笑っていることはわかった。
声を聞けばわかる。
「遅かったね」
僕は言った。
「今日は来ないんじゃないかと思った」
彼女の手が僕の手首を包む。
いつも空気より少しだけ温かい指先。
日向に干した絹のような感触だった。
「ずっといたよ?」
彼女はくすりと笑う。
「ただ、さっきの君が鏡の中の自分に夢中だっただけ」
彼女に導かれるまま、僕はもう一度窓の外へ向き直った。
「ほら、あそこ。ビルとビルの隙間」
彼女が指差す。
「見える? 霧が晴れてきてる。全部まとめて消えるんじゃなくて、細い糸みたいに少しずつ引き裂かれていく感じ。上のほうはもう光が通ってる。淡い金色。下はまだ重たい鉛色のまま」
僕は必死に見ようとした。
霧は見える。
光の強弱も見える。
だけど僕に見えているのは、あくまで「霧」と「光」という現象だけだった。
彼女の言う、
裂けた綿。
壊れそうな光。
糸のようにほどけていく霧。
そうした質感は、外国語みたいだった。
文字は読めるのに、意味がわからない。
「空の色を思い出せないんだ」
僕がそう言うと、彼女は少し黙った。
その沈黙の間に、遠くの通勤ラッシュの音が聞こえる。
潮の満ち引きみたいな車の流れ。
「んー……別に無理して思い出さなくてもいいんじゃない?」
やがて彼女は柔らかく笑った。
「見ればいいんだよ。色はちゃんとそこにあるんだから。名前なんて、そんなに大事じゃない」
――だけど問題はそこだった。
僕は名前を必要としている。
物事に名前を与えることで生きている人間だから。
僕の仕事は自然雑誌のコラムを書くことだ。
熱帯雨林で発見された新種のラン。
渡り鳥の中継地となる湿地帯の匂い。
そんなものを言葉にする。
同僚たちは僕を「歩く感覚辞典」と呼ぶ。
先週の原稿では、ある苔の緑色について八百字も書いた。
――春先の柳の芽のような頼りない黄緑ではない。
真夏の葉のような艶やかな深緑でもない。
雨季の森、岩陰に息づく静かな青緑。
湿った呼吸を宿したような色だ。
編集者は返信にこう書いた。
「今号は特に情景が鮮やかでした」
彼らは知らない。
その八百字に並ぶ形容詞のすべてが、記憶の底から引き揚げた標本だということを。
「青緑」と書いているとき、僕の目の前には色など存在しない。
あるのは言葉と、その定義だけ。
参考写真を見つめながら、まるで異星の地形を観察するみたいに眺めていた。
「ねえ、小学校のときの美術の先生、覚えてる?」
突然、彼女が言った。
もちろん覚えている。
いつも絵の具だらけのエプロンを着ていて、指先には落ちない色が染みついていた。
『空色に白を少し。それから群青をほんの少しだけ。入れすぎると濁るぞ』
先生はそう言いながら色の作り方を教えてくれた。
「三十六色の水彩セット、持ってたよね」
彼女の声には笑いが混じる。
「君、よく頼まれてもいないのにパレット洗ってた。本当は色を混ぜて遊びたかっただけなのに」
僕は苦笑する。
「一度、プルシアンブルーと黄土色を混ぜたことがあったでしょ。夕暮れの土みたいな色になって、一日中はしゃいでた」
覚えている。
けれど覚えているのは出来事だけだ。
パレットを洗ったこと。
絵の具を混ぜたこと。
先生が笑っていたこと。
その色そのものも、その色を見て嬉しかった感覚も、色褪せた写真みたいに消えてしまっている。
構図だけを残して。
「空を描きたかったんだ」
僕は呟く。
「でも、あの青が作れなかった」
彼女は僕の手首を離し、そっと肩に触れた。
「じゃあ描かなくていいよ」
静かな声だった。
「そのまま立っていて。ゆっくり、君の中に入ってくるのを待てばいい」
僕は目を閉じた。
車の音。
遠くの学校から流れる体操の音楽。
隣の部屋で卵を焼く音。
ベランダの物干しが風に擦れる微かな音。
それらが立体的な空間を形作る。
僕はその輪郭を頭の中で描くことができた。
これが僕のやり方だ。
視界が色を失うたび、僕は音で世界を組み立てる。
「君の世界は音でできてるんだね」
彼女が言う。
まるで心を読んだみたいに。
「でも音は地図のひとつにすぎないよ。温度もあるし、匂いもあるし、手触りもある」
そう言って彼女は僕の手を取り、窓ガラスへ触れさせた。
朝霧が細かな水滴になって張りついている。
「感じる?」
彼女は囁く。
「均一に濡れてるわけじゃないんだよ。水滴が集まって小さな丘になってる場所もあれば、まだ乾いた平原みたいな場所もある。もう少し太陽が上がれば、丘のほうが先に消えていく」
指先に冷たさと微かな凹凸が伝わる。
僕は彼女の言う『丘』と『平原』を感じ取ろうとした。
一部はわかる。
けれど何か薄い膜を一枚挟んでいるみたいだった。
「僕……そのうち目が見えなくなるのかな」
彼女はすぐには答えなかった。
しばらくして、小さく息を吸う音が聞こえる。
本のページを風がめくるような音だった。
「失明って、重たい言葉だよ」
「でも正確だ」
「違う」
彼女は珍しく強い口調で言った。
「違うよ」
そして僕の手の甲に自分の手を重ねる。
二人の手が一緒にガラスへ触れる。
彼女の温もりが皮膚を通して伝わってきた。
静かで、確かで、途切れない温度。
「君はね――」
彼女は優しく言った。
「ただ、見る方法を少し忘れてしまっただけ」
「自転車の乗り方を覚えたばかりの頃みたいに。何度も転んでしまう時期があるでしょ? 足の力がなくなったわけじゃない。ただ、バランスの感覚を見失っているだけ」
「もし一生思い出せなかったら?」
彼女は少しだけ笑った。
そして、ごく自然に言った。
「――そのときは、私が君の目になるから」
その瞬間――
スマートフォンが震えた。
仕事のメールだ。
僕は目を開け、窓辺を離れる。
振り返ったとき、朝の光と彼女の輪郭は静かに溶け合い、もうどこからが光で、どこからが彼女なのか分からなくなっていた。
「また夜にね」
彼女は笑う。
「誕生日なんだから、お祝いしよう。連れて行きたい場所があるの」
「どこ?」
「秘密」
そう言って、いたずらっぽく笑った。
シャツに袖を通したとき、ベッドサイドに置かれた古いアルバムが目に入った。
深い緑色の布張りの表紙。
角は擦り切れ、長い年月を静かに語っている。
何気なく開く。
一枚目の写真には、六歳の僕が写っていた。
大きなプラタナスの葉を抱え、前歯の抜けた笑顔をカメラへ向けている。
背景は祖母の家の庭。
塀際にはクチナシの花が咲き誇っていた。
僕はその花をじっと見つめる。
写真は白黒だった。
それでも僕は覚えている。
……いや、覚えていると思っていた。
乳白色の花びら。
少し厚みがあって、夏の午後いっぱいを染めてしまうほど濃密な香り。
指先で写真をなぞる。
ざらついた印画紙の感触。
そのとき、不意に彼女の言葉が蘇った。
――「私が君の目になる。」
その一言が胸の奥へ静かに沈んでいく。
気づけば僕は、もう彼女に頼り始めていた。
暗闇で杖を手放せなくなった人のように。
そして何より恐ろしいのは――
僕自身、その依存を少しも嫌だと思っていないことだった。
✿
彼女が「連れて行きたい」と言った場所は、僕が子どもの頃に暮らしていた街だった。
仕事を終え、地下鉄の出口を出る。
目の前に広がっていたのは、記憶とは何ひとつ重ならない景色だった。
ガラス張りの高層ビル。
チェーン店の看板。
広場では音楽に合わせて運動する人たちが笑っている。
十年前、この一帯は再開発で姿を消した。
その頃、僕は地方の大学に通っていた。
母から電話があった。
『今日ね、家が取り壊されたの』
受話器越しの母は、どこか晴れやかな声だった。
『補償金が入ったから、将来は頭金くらいにはなるでしょう。あんたが街でちゃんと暮らせるなら、それで十分』
寂しさは感じられなかった。
現実を受け入れた人間だけが持つ穏やかな安堵が、その声にはあった。
「道、分からなくなっちゃった?」
右側から彼女の声がする。
「道なんて、もうないよ」
僕は苦笑した。
「残ってるのは座標だけだ」
彼女は小さく笑う。
「こっち」
今度は手を引かなかった。
それでも僕は、彼女がどこにいるのか分かった。
視覚でも音でもない。
空間そのものが、僕を彼女のいる方向へ導いてくれる。
磁石に引き寄せられる鉄粉みたいに。
広場を抜け、
噴水を回り込み、
高層ビルの間に隠れる細い路地へ入る。
道には新しい石畳が敷かれ、
白い目地が几帳面に埋められている。
壁一面には現代アート風のグラフィティ。
綺麗すぎる。
整いすぎている。
「ここね」
彼女は歩みを止める。
「昔は王さんの焼餅屋さんがあった場所」
その声は、思い出を起こさないように気遣うような優しさだった。
「毎朝六時になると窯に火が入ってね。
ゴォッて音が雷みたいに響いて、それから胡麻の焼ける匂いが路地いっぱいに広がるの。
君、朝は弱かったのに、その匂いだけは絶対に聞き逃さなかった」
僕は立ち止まる。
今ここにあるのは、ビルの室外機から吹き出す熱風だけ。
金属が焼けるような、乾いた匂い。
「もう少し歩こう」
彼女が言う。
路地の真ん中で足を止める。
「……聞いて。」
僕は耳を澄ませた。
車の走る音。
オフィスから漏れる電話の着信音。
自分の呼吸。
「もっと奥まで」
僕は目を閉じる。
都市の騒音を何層も掘り下げていく。
すると――
チリン。
ガラス玉が床へ落ちたような、小さな音。
「パン屋さんのドアベル」
彼女が微笑む。
「ドアノブに付いてたでしょう?
君、パンなんて買わないのに、学校帰りにわざとドアを開けて鳴らしてた。
奥さんに『ベル坊や』って呼ばれてたんだから」
もう一度。
チリン。
今度は分かった。
それは現実の音じゃない。
記憶の底から返ってきた反響だった。
「三歩進んで、左」
言われた通り歩く。
そこにあったのは壁。
その足元にはゴミ箱が並んでいる。
「靴屋のおじいさんがいた場所」
彼女は静かに続ける。
「夏は木陰で。
冬になると風を避けて、この角へ移ってきた。
トン、トン、トン。
二秒止まって、
またトン、トン。
君は『心臓の音みたい』って言ってた」
僕はしゃがみ込み、壁へ触れた。
ざらつくコンクリート。
剥がれ落ちた場所から覗く古い煉瓦。
手のひらを押し当てる。
温もりでも、
振動でも、
何か残っていないかと探す。
けれど返ってくるのは冷たさだけだった。
「その人は……今どこに?」
「分からない」
彼女は首を横に振る。
「街がなくなると、人も水みたいに砂へ染み込んでしまうから」
その言葉だけが、
静かな路地に長く残った。
「あそこに建っているマンションね」
彼女は通りの向こうを見つめながら言った。
「昔は李さんのおじいちゃんの家だった。」
「耳が少し遠くてね。いつもラジオの音を大きくして、演歌や浪曲……昔の歌ばかり流してた。」
「夏の夕方になると、その音が路地いっぱいに広がるの。君は歌の意味なんて分からないのに、小さな椅子を抱えて玄関先に座ってた。」
「『お前は耳がいい子だ』って、いつも頭を撫でてくれた。」
僕は記憶の中の老人を探した。
思い浮かぶのは、白く伸びた口髭。
それから、籐椅子の肘掛けにいつも置かれていた、濃い茶色のラジオ。
ケースにはひびが入り、透明なテープで何度も補修されていた。
「……今は?」
僕は静かに尋ねた。
「その音は、もうないの?」
彼女は首を横に振る。
「なくなったわけじゃないよ。」
「形が変わっただけ。」
そう言って黙り込む。
僕も何も言わず耳を澄ませた。
やがて聞こえてくる。
遠くの広場から流れるダンス音楽。
どこかの部屋で流れているテレビドラマの台詞。
宅配バイクの電子音。
地下鉄が駅へ滑り込む重たい振動。
幾重にも重なった音が、この街の新しい地図を描いていた。
「川が流れを変えても、水そのものは消えないでしょう?」
彼女は小さく笑う。
「街も同じ。」
僕はゆっくり首を振った。
「でも、川底が変われば」
「その水は、もう昔と同じ水じゃない。」
彼女は何も言わなかった。
ただ僕たちは立ち尽くし、
街が古い記憶を少しずつ塗り替えていく音を聞いていた。
新しい音が、
古い音を覆っていく。
波が砂浜の足跡を消していくように。
しばらくして、僕は呟いた。
「静かな場所へ行きたい。」
「静かな場所?」
「何も聞こえない場所じゃない。」
「自分の鼓動まで聞こえるような静けさ。」
彼女は少し考え、
優しく頷いた。
「あるよ。」
「少し歩くけど。」
「うん。」
僕たちは路地を抜け、
大通りを渡り、
歩道橋を越えた。
そこから先は古い住宅街だった。
六階建てほどの団地。
外壁には無数の電線が這い、
ベランダには洗濯物が風にはためいている。
夕暮れの空に、小さな旗のようだった。
中庭には小さな公園があり、
年配の人たちが石のベンチで談笑している。
僕たちは一番奥の長椅子へ腰を下ろした。
「……今度はここ。」
彼女が囁く。
「聞いて。」
僕は目を閉じた。
最初に聞こえたのは、
遠くを走る車の音。
けれど街中よりずっと柔らかい。
綿を一枚挟んだ向こう側から聞こえるみたいだった。
その次に近くの音。
年配の人たちが交わす方言混じりの会話。
内容までは分からない。
けれど声の抑揚だけで、不思議と穏やかな気持ちになる。
風がプラタナスの葉を揺らす。
さらさら、と乾いた音。
どこかの窓辺で小鳥が二度だけ鳴き、
また静かになる。
そして、
もっと近く。
耳の奥で、
とくん。
とくん。
自分の鼓動が響いていた。
「聞こえる?」
彼女の声は、
ほとんど吐息だった。
「……うん。」
「静けさってね。」
「音がないことじゃない。」
「音が息をできる余白のことなんだよ。」
僕はそのまま目を閉じ続けた。
音だけでできた天蓋の下にいるようだった。
世界を分類したり、
名前を付けたり、
説明しようとする衝動が、
少しずつ遠ざかっていく。
僕はただ聞いていた。
理解しようとも、
意味を探そうともせずに。
「子どもの頃も、よくこうしてた。」
彼女が懐かしそうに笑う。
「おばあちゃんの家の竹ござに寝転んで、夏の音ばかり聞いてた。」
「蝉。」
「団扇。」
「アイスキャンディー屋さんの鈴。」
「君ね、蝉にも名前を付けてたんだよ。」
思わず笑ってしまう。
「そんなことまで?」
「もちろん。」
「一番大きな声で鳴く子は『将軍』。」
「いつも一匹だけで鳴いてる子は『詩人』。」
その瞬間。
記憶がふっと鮮やかになった。
竹ござのひんやりした感触。
隣の部屋で祖母が西瓜を切る音。
包丁とまな板が触れ合う、
澄んだ音。
そうだ。
確かに僕は、
蝉を種類じゃなく、
一匹ずつ違う存在として聞いていた。
あの頃の僕は、
それぞれの鳴き声には、
それぞれ違う意味があると信じていたのだ。
「いつからだろう。」
僕はぽつりと呟く。
「そんなふうに聞かなくなったのは。」
彼女は少しだけ沈黙してから答えた。
「たぶん。」
「作文を書き始めた頃。」
「先生に『夏を描写しましょう』って言われて。」
「君は音を聞くんじゃなくて、音を選ぶようになった。」
「『蝉の声は○○みたい。』『団扇の音は○○みたい。』って。」
「本当の音じゃなく、比喩を書くようになった。」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
その作文は賞をもらい、
教室の後ろに貼り出された。
嬉しかった。
でも同時に、
どこか空しかった。
『蝉の声は銀の針が空気を縫うようだった』
『団扇の音は疲れた羽根の羽ばたきだった』
そんな文章を書いた。
先生は褒めてくれた。
だけど、
本当の蝉の声は、
蝉の声以外の何ものでもなかった。
「……僕は」
ゆっくり息を吐く。
「言葉の中で生きすぎたのかもしれない。」
彼女は静かに笑った。
「違うよ。」
「君は橋を架ける人になったの。」
「世界と言葉の間に。」
「ただ――」
彼女は空を見上げる。
「橋の上を歩き続けるうちに。」
「橋の向こうにあった景色を、少し忘れちゃっただけ。」
夕暮れは、いつの間にか夜へ溶け始めていた。
庭で談笑していた老人たちも、一人、また一人と家路につく。
やがて街灯が順番に灯りはじめ、淡い琥珀色の光が、足元の闇を少しずつ押し広げていく。
「そろそろ帰ろうか。」
僕がそう言うと、彼女は首を横に振った。
「待って。」
少し笑ってから、いたずらを思いついた子どものような顔で言う。
「もうひとつだけ、聞いてほしい音があるの。」
「どんな音?」
「……耳を澄ませて。」
僕は静かに息を整えた。
最初は何も聞こえない。
あるのは、夜が少しずつ深まっていく静けさだけだった。
けれど――
しばらくすると。
さら……
さら、さら……
ごく細かな砂が高い場所からこぼれ落ちるような、かすかな音が耳に触れた。
絶え間なく続いている。
けれど、意識を向けなければ、そのまま夜の静けさへ溶けてしまいそうなほど小さな音だった。
「……何の音?」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「プラタナスの葉っぱが落ちる音。」
「秋が来たんだよ。」
「葉っぱが枝から離れる瞬間、葉柄がぷつりと切れるでしょう?」
「本当に小さな音。でも、ちゃんと聞こうとすると聞こえるの。」
彼女は夜空を見上げる。
「葉っぱにも、それぞれお別れの仕方があるんだよ。」
「『ぱちっ』って思い切りよく離れる子もいれば。」
「『すぅ……』って、最後まで名残惜しそうに風へ身を預ける子もいる。」
僕は耳を澄ませ続けた。
さら……
さら……
音はまだ降り続いている。
細かな雨みたいに。
「聞こえる。」
僕は小さく言った。
「でも……違いまでは分からない。」
「うん、それでいいの。」
彼女はそっと僕の手の甲へ手を重ねた。
指先の温もりだけが、静かな夜にはっきりと伝わってくる。
「聞こえるだけで十分。」
「違いはね。」
「違いを探そうとしなくなった頃に、自然と聞こえてくるものだから。」
僕たちはゆっくり立ち上がった。
団地の門を出ると、管理人室のテレビでは夜のニュースが流れている。
アナウンサーの落ち着いた声。
車の往来。
信号が変わる電子音。
街は再び、たくさんの音で僕を包み込んだ。
それでも僕の耳には、
あの葉擦れにも似た小さな音だけが残っていた。
まるで録音が終わったあと、
テープの奥にかすかに残る、
静かな余韻のように。
その夜、僕は夢を見た。
僕自身が、一枚のプラタナスの葉になっていた。
一番高い枝に揺られながら、
少しずつ近づいてくる地面を見つめている。
風が吹く。
葉柄がゆっくりと緩みはじめる。
僕は待っていた。
自分が枝を離れる、その瞬間を。
その音は、
「ぱちっ」だろうか。
それとも、
「すぅ……」だろうか。
――そこで目が覚めた。
時計は午前三時を指していた。
ベッドの上でしばらく天井を見つめながら、
ふと思い出す。
今日は、僕の誕生日だった。
願い事をするのを、すっかり忘れていた。
……いや。
もしかしたら、夢の中でもう願っていたのかもしれない。
どうかもう一度だけ。
葉が枝を離れる、その「ほとんど存在しない別れの音」を、聞くことができますように。
✿
週末の朝、母から電話があった。
「家の片づけも、これで最後よ。残っていた荷物が出てきたの。何か残しておきたいものがあるなら、一度見に来ない?」
あの家は三年前に売却した。
新しい住人がリフォームを始め、その地下室から古い段ボール箱がいくつか見つかったらしい。
「あなたが子どもの頃のものばかり。」
そう言われて、僕は地下鉄で街を半分横切り、かつて「家」と呼んでいた場所へ向かった。
新しい住人は穏やかな人だった。
地下室の扉を開けながら言う。
「箱はこちらです。どうぞごゆっくり。運ぶのをお手伝いしましょうか。」
「ありがとうございます。」
地下へ降りる。
土の湿り気と、かすかな黴の匂いが鼻をくすぐった。
天井から裸電球がひとつ吊られ、その淡い光だけが地下室を照らしている。
三つの段ボール箱が壁際に寄せられていた。
ガムテープは乾ききり、触れれば砕けそうだった。
最初の箱を開く。
教科書。
問題集。
通知表。
懐かしさより先に、紙が長い年月を吸い込んだ匂いが立ちのぼる。
映画の中にあるような甘い「思い出の匂い」ではない。
湿気を含んだ紙のかすかな酸味。
乾いた埃が喉の奥へ残す、細かなざらつき。
時間には、ちゃんと匂いがあるのだと思った。
二つ目の箱には、おもちゃが詰め込まれていた。
車輪の外れたミニカー。
色褪せた積み木。
片目を失ったテディベア。
僕はその熊をそっと持ち上げる。
毛並みは固く寝てしまい、指先に触れる感触は、まるで古い麻布みたいだった。
「その子、ブラウンって名前だったよ。」
後ろから彼女が言う。
「英語を覚えたばかりの頃でしょう? 『brown』っていう響きが、この世で一番きれいな言葉だって言ってた。」
僕は少し笑う。
「覚えてる。でも、本当は灰色だった。」
「それでも君は、茶色なんだって譲らなかった。」
「幼稚園の先生と、本気で言い合いまでしたよね。」
僕は熊を箱へ戻した。
片方だけになった瞳は天井を見つめたまま、
長い眠りの途中にいるように静かだった。
最後の箱は、不思議なくらい軽かった。
蓋を開けると、一番上には薄い薄葉紙が何枚も重ねられている。
年月を吸って黄ばみ、
少し触れただけで崩れてしまいそうなほど脆くなっていた。
僕は息を殺すように、その紙を一枚ずつめくっていく。
薄葉紙をめくると、その下から現れたのは――
僕だけの「自然標本箱」だった。
小学生の頃、夢中になって集めていたものばかり。
冬に備えて木の実を蓄える小動物みたいに、僕は身の回りの自然を少しずつ持ち帰っては、大切にしまっていた。
古い雑誌のページに挟まれた落ち葉。
薄いグラシン紙に丁寧に包まれた蝶の翅。
洗って大きさごとに並べた石ころ。
一枚の衣服だけを残して姿を消したような、完全な蛇の抜け殻。
樹皮の欠片を足先に残したままの蝉の抜け殻。
僕は、一枚のカエデの標本を手に取った。
葉脈は地図の川筋みたいにはっきり残っている。
けれど、その鮮やかだったはずの色は、長く淹れすぎた紅茶のような、均一な褐黄色へ変わっていた。
「それね。」
彼女も僕の隣へしゃがみ込む。
「裏山でいちばん高い木から落ちてきた葉っぱ。」
「重陽の日だった。学校がお休みで、君は『世界でいちばん赤い紅葉を見つける』って、一人で山へ登ったの。」
彼女は小さく笑う。
「木の下を三周くらいうろうろしていたら、その葉っぱが、ちょうど君の頭の上へ落ちてきた。」
「君、『僕が選ばれた』って、本気で信じてたよね。」
僕は葉を裏返す。
裏面には、ごく細かな斑点が散っていた。
黴なのか、それとも昔、虫が食べた痕なのか。
もう見分けはつかない。
「家へ持って帰って、辞書に挟んだんだ。」
記憶が、ゆっくりと言葉になる。
「でも翌日には反り返ってしまって。」
「母さんのアイロンを勝手に持ち出して、こっそり伸ばそうとした。」
「表紙まで焦がしかけたんだよ。」
彼女は肩を揺らして笑う。
「そのせいで、しっかり叱られた。」
「うん。」
僕も笑う。
「でも、後悔はしなかった。」
葉柄へそっと指先を触れる。
乾ききったそれは、
少し力を入れただけで砕けてしまいそうな、
小さな骨みたいに脆かった。
さらに箱の中を探る。
今度は、一枚の銀杏の葉。
縁には小さな欠けが残っていた。
「学校にあった大きな銀杏の木。」
彼女は懐かしそうに言う。
「本当は採っちゃいけなかったのに、お昼休みに椅子を運んできてね。」
「ぐらぐらする椅子の上へ乗って、ようやく一番低い枝へ手が届いた。」
「緊張しすぎて、葉っぱを取るとき指を切っちゃった。」
僕は右手の人差し指を見る。
そこには今でも、
細い白い傷跡が一本だけ残っていた。
「あの葉っぱは、『自然百科事典』の栞にした。」
「一学期が終わるまで、ずっと挟んでた。」
「その本は?」
彼女が尋ねる。
「古本じゃなくて……廃品回収に出しちゃった。」
「葉っぱも、一緒に。」
口調は不思議なくらい穏やかだった。
けれど胸の奥では、
長いあいだ動かしていなかった関節を、不意に曲げられたような痛みが、小さく軋んでいた。
次に現れたのは、蝶の翅だった。
オオカバマダラ。
橙と黒の模様は今もなお鮮やかなままだったが、
包んでいたグラシン紙は飴色に変わり、端がわずかに反り返っている。
「この子だけは、少し特別。」
彼女の声が、少しだけ静かになる。
「拾ったんじゃない。」
「君が助けた子。」
「助けた……?」
僕はそっと問い返した。
彼女は静かに頷く。
「羽化したばかりだったの。」
「翅がまだ乾ききっていなくて、雨に打たれてしまって。」
「植え込みの下で動けなくなっていた。」
言われるまま、記憶を辿る。
六月。
梅雨の晴れ間だった。
学校帰りの公園。
濡れたアジサイの葉陰に、一匹の蝶がじっと身を寄せていた。
近づいても逃げない。
逃げられないのだと、すぐに分かった。
「君ね。」
彼女は懐かしそうに笑う。
「ずっと傘を差しかけてた。」
「『翅が乾くまで』って。」
「でも子どもだったから、どれくらい待てばいいのか分からなくて。」
「結局、一時間以上もその場にいた。」
僕も思わず笑ってしまう。
「母さんに、すごく怒られた気がする。」
「うん。」
「びしょ濡れで帰ってきたから。」
「でも、お母さんは最後にこう言った。」
彼女は少しだけ声色を変え、優しい調子で真似をした。
「――その子、ちゃんと飛べた?」
胸の奥で、何かが静かにほどける。
「飛んだよ。」
僕は小さく答えた。
「雨が止んで。」
「陽が差してきたら。」
「何度か翅を震わせて、それから真っすぐ空へ飛んでいった。」
彼女は嬉しそうに目を細める。
「そう。」
「だから君は、地面に残っていたこの翅を拾った。」
僕は手の中の標本を見る。
ずっと、死んだ蝶の翅だと思っていた。
違った。
これは命の終わりを拾ったものではない。
生きようとした記憶の続きを、大切にしまっていたのだ。
「覚えてる?」
彼女が尋ねる。
「その日、君は言ったんだよ。」
『飛べるって、きっとすごいことなんだね。』
僕は目を閉じた。
その言葉だけは、驚くほど鮮明に残っていた。
あの頃の僕は、
飛ぶことが奇跡だと思っていた。
羽ばたくことも、
風に乗ることも、
生きていること、そのものが。
いつからだろう。
それを当たり前だと思うようになったのは。
箱の隅には、小さなガラス瓶が一本転がっていた。
コルク栓は乾ききり、
中には白い羽根が一枚だけ入っている。
掌ほどの大きさしかない、
雪片のように軽い羽根だった。
「これは……。」
僕は首をかしげる。
どうしても思い出せない。
彼女は瓶を両手で包み込むように持ち上げる。
その仕草は、
まるで壊れやすい約束に触れるみたいに、
どこまでも静かだった。
「この羽根だけは。」
彼女はゆっくりと言う。
「君、一度も名前を書かなかった。」
「どこで拾ったのかも。」
「いつ拾ったのかも。」
「何の鳥だったのかも。」
瓶の中で、
白い羽根は何も語らず横たわっている。
長い年月を経ても、
汚れることなく、
ただ静かに眠り続けていた。
「どうして……?」
僕は呟く。
彼女は僕を見つめ、
少しだけ寂しそうに笑った。
「その理由を思い出せたら。」
「今日ここへ来た意味も、きっと分かるよ。」
僕はガラス瓶を受け取り、掌の上へそっと載せた。
思っていたよりも、ずっと軽い。
軽すぎて、
そこに何も入っていないような気さえした。
瓶越しに白い羽根を見つめる。
その輪郭だけははっきり見える。
けれど、それがどんな白だったのか。
雪のような白だったのか。
雲のような白だったのか。
それとも、陽の光を透かすような白だったのか。
僕にはもう分からなかった。
「色は忘れてしまっても。」
彼女が静かに言う。
「その羽根を手にした日の気持ちは、まだ残ってる。」
「人はね。」
「思い出を、色だけで覚えているわけじゃないから。」
僕は瓶を胸の前で抱く。
ガラスの冷たさが、
少しずつ掌の温度へ溶けていく。
目を閉じる。
そして、
何も思い出そうとはしなかった。
ただ、
瓶の中で眠る羽根と、
自分の呼吸だけを感じていた。
地下室は静まり返っている。
遠くで車が走る音。
古い配管を水が流れる音。
どこかで木が軋む、小さな音。
その静けさの中で、
僕はふと気づいた。
今日は一度も、
「色が見えない」と嘆いていない。
彼女も気づいていたのだろう。
僕のほうを見て、
とても穏やかに微笑んだ。
「少しだけ。」
「戻ってきたね。」
「……何が?」
僕が尋ねると、
彼女はすぐには答えなかった。
代わりに、
僕の手の中の瓶をそっと指差す。
「見つけようとする気持ち。」
「分からないままでも、大切にしたいって思える気持ち。」
「それがあれば。」
「景色は、きっとまた君のところへ帰ってくる。」
僕は返事をしなかった。
できなかった。
胸の奥で、
何か小さなものが、
ゆっくり息を吹き返していく音がしたからだ。
地下室を出ると、
午後の陽射しが階段の途中まで差し込んでいた。
僕は思わず目を細める。
眩しかったからではない。
光が、
少しだけ温度を持って見えた気がしたからだ。
振り返る。
地下室の扉は静かに閉じられている。
あの紙箱も、
標本も、
白い羽根も、
きっとまた長い眠りにつくのだろう。
けれどもう、
あれは忘れられた時間じゃない。
いつか誰かの心へ帰るために、
静かに待ち続けている時間なのだ。
「帰ろう。」
僕が言う。
「うん。」
彼女は笑った。
その笑顔だけは、
最後まで、
やっぱりはっきりとは見えなかった。
けれど――
見えなくても、
そこにあることだけは、
もう疑わなかった。
そのとき、不意に思った。
彼女の顔を、ちゃんと見てみたい。
好奇心からじゃない。
ずっと僕の代わりに世界を語ってくれている彼女が、
いったいどんな表情で笑い、
どんな瞳で季節を見つめているのか。
それを確かめたくなったのだ。
けれど、視線を合わせようとするほど、彼女の輪郭は淡くほどけていく。
水面に映る月を掬おうとして、
触れた瞬間に光だけが砕け散るように。
「……君の顔が見えない。」
僕は静かに言った。
「最初から、一度も。」
彼女は小さく微笑む。
「見えなくていいんだよ。」
「世の中にはね、あまりにはっきり見ようとすると、かえって失ってしまうものもあるから。」
「でも。」
僕は言葉を探した。
「君のことを覚えていたい。」
「もし……」
「もし?」
「いつか君まで、この標本たちみたいに色褪せてしまったら。」
彼女は長いあいだ黙っていた。
地下室には、裸電球のフィラメントがかすかに鳴る音だけが漂っている。
やがて彼女は、穏やかな声で言った。
「私は褪せないよ。」
「標本じゃないもの。」
少しだけ間を置いて、
まるで秘密を打ち明けるように続ける。
「私は――季節だから。」
「また巡ってくる。」
その言葉は詩のようにも聞こえた。
けれど僕は、その奥に別の意味が潜んでいることだけは感じ取っていた。
ただ、それ以上考える勇気はなかった。
僕は標本をひとつずつ箱へ戻していく。
どれも壊れないように、
別れを惜しむみたいに、
ゆっくりと。
そして最後に蓋を閉じた。
「……これは、置いていくよ。」
彼女は僕を見る。
「本当にいいの?」
「うん。」
僕は頷いた。
「ここで眠らせてあげたい。」
「地下室は、きっと悪くない。」
「温度も変わらないし、光も当たらない。」
「それに、とても静かだから。」
地下室を出ると、
新しい家の主人は庭で花に水をやっていた。
僕は軽く頭を下げる。
「箱の中のものは、処分してください。」
「ありがとうございました。」
相手は少し驚いたような顔をした。
「本当にいいんですか?」
「子どもの頃の思い出なんでしょう?」
「惜しくありませんか。」
僕は静かに首を横へ振る。
「思い出は、もう僕の中にあります。」
「形あるものは……」
少しだけ笑う。
「今の僕には、重すぎるので。」
外へ出ると、
秋の陽射しが目に眩しかった。
思わず目を細める。
そのとき、
街路樹のプラタナスが、静かに葉を落とした。
一枚。
また一枚。
葉は風の中でゆっくり回りながら、
どんな姿で地面へ降りようか迷っているみたいだった。
一枚が僕の肩へ舞い降りる。
そっと摘み上げ、
陽に透かしてみる。
葉脈は細く光を通し、
人の毛細血管みたいに繊細だった。
「……何色?」
僕が尋ねる。
彼女はしばらく眺めてから微笑んだ。
「ただの黄色じゃないよ。」
「黄緑が少しずつ金色へ変わっていってね。」
「縁には焦げ茶色がうっすら残ってる。」
「まるで秋が、そっと口づけした跡みたい。」
僕はもう一度葉を見つめる。
確かに、
緑が残っている。
金色が滲んでいる。
茶色が縁を縁取っている。
でも僕の目に最初に映るのは、
やっぱり一枚の「落ち葉」だった。
そのあとでようやく、
色や形が静かに輪郭を持ちはじめる。
僕は葉をポケットへしまう。
「これだけは持って帰る。」
「新しい標本。」
彼女は笑う。
「すぐ枯れちゃうよ?」
「うん。」
僕も笑った。
「でも。」
「枯れていく時間を、今度はちゃんと一緒に見届けたいんだ。」
帰りの電車で、
僕はドアにもたれながら窓の外を眺めていた。
流れていく広告。
遠ざかるビル群。
ガラスには、水面のようにぼやけた僕の顔が映っている。
ポケットの中では、
葉が静かに脚へ触れていた。
子どもの頃、
僕のポケットにはいつも宝物が入っていた。
丸い石。
不思議な形の種。
蝉の抜け殻。
鳥の羽根。
小さくて、
役には立たないけれど、
どうしようもなく美しいものたち。
あの頃の世界は、
そんなささやかな宝物でできていた。
――いつからだろう。
僕のポケットに入るものが、
スマートフォンと、
鍵と、
財布だけになってしまったのは。
そして、いつからだろう。
ものを量る基準が、
「役に立つか」
「役に立たないか」
その二つだけになってしまったのは。
地下鉄がホームへ滑り込み、
到着を告げるアナウンスが響く。
人の流れに身を任せ、
電車を降り、
エスカレーターを上り、
改札を抜ける。
街の喧騒が、
ぬるい湯に身体を沈めるみたいに、
もう一度、僕を包み込んだ。
それでも。
ポケットの中には、
一枚の葉がある。
あまりにも軽くて、
重さなんて、ほとんど感じない。
それでも、
そこにあることだけは分かっていた。
まるで、
最後まで言葉になれなかった、
たった一つの想いが、
胸の奥ではなく、
喉の奥に、
そっと残り続けているように。




