奈落の祭壇へ・2
ザスリンは焦っていた。
トレヴァーとルナリア、そして魔剣を入手したところまではよかった。首尾よく行きすぎて怖いくらいだった。
しかし問題はその後だ。
何しろ彼一人で、男女二人と魔剣の監視をしなくてはならない。
まだ10代半ばのザスリンが、元婚約者の男女という微妙な関係を理解できるはずもなく、二人に別々の部屋をあてがわねばならないことが最初の誤算だった。
そしてザスリンは自分に仲間がいないことを、生まれてはじめて嘆いた。
誰か一人、協力者がいるだけでいいのに——ザスリンにはそんな仲間がいなかった。
王宮でルナリアを連れ去ることに失敗し、そのとき失ったバズのことを思い出す。あまり好きではない先輩だったが、こんなとき彼は率先してザスリンを手伝うはず。なぜバズを毛嫌いしていたのか、と後悔の念がザスリンの脳裏をかすめた。
結局、ザスリンは肉親の姉を頼ることにした。
彼女は生まれつき目が見えない。しかし方向感覚は確かで、迷路のような森の館の内部を熟知している。
しかし善良な姉を邪神の復活という危険な儀式に加担させるのは気が引けた。
物心つく前から貧しい家庭だったが、母と姉はザスリンにはいつも優しく愛情深く接してくれた。
その家族をより危険な目にあわせてしまうかもしれない。
(でも今だって姉さんはノクタリス男爵の家の召使いみたいなものだし、なぜか男爵は姉さんには甘いからな)
結局ザスリンの中では罪悪感よりも打算が勝ってしまった。
事情をよく知らない姉は、ためらうどころかむしろ喜んで手を貸してくれた。
だが、まさかその姉が、善良すぎるゆえに、独断でルナリアを逃がそうとするとは——。
目の前で姉が泣いている。
隣ではトレヴァーが取り乱している。
「ルナリアはどこへ行ったというのだ?」
「……わかりません。どこにもいないのです」
ザスリンは腰に手を当てて小さくため息をついた。
この森の館は樹海の奥地に建てられている。万が一迷い込んだ者がいたとしても、広大な建物内部は迷宮のように複雑な造りなので、簡単に出て行くことはできない。
しかもこの館の西側はキルギードの国境に接していて、ノクタリス男爵の館とつながっていた。
もし迷宮を抜け出せたとしても、ノクタリス男爵の館にたどり着くだけである。
姉がうつむいて小さくなる。
「正直に言ってくれたことには感謝するよ。もう家に帰っていい」
「ザスリン、ごめんなさい」
「泣かないで。ノクタリス男爵家の人間に会っても何も知らないふりをしてくれればいいからね」
苛立つ気持ちを抑え、できるだけ穏やかな声音で言ったつもりだが、姉は叱られた幼子のようにしゃくりあげながら泣いた。
面倒くさいのは姉だけではない。
隣に立つトレヴァーが親指の爪を噛んでいる。何か思案しているようにも見えるが、イライラしているだけの可能性もある。
ザスリンにとってはトレヴァーという人物が最大の誤算だった。
ティンバレン大公別邸で会った彼と、ルナリアを前にした彼は、同一人物かどうか疑いたくなるほど違っている。
はじめて言葉を交わしたときは、慎重に言葉を選ぶ様子にさすが国内最強の剣士だと感心したが、ルナリアのこととなると思慮深さをどこかに置き忘れてきてしまったかのような言動になってしまう。
「大丈夫。ルナリアさんは無事ですよ」
ザスリンはトレヴァーを安心させるように大きな声で言った。ザスリン自身の不安も打ち消したかったのだ。
「ルナリアが人殺しの兵器だと言ったな。『紅の秘宝』を宿していると?」
「ええ。彼女は僕らの肉体を一瞬で炭にできる能力を持っているのです」
トレヴァーは信じられないというように首をかしげる。
「ルナリアは魔法の類いは使えないはずだ……」
絶句したトレヴァーをザスリンが見上げると、彼は眉根を寄せて何度も瞬きを繰り返していた。
日はとっくに沈んだが、森の館の通路に灯りを置く習慣はない。ランプを持ってくるべきだったとザスリンは今更後悔する。
通路上方の明かり取り窓から差し込むわずかな星の光が、トレヴァーの表情をほのかに浮かび上がらせた。彼は陰鬱な視線を宙にさまよわせる。
「いや、待てよ。まさか……だが、そうとしか考えられない。だから俺との婚約を……」
「トレヴァー様はルナリアさんを得て新たな王として君臨するのです」
ザスリンはトレヴァーのひとりごとを断ち切るようにきっぱりと言った。
トレヴァーがザスリンを凝視する。
「どういうことだ」
「トレヴァー様は、ウィンスレイド建国王の直系の血筋です。現在の王と王太子は王位を簒奪した卑怯者の血を継ぐもの。あなたは彼らを亡き者にし、ルナリアさんを娶り、ウィンスレイド王国の正統な王となるのです」
「正統な王……」
「そうです。民が求めるのは、正統な血筋のもとに生まれた王による力強い統治です」
トレヴァーの瞳がギラリと光ったように見えた。途端に瞳の奥に雄々しい炎が灯り、目力が増す。
ザスリンは息を呑んだ。
(何が起きた? 前に「英雄になれる」と言ったときは少しも乗り気じゃなかったのに)
しかし喜ばしい変化には違いない。トレヴァーがその気になってくれれば、ザスリンも動きやすいのだ。
「まずはルナリアを探さねば。彼女の無事を確かめることが先決だ」
「トレヴァー様のおっしゃるとおりです」
「しかしどこへ行ったのだ」
「ご安心を。すぐに見つかりますよ」
トレヴァーは重々しい仕草で頷いた。赤毛の精悍な顔立ちの男の目は、長い眠りからようやく目覚めたような強い光が宿っていた。
もしこちらの思うとおりに動いてくれなくても、トレヴァーは使い途がある。王家の末裔に対して不遜な物言いだが、ここまで来てしまったら二人とももう後戻りはできない。
(いいさ。どうせ後戻りなんかできるわけない。わかりきったことじゃないか。……あの夜、雷を見て、ダーラウの海へ引き寄せられるように走って行ってしまったあのときから、もう僕は……)
暗い目をしたザスリンを一瞥もせずトレヴァーは通路を進み始める。
すべての光を吸い込みそうな深い闇が凝縮した通路の先へ向かって、ザスリンも渋々足を踏み出した。
ノクタリス男爵の後に続いて、ジェレルは地下へ向かう階段を降りた。
外観はこぢんまりとした館だが、地上部分は入口にすぎず、地下にこの館の本体が広がっているらしい。
館の内部に進むほど、空気中に漂う甘い匂いが気になった。
(この匂いは思考を奪う魔術の残り香ではないか?)
斜め前を歩くレナーテが壁の燭台を見上げた。彼女もこの匂いに何か感じたのだろう。
さらには地下通路の奥から不愉快な低い音が聞こえてくる。
獣の唸り声のようにも聞こえた。
「これが妖獣の声なの?」
レナーテが小声で問うと、ノクタリス男爵は小さく頷いた。
「少し厄介なことになっている」
「厄介って、何よ?」
二人の後方を歩くジェレルは通路の奥に動くものを見た。
同時に不快な臭いが鼻をつく。玄関ホールに倒れていた若い女性と同じ臭いだ。ドブのような腐敗臭に近い。ジェレルは無意識に鼻と口を手で覆っていた。
「あれが妖獣ですか?」
ジェレルの問いかけに答える前に、ノクタリス男爵は駆けだした。
「ファンヌ、もう離れなさい」
「だめよ。このままではお父様が死んでしまう」
唸り声を上げて床に這いつくばっている男の傍らに寄り添うファンヌの姿が見えた。
髪を振り乱したファンヌの顔面は蒼白で、目は血走っている。
「お父様、しっかりして!」
「うぅ……お前は私を『尊師』と呼んでいたはず。……お前は、誰だ?」
うずくまっていた男が顔を上げた。
ジェレルとレナーテは男の顔を見て、鋭く息を吸った。
「ひっ!」
男の顔は頬を中心に肉が垂れ下がり、むき出しになった眼球が窪みにおさまっていた。口の周りだけは筋肉が残っているのでかろうじて言葉を話せている。
頭髪は抜け落ち、床に散らばっていた。
「お父様、私は……ファンヌ」
「ファンヌ……?」
「そう、あなたの娘よ!」
ジェレルはファンヌと男を見比べた。
体中の血液がドクドクと音を立てて巡るのを感じる。首から上部がカッと急速に熱くなった。
(この男こそ、山小屋の男……! この男が……!?)
顔面は醜く崩れているが、間違いない。ぎょろりとした特徴的な目——。
魔剣が見せる夢の中で嫌というほど見た男が目の前にいる。
ファンヌを突き飛ばし、男の胸倉をつかんで痛めつけたい衝動にかられるが、ジェレルは生唾を飲み込んで耐えた。




