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痘痕の翡翠姫  作者: 環 花奈江
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八章 天帝の娘

一.

 天暦ティェンリー299年五月、葦切ウェイチェの岩の割れ目から水柱が噴き出した。

 それはあまりに唐突で、俄かには信じがたいことであり、早朝に報告を受けたイスカは思わず天幕から飛び出して我が目で確かめた。

 しかし本当に水柱は上がっていたのだ。

 今イスカがいるのは長河チャンファの南岸で、葦切からは直線距離にして二十里(8km)ほど離れているが、それでも昨日まではなかった塔のようなものが建っているのを目にすることができた。

 最も近くで水柱を観察した者からの知らせによると、その高さは十丈(約33m)以上あるそうだ。水量も多く、轟音を上げて青い空へ向かって噴き出し続けているのだという。


「伝承はまことだったか……」


 愕然としたイスカが一番に思い立ったのは、鴉威ヤーウィの地へ追いやった雪加シュエジャを呼び戻すべきだ、ということである。

 この水柱が噴き出したら、天帝ティェンディの娘を捧げなければいけないのが、古来からの盟約のはず。そうしなければ中原は水を司る龍の神の放つ気によって水没する。

 しかし雪加を連れてくる時間は無いとすぐに気付いた。

 雪加を後宮から追い出してから、もう八ヶ月もの時が過ぎている。当然彼女はもう鴉威の地に到着して、羊や山羊に囲まれて暮らしているはずだ。

 しかし伝承によれば、噴出から十日の間に天帝の娘を捧げねばならないのだ。遠い鴉威の地へ使者を走らせるのでは絶対に間に合わない。

 イスカは年始の変の直後、皇族の女達だけでなく、天帝の血を引くというツェイ家の女達も皆殺しにしていたので、他に捧げられる女がおらず、こんなことならもう一人くらい生かしておけば良かったと激しく後悔することになった。

 更に間の悪いことに、イスカは今、郭宗グォゾンの軍勢との戦の最中だった。

 昨年の葦切での敗戦の後、今度は郭宗自らが先頭に立って攻め込んできたのだ。

 そこでイスカも前回の反省を生かし、川を挟むのではなく、長河の南岸に兵を展開して迎え撃つことにした。

 イスカが頼みとする鴉威の騎馬兵を有効に活用するには広い土地があった方がいいし、兵を運ぶための大量の船もこれまでの間にしっかり準備できていた。

 それに五月という気候もイスカには都合が良かったのだ。鴉威の騎兵が暑さで弱り、戦が始まる前からくたびれ果てるということもない。

 こうして両軍とも二十万もの大軍を率いて陣を敷き、対峙することになったが、今のところ戦火を交えるには至っていない。

 兵を展開しながらも、イスカが和平を持ちかけたからだ。

 郭宗もこれに応じた。

 そこで明後日にもその席を設ける約束になっていたのだが、そんな時に水柱が何の前触れもなく上がったのだ。


「くそったれが……」


 大きな舌打ちと共に悪態をついたイスカは、ギリギリと奥歯を噛みしめた。

 これはどうすればよいのだ?

 イスカの周囲を見回すだけでも、華人ファーレンの兵士達は大いに怯えていると分かった。中には地に平伏して天帝への祈りを捧げている者もいる。

 水柱が何たるかを分かっていない鴉威の兵士ですら、この異様な光景を目にしては動揺を隠しきれない。

 そんな中、兵の一人がよろめくようにイスカの前に進み出ると、跪いて懇願した。


「陛下……王妃様に、どうかご命令くださいませ……葦切へ赴けと」


 これにはイスカが返事をする前に、他の兵士達も彼に倣った。

 皆、イスカが彼女一人を妻にしていることは知っている。それほどまでに王妃だけを愛しているとは容易に察しがつく。

 故に決断を渋られては堪らぬと、彼らは直感的に嗅ぎ取ったのだろう。

 イスカの目の前に兵士らが次々と膝を砕かれたかのごとく跪いていくという、異様な光景が広がった。

 彼らの抱く恐怖感が全軍へ波のように浸透していき、イスカをその中へ呑み込もうとしているかのようだ。


「……」


 じわりと脂汗が滲み、圧迫感で喉を締め付けられた。

 イスカは王として自分が採るべき選択を、正確に解している。

 だが、同時に打つ手が無いことも悟っていた。

 王妃は……鴎花オウファは天帝の血を引いていないのだから、水柱へ捧げても無意味なのだ。


「……分かった。だがあと十日ある。しばし待て」


 怯える兵士らにそう告げると、イスカは一旦自分の天幕に戻った。

 背後では兵士達が更に動揺し、騒ぎ出す気配を感じたが、今は彼らの前に立つことができない。あの恐怖に取り憑かれた目に見上げられていては、正しい判断なんてできなくなる。

 イスカは絵図面を取り出して開いた。

 戦の為に用意したもので、この近辺の街や、地形などを書き込んである。

 その殆どを絵で表現してあり、文字は僅かしか書かれていないから、文盲のイスカでもなんとか読める。


(……考えろ)


 両の目を大きく見開いて絵図面を睨みつけながら、イスカは焦る己に命じた。

 打つ手がないとは言っていられない状況だ。

 このままではイスカは、この地が大水で覆われると恐怖する者達に流されて、鴎花を無駄死にさせてしまうことになる。

 何か策は無いか?

 翡翠姫以外に天帝の娘を用意できないか? 

 そうすれば民心は落ち着き、水柱も収まるだろう。

 しかし葦切まで十日で往復できるくらいの近距離に、そんな都合のいい女は存在するだろうか?


***

 郭宗と会談をする約束をしたのは、両軍の陣からちょうど中間になる、なだらかで見晴らしの良い丘の上だった。

 水柱が上がった翌日の夜、イスカはこの丘の上に大男のシィ蓮角レンジャオ一人を伴ってやって来ていた。

 この辺りは広大な茶畑になっていて、よく手入れされた低木が並んで植えられている。

 鴎花が普段イスカの為に淹れてくれるお茶はこんな風に育つものだが、後宮の外へ出ることが無い彼女はまるで知らないだろうな、とふと思った。

 景徳ジンデェア寺まで連れて行ってやった時にも初めて木京の外に出た彼女は大喜びし、そして田畑で泥だらけになって働く者達の姿を間近で見ては深く感じ入った様子だった。

 美しい花に感動するのも良いが、民草の姿にまで目を向けることができるのも、彼女の良いところであろう。

 そんな彼女には、これからもっといろんなものを見せてやりたい。

 その為にもここが正念場。

 イスカは丘の一番高いところに床几を二つ置かせると、そのうちの一つに腰を下ろした。

 頭上では数え切れぬほどの星が輝き、月も出ている。

 五月の夜は肌寒さも覚えるが、北方の産であるイスカにとってはこれくらい寒さのうちに入らない。身につけているのは革の鎧と黒い頭巾、それに外套だけだが、例えこれらを脱いだとしてもなんともないだろう。

 いや、気持ちが昂って寒さを感じていないだけかもしれない。傍らに控える蓮角も、暑くも無いくせに先ほどから額に滲む汗をしきりに拭っている。

 無理もない。何しろ今からここに現れるのは、これからのいくさのみならず、中原の未来をも左右する男で……。


「……来ました」


 暗闇の中をこちらへ向かって進んでくる馬蹄の轟を感じ取った蓮角が、低い声で囁いた。そして地に耳をつける。


「四、五、六……十騎弱です」

「よし、火をつけよ」


 予定通り彼らは少人数で現れたようだ。安堵したイスカは傍らに設置していた篝火かがりびに火を灯させた。

 松脂が爆ぜ、闇夜に盛大な光を放つ。その瞬間、松明を掲げて丘を登ってきた騎影が、戸惑った様子で足を止めた。


「郭宗だな?」


 立ち上がったイスカが大きな声で問いかけると、一行の先頭にいた男は返事をするより前に、供の一人であるズイ広鸛グゥンガンを睨みつけた。


「騙したのかえ」


 その通りである。将の一人として北伐の軍に加わっていた彼は、イスカが送った密偵からの指示により、明日の会見場所の下見という口実で皇帝をここまで連れてきたのだ。

 郭宗自身に事前に伝えなかったのは、そんなことをすれば彼がイスカを殺すつもりで大軍を引き連れてくる可能性を疑ったからだが、広鸛はどうやらこちらの指示通りに働いてくれたようである。

 皇帝だけでなく、他の供の者達からも殺気立った目を向けられた彼は「陛下を謀るなど、万死に当たる烏滸おこの沙汰と存じますが、これこそ鵠国の国益に叶うことだと愚考し……」と必死で言い訳を述べていたが、要は言いつけを聞かなければお前を殺すぞ、とイスカに脅されてやったことである。


「いいじゃないか。どうせ明日にも会談を行う予定だったんだ。半日早いくらいは問題あるまい」


 それに二人きりで無いと話せないこともあるしな、と付け加えたイスカは蓮角を後方へ下げ、床几に座り直した。


「……」


 郭宗はむくれた顔をしつつも馬から降り、イスカの正面に置かれた床几に腰を下ろした。

 目の前にいるのがイスカ本人だと気付いた供の一人が、今にも「シャア!!」と叫んで飛びかかって来そうな顔をしたが、これに対しては「下がっておれ、鵬挙ホンジュ。ここは朕一人で良い」と命じる。

 どうやらこの血気盛んな青年がエァ鵬挙ホンジュのようだ。東鷲ドンジゥ郡の長官の倅で、昨年葦切に攻め込んできた若き将軍である。

 父の仇を討てる絶好の機会であるのに、と悔しさをにじませつつも、言いつけに従った鄂将軍は郭宗の十歩ほど後ろへ下がり、片膝をついて座る。他の者達もまた素直にそれに倣うのを見て、イスカは僅かに目を細めた。

 この男はよく部下を従えているようだ。その上状況判断が早いし、敵国の王と一対一で向かい合って座っても臆す気配が無い。

 篝火の灯りで照らし出された彼は引き締まった風貌の青年で、その肌はよく日焼けしていた。

 鵠国の皇帝と言えば燕宗のように軟弱な者ばかりかと思っていたが、南の辺境で長く暮らしていたこの男は違うのかもしれない。

 イスカは気を引き締めつつも、尊大な態度で話し始めた。交渉事は最初から下手に出るべきではない。


「広鸛がお前の側にいるということは、もう話は聞いているな?」

「……噂には聞いておったが、北方の者というのはせっかちじゃな。いきなり本題に入るとは」


 宮中のしきたりである長い口上に慣らされてきた郭宗には、イスカの態度が不自然に映ったようだが、そんなことはどうでもいい。


「一戦も交えぬうちにお前が和平交渉に応じたということは、この北伐は俺と話をする為のものなのだろう?」

「まずは証拠を見せよ。広鸛の話だけでは事の真偽を判断できぬ」


 部下達を下げているものの、郭宗は用心深く燕宗イェンゾンという単語を避けている。


「これまであの男が見つかっていないというのが、何よりの証拠だと思うが?」

「もっと確実なものを出せるであろう」

「首を持って来いと? それはいくら何でも親不孝が過ぎるんじゃないか?」


 イスカは嗤ってやったが、郭宗は動じなかった。むしろ床几を蹴って勢いよく立ち上がる。


「よぅ分かった。そなたの話は嘘じゃな。何も出せぬのであれば、この話は無しじゃ。次にまみえる時は剣戟の響く中でと思え」


 イスカは心の中で舌打ちを漏らす。

 やはりこの皇帝陛下、こちらの思いどおりに動いてくれるような甘い男では無かった。

 兎にも角にも、ここで郭宗を手放すわけにはいかないイスカは、仕方なく己の手の内を明かしたのだ。


「……悪いが、燕宗の身柄は去年のうちに鴉威の地へ送ったんだ。だから証拠は出せない」

「ふん。その話を信じよと?」

「確かに横着な話だな。これは俺が悪かった。代わりに我らが長河の南岸から兵を引くことで許してくれないか?」

「なんじゃと?」

「なんなら葦切もつける。あの島があれば、威国は喉元に匕首を突き付けられたも同然。その上での和平なら信に足るか?」

「正気かえ?」


 郭宗が思わず聞き返したのは、葦切が長河を横断するための要所であり、木京を防衛するためには欠かせない場所だからだ。

 だからこそ鄂将軍は去年の葦切での戦いでこの島を占領することを目標としたし、イスカは今でも兵を常駐させて守りを固めている。

 しかしイスカはそれでも構わないと言い切った。


「それだけ和平に本気だということだ。俺は中原の民を長引く戦で苦しめたいわけではない。寒さ厳しく、痩せた土地で生きる鴉威の民が、これから先も腹いっぱいに飯を食って暮らしていくためには、実り豊かな中原の大地が不可欠だ。だが俺達は中原の全てを欲しているわけではない」

「……」


 郭宗は床几に座り直し、そして押し黙った。

 葦切さえ得ておけば、将来木京を攻め落とすための足掛かりになるのではないだろうか、と考えたのだろう。

 皇帝として即位してからまだ一年にもならない彼は、いまだ長河の南、河南地域の全てを掌握しきっていない。今は基盤を固めることに全力を傾けたいはずなのだ。

 今回は葦切を得るだけで良しとし、今後余力ができてから攻め直せばよいのでは……?

 郭宗が脳裏に思い描いた計算を正確に見抜いたイスカは、蒼い瞳を僅かに細めて追加の条件を告げた。

 

「ただ一つ、こちらが葦切を差し出すためには、崔皇后を渡してほしい」

「母上様を?」

「今は皇帝の母親なのだから別の呼び方なのか? その辺りの華語はよく分からぬ故、俺は今まで通り皇后と呼ぶぞ。お前の軍勢の中にあの女がいることは調べがついている。今はその皇后の身柄が至急必要なんだ」


 それがイスカの考えた唯一の解決策だった。

 翡翠姫以外に天帝の血を引く女というのは、いまや郭宗の母しか存在しない。

 もしかしたら郭宗に娘が生まれていて、その子は資格を有しているのかもしれないが、そんな幼い子なら遠い郭の地にいるはずだ。

 しかし崔皇后はどういうわけだか、息子が率いる北伐の軍隊と共に来ていたのだ。

 天帝の血を引く一族とは本来崔家であり、皇后はその家の娘である。

 故に代々の皇帝は崔家の娘を皇后としてきた。

 皇后を崔家の女に限ったのは、外戚の横暴を警戒した為だけではない。例え皇后以外の女が生んだ男児が皇帝になったとしても、皇后さえ崔家の娘であれば、天帝の血を引く女をいつでも葦切に捧げられるからだ。


「これは威国の為だけではない、河南ファナンで暮らす鵠国の民にとっても重大な話だ。お前にとっては苦渋の判断になると思うが、どうか吞んでほしい」


 イスカの申し出に対し、郭宗は首を傾げた。

 郭宗の陣地からも葦切の水柱は見えており、天帝の娘を一刻も早く連れてこなければいけない状況であるとは分かっているが、どうしてイスカは自分の王妃である翡翠姫を使わないのか?

 彼がこの点に疑念を感じるのは当然であり、イスカはこうなるともう正直に全ての事情を明かさざるを得なかった。


「……翡翠姫は鴉威の地へ追放した。俺の王妃はその乳姉妹で、侍女を務めていた鴎花という女だ」

「うむ?」

「本物を庇うために、鴎花は自分が翡翠姫だと偽っていたんだ。俺は長くそれに気付けなくてな」

「それでも気付いたのであろう? その後も侍女の方を王妃にするとはどういう了見じゃ? 何故、雪加を鴉威から呼び戻して王妃としなかった?」

「……仕方ないだろう。本物の翡翠姫はあまりに可愛くなかった」


 イスカの不貞腐れたような言い様が可笑しかったようだ。郭宗は咄嗟に、くっ、と声に出して笑った。

 郭宗は長く郭の地に追放されており、瑞鳳ルイフォ宮を離れた時にはまだ幼かった妹が、その後どんな女性に育ったのかを知らないはずだが、それでも幼い頃から彼女の高慢ちきな性分の片鱗は見え隠れしていたに違いない。

 こうして状況を理解した郭宗は、次第に不敵な笑みを浮かべ始めた。

 この交渉、天帝の娘を得ている自分が優位に立っていると気付いたのだ。


「なるほどのぉ……よぅ分かった。この話をする為に、そなたは広鸛を使い、朕をここまで誘き出したのじゃな」

「……」

「じゃが断る」


 郭宗はニヤニヤと笑いつつも、きっぱり言い放った。

 その瞬間のイスカの受けた衝撃といったら無かった。

 氷の塊でガツンと鳩尾を殴られたような感覚。

 これは手詰まりか? では後はもう、正面から戦を仕掛けて八日以内に勝利を収め、崔皇后の身柄を得るしかないのか?、というところまで覚悟せざるを得なかった。

 しかし郭宗はそんな焦りの滲むイスカを見て、大いに喜んだだけだったのだ。


「母上様はそなたに渡さぬ。何故ならば葦切を得た後に、朕の手で水柱へと捧げるからじゃ」

「?!」

「さすれば天帝に認められし人の子の主は朕であると、広く民草に知らしめることができよう。どうしてその重要な役目を、そなたに譲ってやらねばならぬのじゃ」

「……良いのか? 崔皇后は曲がりなりにもお前の産みの母なのだろう?」


 郭宗のあまりの喜びっぷりにイスカは面食らってしまったが、彼はこれまで人前では絶対に明かすことができなかった鬱憤をぶちまけ始めたのだ。


「あの母は、朕を木京から遠く離れし郭へ追放した張本人であるぞ! 父上様の政務に対する姿勢を咎めた朕が邪魔になり、実の息子を見捨てたのじゃ。その上、朕の乳母をさしたる咎も無いのに殺めた。あの時の恨み、朕は決して許しておらぬ」


 それなのに崔皇后は年始の変の混乱から脱出し、郭の地までやって来てしまった。

 郭宗は父母への孝行を是とする華人の常識にのっとり、表向きは彼女を敬う姿勢を見せていたが、生母を慈しむ気持ちなど一寸たりとも持ち合わせていなかったのである。


「大体、郭の暑さに耐え兼ねて早く木京へ戻りたいと駄々をこね、鵬挙らを焚き付けて北伐の兵を起こすよう仕向けたところからして、あの女は迷惑以外の何物でもない。水柱へ捧げることができるのならば、むしろありがたいくらいじゃ」


 世の中には様々な母子がいるものである。

 ここまで息子に疎まれるとは、どんな女なのか逆に気になるではないか。

 そしてその答えは、この後すぐに出た。

 勢いづいた郭宗が広鸛に命じ、崔皇后をこの場へ連れてこさせたからだ。

 彼女にも取り巻きは多くいるし、親への忠を第一に説く霍書フォシュの教えに従えば、娘や妻を捧げるのは良くても、母君は如何でありましょうやと、したり顔で注進してくる家臣が必ず出てくる。

 だからこの夜のうちに皇后の身柄を確保しておこうと図ったのだ。

 郭宗の意を受けた広鸛は、闇夜を駆けて本陣へ戻り、そして崔皇后一人を連れて丘の上まで戻ってきた。

 内通者であることが露見してしまった彼が今後も鵠国で生きていくためには、皇帝に忠実であるところを是が非でも見せておかねばならなかったのだろう。

 そして夜中に叩き起こした彼女を身支度もろくに整えさせないまま単身連れ出すには、彼の長い舌こそが有用だったのである。


「何事かえ。妾に至急見せねばならぬものがあるとは何なのじゃ? いい加減なものなら、許さぬぞえ」


 文句を言いつつも広鸛の操る馬の背から降りてきた崔皇后の姿に、イスカは目を見張った。

 広鸛に急かされてここまでやってきた彼女は、皇帝の母として必要な装飾品や着物を身につけることもなく、適当に結った髪には簪一本を差しただけの格好をしていた。そして化粧もろくにしていなかったのだが、それにしても異様に老けて見えたのだ。

 燕宗はもっと若かったし、娘である雪加も確か十七、八歳だったはず。

 だからせいぜい四十代くらいの外見を想像していたのに、はっきり言って、これでは老婆ではないか。

 髪の毛だけは真っ黒に染めているが、それでも皮膚のたるみや首筋に刻まれた皺の多さは隠せない。手の甲の血管もくっきりと浮いて見えた。

 恐らくこれはウカリと同じ……いや、それ以上に年を喰っているはずだ。


「おぉ、母上様。よくぞおいで下さいました。かような刻限に母上様にご足労を願ったご無礼は、どうか平にご容赦くださいませ」


 郭宗は大袈裟な身振りと憂い顔を作って母を出迎えた。

 遠巻く形で立っている鄂将軍らの視線を意識しているのだろう。

 郭宗はあくまで表向きは孝行息子を演じなければいけないのだ。華人とは、実に面倒な生き方を強要されている。


「……そこにおるのは誰じゃ?」


 息子の傍らに立っているイスカの存在に気付いた彼女は顔をしかめた。

 黒い外套に黒い頭巾。闇夜に溶け込む黒ずくめの身なりは明らかに鴉威の人間であったからだ。

 訝しむ彼女に今の状況を説明するべく、郭宗は母の手を取った。


「母上様。母上様には今より、葦切の水柱の中へ飛び込み、その身を以て天と地を結ぶ役目を果たしていただくと決まりましたのじゃ」

「うん? 何を申しておる?」


「母上様の献身により、中原は救われます。そして朕は初代皇帝である太宗タイゾン陛下のごとく、人の子らを治めるに相応しき皇帝であると、多くの民草に認識されましょう」

「な……?!」

「母上様を失う悲しみに、朕は胸が張り裂けんばかりではありますが、民草の暮らしを守りたいという、母上様の崇高なお志を妨げることこそ不忠ではないかと……朕は今宵涙を呑んで覚悟を決めました」


 美辞麗句を駆使した息子の話から事態を理解した崔皇后は絶句し、次の瞬間、口から火を噴き出すかの如く激怒した。

 足を踏み鳴らして怒り狂うその様は、イスカは知らなかったが雪加の振る舞いとまるで同じであり、幼い彼女が母の態度を目にし、それを規範に振舞っていたことを証明することになった。


「そなたはこの母をなんじゃと心得ておる?! 皇太后であるぞ!!」

「それと同時に天帝の娘でもあると、朕は認識しておりまする」

「!!」


 この厄介者の母親を亡き者にできるのが、郭宗は嬉しくて堪らないのだろう。先ほどから憂い顔が綻びて、口元から本気の笑みが溢れてしまっている。

 上機嫌の郭宗は、イスカのことも母に紹介した。


「母上様。こなたにおります威国の王もまた、中原を救いたいという母上様の尊きお志に感銘を受け、不当に占領せし葦切から兵を引くと申しておりますのじゃ。葦切は朕らが父祖より受け継ぎし神聖な土地。その土地が再び鵠国の手に戻ってくることを、母上様ならきっとお慶びくださいましょう。さぁ、今より共に葦切へ参りましょうぞ」


 郭宗は今夜中に、葦切を手中に収める気である。母と二人であの島に籠もり、イスカが兵を引くのを見届ける心積もりだ。そしてこの女を連れている限り、イスカは手も足も出ない。

 崔皇后にわざわざ事情を明かしたのは、母の絶望の眼差しを見たかったからであろう。彼の憎しみはそれほどまでに強い。

 もちろんこんな企みを母に納得してもらえるとは思っていないので、彼は今からその口を塞ぎ、上から布でもかけて強引に運ぶ気なのだろうとは思う。

 しかし息子の傍らに立つイスカの正体を知った途端、崔皇后の眼の色が変わった。


「威国の王じゃと……?!」


 眉尻を吊り上げた彼女は、怒りの標的をイスカに変えた。


「うぬが妾を……鵠国を、全てを無茶苦茶にした張本人かえ?!」


 激昂に任せ、崔皇后はイスカめがけて殴りかかってきたから驚いた。

 なんとも逞しい婆様ではないか。

 もちろんイスカも黙って殴られてやる義理は無いので、寸でのところでその拳を受け止め、彼女の手首を掴み上げる。


「翡翠姫がおるではないか!!」


 イスカに両手の自由を奪われたまま、皇后は金切り声で叫んだ。

 目を吊り上げ、黄色い歯をむき出しにして怒鳴り散らすその姿は、高貴さの欠片も無い、ただの醜い老婆でしかない。


「汚らわしき夷狄ウーディめ。妾ではなく、うぬの妃を捧げよ!! どうして妾なのじゃ?!」

「……」


 唾を飛ばす勢いで詰め寄られても、イスカは何も答えない。

 郭宗はともかく、この女にまで鴎花が偽の翡翠姫であることを明かす必要は無いはずだ。

 ところが彼女の方は、そ知らぬ顔をするイスカにさらに噛みついてきたのだ。


「うぬの妃は痘痕面なのであろう?! 後宮を出て木京に潜み、長河を渡る手はずを整えている間に妾は確かに噂を聞いたぞえ。翡翠姫には醜い痘痕があると。ならば正真正銘の天帝の娘、本物の皇女ではないか」

「……え?」


 この言葉にはイスカも郭宗も、二人揃って狐につままれたような顔になってしまう。


(……痘痕のある方が、本物……だと??)


 二人が硬直してしまったことに気付いた彼女もまた、驚きの声を上げることになる。


「……うぬはまさか、あの痘痕娘が本物であるとも知らずに王妃にしておったかのかえ?」


 崔皇后は一瞬呆けたような顔をした後、痙攣でも起こしたかのように体を不自然に揺らし始めた。


「ほぉう……どこから秘密が露見したのかと訝しんでおったのじゃが、これでようやく得心がいったわ。そうかそうか。うぬはあれが偽物と思い込んだまま王妃に……おほほほ、それはまたなんとも滑稽な……」


 崔皇后は顎周りのたるんだ皮膚を揺らしながら、引きつった笑い声を上げ始めた。

 天に向かって哄笑し続ける母の姿を目の当たりにし、さすがに郭宗は青ざめた。気でも狂ったのかと疑ったのだ。


「母上様、お気を確かに。朕の妹の雪加には、痘痕などありませんでしたぞ」


 どうにか母を落ち着かせようとその手を掴んだ郭宗だったが、皇后はそれを乱暴な所作で払い除けた。


「生憎と雪加は妾の娘ではないぞ。あれは乳母である秋沙チィシャの娘。体中に痘痕を残した鴎花の方が我が娘じゃ」

「え……?」

「そういえばそなたは妹の顔が変わっていることにもまるで気付かなんだな。まぁ、無理もない。そなたは病がうつらぬようにという口実で、半年以上も皇后宮から隔離され、その間は表宮に籠もって学問に励んでおったのじゃからのぉ」

「そんな馬鹿な?!」


 信じられない思いのほうが強く、イスカはうっかり鴉威の言葉で叫んでしまった。


「そんなことはありえない。鴎花は……本人は何も言っていなかったぞ!!」


 イスカはすぐに華語で言い直したが、それは皇后の冷笑で迎えられただけだった。


「それは当然じゃ。雪加と鴎花には何も伝えておらぬ。知っているのは秋沙だけ……この秘密を守るために、妾は伽藍ティエラ宮の者達を下女に至るまで全て召し放ったのじゃからな」

「…………ま、まさか……そのために朕の乳母は……」


 郭宗は眩暈を覚えたようで、足元をふらつかせた。

 乳母が殺された時期と妹が疱瘡を病んだ年齢が重なっていることに、彼は気付いてしまったのだ。

 すでに自暴自棄やけくそになっていた皇后は、そんな息子の動揺を大いに嘲笑った。


「おぉ、そうじゃった。あの者だけは召し放ちにどうしても納得せなんだのぉ。給金は要らぬ、むしろ後宮で暮らすための金を払っても良いから、皇子殿下の側にいたいなどと抜かして妾に縋り付き……ふん。あの女が愚図ったせいで、余計な手間がかかったわ」


 余計な手間とは些細な罪をでっち上げ、彼女を死に至らしめたことを指しているのだろう。

 慕っていた乳母の死の真相を知った郭宗は、もはや顔色を失っていた。

 母と呼んでいた女がまさかここまでの怪物であったと知り、怒りを通り越して恐ろしくなってしまったのだ。


「狂っておる……まさか腹を痛めて産んだ娘を、その母がすり替えるとは……」


 郭宗は彼女が母親としての心を持っていないことを分かっていたはずだ。

 しかしまさか顔に痘痕が残っただけでも十分過ぎるほどに辛い運命を背負った幼い娘を見捨て、息子の乳母を無実の罪で殺めるほど無慈悲であったとは、思いたくも無かったのだろう。


「……確かに雪加の乳姉妹にはひどい痘痕がありましたな。朕もたった今、思い出しました。ですが、どうして……そんなことをすれば父上様などは、かえって嘆かれましょうや」

「陛下は毎日、女どもに呼ばれてはあっちにフラフラ、こっちにフラフラと、後宮内を渡り歩いておっただけ。妾が何をしようと見ておらぬわ」


 忌々しげに述べたところを見ると、夫である燕宗が他の女ばかりを愛でていたことに不満を抱いていたのかと思えたが、そうではなかった。


「陛下は壺を焼くこと以外、興味のないお方じゃ。女を抱くことは陛下にとっては後宮に安寧をもたらすための政務でしかない。故に妾にまでいらぬ情けをかけて……」

「は、母上様……?」

「どうして十四歳の少年が三十三の女を喜んで愛でることができようか!」


 皇后は怒りに任せて地面を強く蹴りつけた。

 彼女の不満は夫に抱かれること。それによって、あんな年上の盛りを過ぎた女にまで気を遣わねばならぬとは皇帝陛下もお可哀想に、と陰口を叩かれるところにあったのだ。


「妾は元々陛下の兄君に嫁いでおった。しかし殿下は不慮の事故で亡くなられ、そのせいで燕宗陛下が急遽皇太子に擁立され、妾はその皇后にされてしもうた」


 崔皇后が二夫にまみえずの大原則を破り、十九も年少の弟の妻になったのは、皇后は必ず崔氏から輩出する、という約束事のせいだった。

 どういうわけだか、この当時崔家では女子の誕生が途絶えており、他に選択の余地が無かったのだ。


「陛下が律儀に月に一度、必ず通って来られる故、子を二人も産むことになったが、口さがない者どもは、高齢であることを恥もせず、よぅお褥にしがみつけるものじゃと妾を嗤い……えぇい、口惜しや。若さしか誇るものの無い浅ましき女どもをやり込めるには、陛下は美しく育った娘を可愛がるべく通っておられるだけじゃと見せつけてやるしか無いではないか」


 容色の衰えを自覚する彼女は、娘を飾り立てることでしか心の平安を得られなかったのかもしれない。

 全ては歳の離れた男に再婚させられたことで生じた歪み……しかしそれは彼女の都合であって、母に捨てられた鴎花のことを思えば納得できる話ではない。


「これは面白ぅなってきたのぉ、蛮族の王とやら」


 崔皇后は絶句しているイスカを嘲笑いながら、髪を束ねていた簪を引き抜いた。

 支えを失い長い髪がばさりと落ちて顔にかかる。皺の多さにつり合わない、黒過ぎる髪を振り乱した彼女は、もはや人の顔をしていないようにイスカは感じた。


「痘痕の鴎花を皇女では無いと思い込み、それでも王妃に据えたうぬは、よほどあの醜い娘を可愛がっておったのじゃろう? ふふふ、これは見ものじゃ。王妃を天帝に捧げて民草を守るか、この地を捨てて辺境に逃げ帰るか……」

「やめろ!!」


 イスカは皇后に向かって飛びかかった。

 彼女が簪を掴んだ右の手首を閃かせたことに気付いたのだ。

 しかし間に合わなかった。

 崔皇后は簪を首に突き立てるのではなく、前に向かって蹴躓くようにしてその場に倒れたのだ。

 自らの身体の重みで簪が首に深々と突き刺さり、傷口からは勢いよく鮮血が飛び出してくる。

 簪を奪い取ろうとしたイスカの手は虚空を掴み、郭宗もすぐに簪を抜き取って出血を押さえようとしたが、その勢いは激しく、手の施しようが無かった。

 彼女は三度ほど跳ねるように全身を痙攣させた後、ぴたりと動かなくなってしまったのである。


「皇太后様?!」

「……来るでない!」


 少し離れた場所からこの様子を見ていた鄂将軍が驚き、飛び出してきそうになったが、寸前で郭宗が叫んだ。

 イスカはその間に自らの外套を外し、跪いて彼女に被せた。髪を振り乱し、夥しい出血の海の中に沈んだ遺体を直視するのは、さすがに気持ちのいいものではない。


(……まさか、自害して果てるとは)


 しかもその理由が、実の娘を水柱へ捧げるしか手が無い状況に追い込むためとは……どこまで性根の曲がった女なのであろう。

 イスカは途方に暮れたまま、彼女の傍らから動けなくなっていた。

 これから一体どうすればいいのだろう。

 ただの肉の塊になってしまったこの女には、本当にもう天帝の娘としての利用価値が無いのだろうか?

 この腕の一本や首では、天帝は満足してくれない?

 大体、天帝とやらは、この女が自分の子孫であると、どこで判断しているのだろう。

 そもそも地上を見守る龍神であるのなら、そこに子孫がいることくらい、見通せるのではないだろうか。

 水柱に女を捧げる必要性なんて、本当にあるんだろうか……?


「……これで、捧げられるのはそなたの王妃だけになってしまったな」


 項垂れているイスカの頭上に、疲労感の滲んだ郭宗の声が降ってきた。

 この男が嫌いだと、イスカは心底思った。

 今一番、考えまいとしていることをはっきり言葉にしてくるとは。

 もちろんそんな感情は八つ当たりでしか無く、イスカはのろのろと立ち上がると、少し離れたところで控えていた大男に命じた。


「……蓮角、狼煙を。退却の準備をするよう皆に命じよ」

「うむ?」


 背後で郭宗が怪訝そうな声を上げた。

 振り返ったイスカは、その発言の意図を説明する。


「俺の和平を望む気持ちは変わらぬ故、兵は一旦北岸まで引く。だが生きた皇后の身柄が無いのであれば、葦切は譲れぬな」

「……さもあらん。水柱の上がっている葦切を今占領しても、朕とて扱いに困る。あれが収まるまでは、朕も兵を一切動かさぬと約束しよう」


 それが中原を預かる者としての責務である。

 国同士の争いよりも、葦切の水柱を鎮めることの方が大切で、これを軽んじたと人々に思われてしまったら、イスカも郭宗も求心力を失い、国は崩壊するだろう。

 それから二人は目配せを交わし、互いの陣営へ無言で戻っていった。

 それと入れ替わるようにして、崔皇后の遺体の側に鄂将軍らが駆け寄る姿がちらと見えた。天を仰いで慟哭し始めた彼らは、その死にイスカが関わっていると思い込んで、ますます憤りを増しているようだったが、もはやそんなことはどうでもいい。

 僅かに明るさが加わった早暁の空に、蓮角の打ち上げた合図の花火が上がる。

 イスカは狼煙と呼んでいるが、夜の闇でも見えるように、蓮角は緑色の火薬を打ち上げたのだ。

 火薬の残り香が漂う中、イスカは馬の背に跨り、丘を駆け下りた。

 イスカは兵を引き、郭宗はとりあえず水柱を鎮めるまでの間、兵を動かさないと約束した。

 これでしばらくの間、戦の心配をする必要だけは無くなったが、心中はもちろん重く塞いでいる。

 この夜が明けたら残りはあと八日。明けない夜はないと言うが、いっそ夜なんて明けなければいい。

 規則正しく陽を昇らせる天の神の業すら恨めしく思いながら、イスカは王の帰還を待つ二十万の大軍の元へと馬を走らせるのだった。


二.

 二十万の大軍を長河チャンファの北岸まで戻すのは骨の折れる作業で、イスカはこれに五日を費やした。そして改めて陣を敷き直すと、その指揮を副将のケラに任せ、一旦木京へ戻ることにした。

 戦へ行く前には臨月で、大きな腹を抱えていた鴎花オウファが、無事に男児を出産したと知らせが入ったのだ。

 今はそれどころではない心境のイスカだったが、まずは子が生まれ、鴎花自身の体調も良いとの報告を喜んだ。

 しかし木京までの道程みちのりは厳しかった。

 その距離は短いし、道はよく手入れされているのだが、馬に乗ったイスカが通りかかると、どこから嗅ぎつけたのか、無辜の民草が群がってくるのだ。


「陛下、どうぞこの地をお救いください」

「翡翠姫様を早ぅ天帝に捧げて下され」


 水柱の出現に怯えた人々は、イスカの乗った馬の前にその身を投げ出してでも懇願してくる。

 これを蹴散らして進むことなどできるはずはなく、足を止めればさらに人々が近寄ってくるという悪循環。

 むしろ刃を握って襲い掛かって来てもらう方が対処のしようがある。


「道を開けよ。陛下は今よりその妃殿下の元へ行かれるのだ」


 イスカの供をしていた華人の兵士がたまりかねて声を張り上げると、彼らは喜び合い、そしてイスカに対し地に頭をつけてひれ伏した。

 たちまち沸き起こる国王陛下万歳の声は、恐怖に心を鷲摑みにされた彼らの、偽らざる叫びでもある。

 自分達の暮らす土地を守るためならば、異民族の王を褒めたたえることすら是とする心境なのであろう。

 

「……」


 馬上にあって、この異様な熱気を肌身で感じることになったイスカは、もはや己が抜き差しならぬ状況まで追い詰められていることを知った。

 本当は天帝ティェンディの娘を捧げれば水柱が収まるなんてのはただの伝説で、誰を生贄にしてもいいんじゃないかとか、そもそも本当に生贄が必要だか分からないとか、水の柱は不気味だし水量は多いが、さすがに地を埋めつくすほどにはならないだろう、などとイスカがうっかり口走ろうものなら、彼らは忽ち暴徒となるだろう。

 華人ファーレンの中にも、実際には起こり得ないことだと話半分で聞き流していた者はいたはずだが、噴き出す水柱を実際に目にしてしまっては、怯えることしかできない。

 だが鴎花は自分が本物の皇女であったとは知らないのだ。

 それが実は……と打ち明けられたところで、では葦切ウェイチェへ参ります、とすんなり事が運ぶだろうか。

 いや、鴎花ならむしろ自分を捧げてくれと言い出しそうで怖い。

 そうだ。

 青い空に向かって勢いよく噴き出すあの水の柱を見た瞬間、イスカは心のどこかで安心したのだ。

 鴎花が翡翠姫でなくて良かった。どれだけ皆に泣きつかれても彼女を捧げることだけは起こりえないのだから、と。

 しかしツェイ皇后の話を聞いてしまった今はもう、そんな心の逃げ場は無くなってしまった。

 イスカはこの国を治める者として、王妃を差し出すという選択肢をとるしかないと、追い詰められていたのだった。



***

 次々と集まってくる人々の波をかき分けるようにして進んだイスカが、ようやく香龍宮へ戻ることができたのは、昼過ぎのことだった。

 高い塀で囲まれ、かつては鵠国フーグォの皇帝が大勢の妃達を住まわせていた後宮は、今は鴉威ヤーウィの者達の宿舎となっているから、さすがにここでイスカの着物の裾に縋り付いて翡翠姫を、と懇願してくる者はいない。

 後宮の中では比較的小さな宮殿である香龍シャンロン宮は、イスカが出陣した日の朝と変わらぬ静かな様子だった。宮殿に隣接して作られた山羊小屋の前では、八仙花あじさいの赤紫の花がきれいに咲いている。

 仰々しいことを好まない鴎花は、出来る限り少ない人数で子供を育てたいと希望していたから、イスカも最近になって下女と警備の者を二人ずつ増やしたくらいで、なるべく今まで通りにしてやっていたのだ。

 しかしイスカがその戸を開くと、出迎えたのは警備に当たっているピトとフーイと、それに小寿シャオショウだけだった。


「まぁ、陛下……よくぞお戻りで……」


 自身も二カ月前に女児を産んだばかりで、乳の出も豊富な彼女は、鴎花たっての希望で乳母に指名されており、この時は二人の赤ん坊を並べて、その世話をしているところだった。

 彼女曰く、鴎花はつい先程どうしても高楼へ行きたいと言って、ウカリを連れて出て行ってしまった、とのことだった。


「もう歩けるのか?! 一昨日出産したばかりなのだろう?!」

「それが昨日一日休まれたので、もう大丈夫だと仰られまして……さぁ、殿下。父上様ですよ」


 イスカは小寿に導かれて、息子の前まで案内された。

 一昨日生まれたばかりの息子は、横に並んで寝かされている小寿の娘より一回り小さかったが、その手指は小さいなりにきちんと五本揃っている。そしてイスカが指を差し出せば、これを強い力で握り返した。

 浅黒い肌に、大きく見開かれた青灰色の瞳。

 親の欲目であろうか。生まれたばかりなのに随分と凛々しい顔つきをしているものだと感心したが、今はこの子をあやしながら鴎花の帰りを待つ気にはどうしてもなれなかった。

 彼女が心配でたまらない。

 後宮にいる者達にまで、先ほどイスカが潜り抜けてきたような水柱への恐怖心が伝染したら、彼女を拉致するくらいのことはしかねないだろう。

 息子との対面の最中であるのに険しい顔つきになってしまったイスカを、心配そうな二つの黒い瞳が見上げていた。

 小寿の息子で、三歳になる杜宇ドゥユゥである。


「ほぅ。お前も少し見ぬ間に、立派な面構えになったものだな」


 両脇だけに髪の毛を残し、頭頂部を剃りこぼった華人の幼児独特の髪型をした杜宇の頭を、イスカは愛し気に撫でてやった。

 この香龍宮の中をちょこまか走り回っていた悪戯小僧も、妹が生まれて兄になったせいか、ちょっぴり引き締まった顔つきをしていたのだ。

 イスカは幼児の頭をその大きな手で撫でてやった。


「そうだな。お前にはこの子の守り役を命じよう。王子に忠誠を誓えるな?」

「あい」


 意味も分かっていないくせに満面の笑みで頷くところがなんとも愛らしく、イスカは頬を緩めた。

 息子の方は問題ない。

 小寿親子ならば、これからもきっとイスカと鴎花の息子に対し、愛情を持って接してくれると確信している。

 そうなると、やはり問題なのは……。


「……俺も高楼へ行ってくる。後のことは任せた」


 イスカは小寿に息子を返すと、大急ぎで高楼へ向かったのだった。



***

 高楼は瑞鳳宮の片隅にあり、木京でもっとも高い建物である。

 一番上まで登るためには螺旋状の階段を延々と登り続けねばならない。

 その階段を一周回るごとに窓が備え付けてあり、登っていくうちに見える景色が変わる。まずは木京の街を囲む城壁が見え、その上に並べた威国ウィーグォの黒い旗が見え、それからただひたすら青い空だけに。

 やがて上方から流れ込んでくる涼やかな風を感じられるようになり、一番高いところに、ウカリの黒い着物と鴎花が身につけた赤色の裳が並んでいるのを目にすることになった。

 高楼の下から吹き上げてくる風が、華奢な鴎花の身体が揺らしている。咄嗟に最後の数段を二段とばしで駆け上がったイスカは、言葉を発するより前に彼女の身体を背後から抱き締めた。


「陛下?!」

「何をやっているんだ。まだ安静にしておくべきだろう!!」


 突如現れた夫に鴎花は目を丸くしていたが、イスカだって驚いた。

 鴎花の身体を抱き締めた瞬間、これまでに抱えていた不安な気持ちがすうっと晴れ渡り、手放し難い愛しさだけが込み上げてきたのだ。

 なのにその想いが高じて、再会早々に叱り飛ばしてしまうとは、なんとも心の狭いことである。

 鴎花の傍らにいたウカリは、そんなイスカの心境を察してくれたようで、苦笑を浮かべていた。猛き中原の王も妻の前では形無しだと、可笑しく感じたのかもしれない。

 彼女はそっと会釈をし、先に階段を降りていった。

 そんなウカリの足音が去っていくのを聞きながら、鴎花は心配いりません、と自分の体調を説明した。


「破水して僅か一刻(2時間)ばかりで生まれてきましたもので、私はとても元気なのです」

「そうなのか?」

「初産は時間がかかるものだと聞いておりましたのに、拍子抜けいたしました」

「……なんとも親孝行な倅だな」


 柔らかい笑顔を浮かべる鴎花につられて、イスカは口元を緩める。

 確かに彼女は血色も良く、元通りに腹も小さくなっていて何も問題ないように見える。


「それに産んだあとには、胃のつかえがなくなったせいなのでしょうか、とてもお腹が空きまして。それでたくさん食べて一晩寝ましたらすっかり元気になってしまったのです。ですから小寿にあの子を任せて、ここまで登って参りまして」


 鴎花が悪戯っ子のような笑い方をしたその先には、広大な景色が広がっている。

 初めて契りを交わした翌朝に、二人で見たのと同じ光景だ。

 木京の城壁の南端を掠めるように流れている長河の、流れの真ん中に浮かぶ島から巨大な水柱が噴き出していること以外は何も変わらない。

 そして鴎花がこの唯一変わったところを眺めるためにここまで登ってきたということも、イスカにははっきり分かった。

 なんてことだろう。

 高い塀に囲われた後宮で暮らしていれば水柱を実感することは無いだろうと思っていたのに、鴎花が自分から見に来てしまうなんて。

 顔をしかめたイスカは鴎花の身体ごと向きを変えさせて、南を見ないように仕向けた。


「見なくていい。あの水柱に捧げて意味があるのは、天帝の娘だけ。お前にはどうにもならぬことだ」

「さようでございましょうか」


 鴎花は淡く微笑んでいる。

 その相槌は、まるでイスカの言葉を否定しているようにも受け取れ、まさか鴎花はもう自分が皇女であることを知っているのではないかと、背筋が凍る想いがした。

 もしもそうだとしたら、鴎花を止めることはもう誰にもできなくなるではないか。

 イスカは激しく動揺しながらも、彼女の肩に手を置いた。

 そして一言ずつ噛み締めるようにして言い聞かせる。


「あのな、お前は鴎花だ。鴎花として生きてきた。だからこそ俺は今、お前を鴎花と呼んでいるんだぞ。無理に雪加シュエジャとして振る舞う必要はない」


 彼女が本物の翡翠姫では無いと分かり、それでも今後も王妃を務めさせると決めた後、イスカは雪加と呼ぶことを止めていた。

 もちろん人前では雪加と呼ぶが、彼女も偽りの名で呼ばれるよりも、慣れ親しんだ本当の名で呼ばれる方が気持ちが良いだろうと思ったからだ。

 実際、彼女もイスカに鴎花と呼ばれることを喜んでいたはずで。

 なのにこの期に及んで鴎花は「私は雪加なんです」と、付き物の落ちたような、澄んだ色の目をして言い出すのだ。


「どうぞご安心ください。私はこの身を以て天と地を結ぶことができます。陛下の王妃としての役目を果たせるのです」


 気負ったわけでもなく、ただ事実に裏打ちされた力強い言葉。

 間違いない。

 鴎花は自らが天帝の娘であることを知っている。だからこんなにも屈託のない笑みを浮かべられるのだ。


「大丈夫です。子供も無事に生まれましたし、もはや思い残すことはありませぬ」

「……ならぬ」


 もはや唸るような声しか出てこない。

 運命を受け入れ凛と振舞う彼女を、なんと言えば止められるのか……イスカの頭はそれしか考えることができなかった。

 しかし仮に鴎花を踏みとどまらせたところで、代わりの策はないのだ。

 鴎花が痘痕の浮いた手をそっとイスカに向かって伸ばしてきた。そしていつもと変わらぬ優しい微笑みを浮かべて、イスカの頬を包み込んでくれる。


「どうぞ受け入れてくださいませ。陛下も元はと言えば、この瞬間のために翡翠姫を望まれたはずですよ」


 その通りだ。

 だが、今は違うのだ。

 鴎花だってそれは同じだろう。

 言葉も風習も違う異民族の妻となり、共に暮らすうちに芽生えたものがいくつもあるのではないか? 息子も生まれ、これからは今まで以上に充実した日々を送れるはずだったではないか?

 なのにこんなにも呆気なく、理不尽な最期を迎えていいはずがない。

 一陣の風が二人を包むように吹き抜けた。

 天にあって地を統べる龍の神が、早くその娘を捧げよと促しているかのように感じたが、イスカはそんな神の意志に逆らうように彼女を抱き締め直した。


「……俺がなんとかする。お前は何も心配するな」

「陛下……」

「俺はこの国の王だ。出来ないことなど無いんだ。いいな? 早まった真似だけはするなよ」


 イスカが念を押しても、鴎花は否とも応とも言わなかった。

 イスカの意志がどうであれ、自分があの水柱へ飛び込むしか手が無いと悟っているからだろう。

 

(それでもこんなこと……そうやすやすと受け入れられるものか……!!)


 結局イスカは何一つ心を決められないまま、鴎花を連れて高楼を降りることになったのだった。



***

 イスカが鴎花を伴って高楼から降りてくると、その出口では先に降りていたウカリと共に、文官のテェン計里ジーリィが待ち構えていた。

 イスカが有能な華人であると目をかけ、取り立ててやった彼は、今や木京の街を預かる行政官の長として活躍していたが、この時は身につけた立派な官服が汚れることも厭わず、ただひたすらに平伏していた。

 そして地に額をこすりつけ「どうか人払いを。火急の話がございます」と訴えてくるから、やむを得ずイスカは鴎花をウカリに任せて香龍宮へ帰らせることにした。

 そして、計里が絶対に誰にも話を聞かれないところがいいと言い張るので、二人でもう一度高楼の中腹まで登り直し、階段の上に腰を下ろす。


「何があった? 街の者達が翡翠姫を早く捧げろとでも騒いでいるのか?」


 今は計里と話をしている場合ではないのだ。

 イスカが苛立った口調で問うと、彼は「それでも、です」と頭を下げたまま言った。

 イスカの三段下で平伏した計里は、この傾斜のせいで、いつも以上に頭を低くしているように見えた。


「陛下、お願いでございます。どうか妃殿下を水柱へ捧げることだけはおやめください」


 なんと。ここに来て初めての、鴎花を捧げないで欲しいとの懇願ではないか。

 まさか華人の中からその訴えが上がるとは思っていなかったイスカは目を見張り、計里はその理由をひたすらに小さくなりつつ説明した。


「誠に申し訳ございません。私めは妃殿下が翡翠姫にあらぬことを察していながら、それを陛下にお伝えすることを怠っておりました」


 計里の話によると、彼はかなり早い段階で本物の翡翠姫らしい娘に後宮内で接触しており、ゆえに鴎花が翡翠姫ではないことを分かっていたそうだ。


「恐れながら、陛下がこの国の主となるべき血縁上の理由はございません。しかし陛下は王に相応しき力量を備えておられます。そのようなお方が国王であるのなら、妃殿下もまたそのお人柄やお心映えで選ばれても良いのではないかと……今となっては、卑小の身でなんとだいそれたことを願ったのかと身の縮む思いでございますが、そんな勝手なことを考えてしまったのです」


 しかもいつの間にやら翡翠姫らしい娘の方は後宮から姿を消してしまっていたし、鴎花は香龍宮に移ってから子を身籠るし、これで王妃様は安泰だと、計里は心密かに喜んでいたらしい。

 まさか伝承の通り、水柱が噴き出してくるとは思ってもいなかったのだ。


「私めの判断の甘さからこの国を滅亡の危機に追い込んでしまうとは、弁解の余地もございません。そして今更、翡翠姫にあらずとは言い出せぬ妃殿下は、皆の声に推されて贄になるご所存かもしれませんが、そんなことをしてもあの水柱は止まりません。それなのに……このままでは中原の大地だけでなく、むざむざと妃殿下を失うことに……」


 己のしでかした事の大きさに打ち震える計里は、ただひたすらに詫び続けたが、イスカは彼に顔を上げさせると、その手を握った。


「お前の罪は問わぬ。なぜなら俺もあれが翡翠姫にあらぬことを知っていたからだ」

「なんと……?!」

「知っていて鴎花を王妃にした。あぁそうだ。俺もお前と同じ考えだ、計里」


 イスカは今この瞬間にこの男がいてくれたことを、心底喜んだ。

 国の指導者とは孤独なものであり、その判断の責任を誰かと分かち合うことなどありえないと思っていたが、自分と同じことを考える人間が側にいてくれることに、イスカはこの上ない安堵を覚えたのだった。


「鴎花は王妃としての資質を有している。だから俺は王妃とした。そうだ。あれは水柱に捧げるべきじゃない」


 計里という味方が生じたことで、イスカは自分の考えに自信を持つことができた。

 イスカは鴎花を王妃にすると決めた時、それに伴って生じる不都合くらい背負い込んでやる覚悟だったではないか。

 彼女は自らの出生を何処かで知り、水柱に飛び込むことで全てを解決しようとしているのだろうが、そんなことはイスカが許さない。夫として妻を守るのは当然の務めだ。


「計里、白頭翁バイトウウォンを至急呼んでくれ。あの知恵者であれば、この事態を解決する策を練ってくれる気がする」


 一筋の光明が見えてきた気がした。

 イスカはこれまでとは打って変わった力強い声で、計里に命じたのである。



***

 しかし白頭翁はこの時、動きたくても動けない状態であった。

 イスカの側に仕えるようになっても、高齢故に自分の家を構えることを面倒がった彼は、今でも計里の屋敷に居候しているのだが、数日前にぎっくり腰を患い、寝込んでいるそうだ。

 しかし今は白頭翁しか頼れる者がいない。

 そこでイスカは計里を連れて、密かに木京の街へ向かうことにした。

 小役人に過ぎなかった計里も、今はその身代に相応しい大きな屋敷を、それも瑞鳳宮のすぐ近くに構えていた。その裏門からこっそり入ったイスカは、彼の後妻で、同郷の出身であるアトリにすら挨拶をせず、まっすぐ白頭翁の元へ向かった。

 果たして、白髪の老人は南向きの日当たりの良い部屋の寝台に一人横たわっていた。さすがに身の回りの世話をする下女の尻を触ることもなくおとなしくしている。


「おぉ、陛下。横になったままで御意を得ること、どうぞお許しくださいませ」

「それは構わない」


 イスカは計里と共に白頭翁の枕許に腰を下ろした。

 こんな体調の時に押しかけたのは申し訳ないが、快復するまで待っている余裕はもちろん無い。

 イスカは挨拶もそこそこに本題に入った。


「何とかしろ、白頭翁。今のままでは俺は王妃を水柱へ捧げることになってしまう」


 イスカの噛みつくような訴えに対し、白頭翁は顔色を変えなかった。ただ歯の無い口で、年少のイスカを諭すかの如く、静かな口ぶりで答えたのだ。


「……陛下。それが一番の解決策でございます」

「何だと?」


 イスカは耳を疑った。

 白頭翁はこれまでも鴎花の相談に乗ったり、様々な世話を焼いてきたものだ。

 それは鵠国の旧臣としての忠誠心によるものだけでなく、鴎花個人の人柄に惹かれているからだとイスカは感じていた。

 そんな彼だからこそ、彼女の危機には力になってくれると信じていたのに。まさかこんなにあっさりと鴎花を水柱へ捧げよと勧めてくるとは……!!


「陛下がいかに振舞われるかを、民は見ております。ここを乗り切らねば、威国ウィーグォはたちゆきませぬ。妃殿下もそのことはよくご存じであられましょうや。ゆえに嫌だとは申されぬはずですぞ」

「……あのな、白頭翁」


 呼びかけつつも、ちらと傍らの計里に目を向けると、彼も小さく頷く。

 これも鴎花を救う為には必要なこと……イスカは神妙な顔をして偽りの秘密を語った。


「お前にだけは明かす。あれは皇族の血を引いていないんだ。ゆえに生贄になることはできない。本人が望んだところで、それでは無駄死にしかならぬのだ」

「恐れながら、それはまことの話ではございませぬな?」


 疑問の形を取りながらも、白頭翁の言葉には妙な迫力があった。

 垂れ下がった瞼の下で光るのは、小揺るぎもしない小さな黒い瞳。

 全てを見透かす老人の眼光に気圧され、イスカは黒衣の下でつぅと脂汗が流れるのを感じた。


(白頭翁は真実を知っている……?!)


 しかし崔皇后の話だと、乳母と皇后しか知らない事実であるはずだ。

 一体どういうことなのか……イスカは全力で冷静さを装って問い返した。


「……何が言いたい?」


 イスカにめつけられた白頭翁は、目尻の皺を一段と深く刻みこむと、溜めていた息を静かに吐き出しながら言った。


「この爺ぃめが後宮を追われたのは、姫様が疱瘡を患った直後のことになります。儂のような宦官だけではございません。伽藍ティエラ宮では下働きの女に至るまでごっそり入れ替え、その上、皇后陛下は郭宗陛下の乳母を殺めております」

「……」

「これが意味するのはただ一つ。何か隠したいことがあったからに他なりません」


 この敏い老人は、誰に説明をされたわけでもなく、ただ状況証拠だけで真実に辿り着いたらしい。

 さらに彼はそう考えるに至ったもう一つの理由を説明した。


「後宮を離れた後も、知人のつてで、姫様の乳姉妹が痘痕面であるとの話は聞いておりました。側に置く女官らの美しさを重視する皇后陛下が、痘痕の女児を手元に残しているとは、不自然なことです」


 傍らに控えていた計里が息を呑むのが、その息遣いで分かった。

 現状、唯一の理解者である計里までもが動揺させられたことに、イスカはついカッとなった。


「ならばお前は最初から、痘痕を持った鴎花の方が真の皇女だと気付いていたのだな? お前が鴎花にそれを明かしたのか?!」


 語気が自然と荒くなるのを自覚した。

 鴎花は自分が皇女と知って尚、その責務から逃げようとする女ではない。

 そのことはイスカが誰より良く知っている。

 だったら鴎花に真実を伝えた者こそ、彼女を今、水柱へと追い詰めている張本人ではないか。

 しかし白頭翁は、これはあくまで推論でございますゆえ、今まで誰にも口外して参りませんでした、と述べた。

 白頭翁とて、決して積極的に鴎花を失いたい訳では無いのだ。彼は深い悲しみを湛えて、褐色の肌を持つ若き王を見つめてきた。


「初めて妃殿下にお目にかかった際、痘痕がちらと見え、あぁこのお方こそ真の五姫様であろうと分かりました。しかしそのお手を握ると、とても姫君として暮らしてこられたお方のものではないのです。あの荒れ方は、下女として冷たい水を毎日扱っているもの。恐らく妃殿下はご自分の出自をご存知無いまま、何か事情があって……恐らくあの時は側にいた侍女と入れ替わり、陛下の前でだけ翡翠姫として振舞っておられるのだと、予想いたしました」


 この老人は、好色ゆえに女の手を握っていたのではなかったのだ。

 むしろその好色を利用して、女の身分や真の暮らしぶりを推し量る手段にしていた。

 後宮で働く宦官は、宮女達の管理もその務めの内である。白頭翁は真に有能な宦官であったのだろう。


「……お前は察しが良すぎるぞ、白頭翁」


 呟きの中に苦々しさを隠しきれなかった。

 この男が鴎花の正体に気付かないでいてくれれば、今頃彼女を助けるための策を共に練ることができたであろうに……。

 しかし全てを見抜いていた彼は、鴎花を水柱に捧げないという選択肢を最初から持ち合わせていなかったのである。


「陛下……妃殿下は贄になることを望まれているのでありましょうや? そのお志は、どうか尊重して差し上げてくださいませ」


 白頭翁は目に熱いものを滲ませて、訴えてきた。


「妃殿下が痘痕面を嗤われながら成長なさったことは、容易に想像がつきます。命を取られる方がまし、と思うほどのむごたらしい仕打ちも受けてこられたはず。ですが陛下の隣りに寄り添っておられる時の妃殿下は、ほんに幸せそうなご様子でした」


 山羊を育て、鴉威の風習や食事を取り入れようと励む彼女は、イスカのことだけを考えていた。誰に押し付けられたわけでもなく、それこそが彼女の意志だった。

 そしてイスカもまた痘痕に覆われた彼女を蔑むことなく、一人の女性として愛していることを知り、白頭翁はどれだけ嬉しかったか分からないとさめざめと泣いた。


「妃殿下にとって、陛下は光なのです。その陛下のため、自ら贄になると心を決められたのでしょう」

「……」

「決断は今すぐにでも。猶予はありませぬ。もう八日目も終わろうとしております」


 寝たきりの白頭翁に促されて窓の外を見れば、瓦屋根に赤い夕陽が鈍く反射して見えた。街はもうじき夕闇に包まれる。中原に生きる人々の心もまた、恐怖と不安で夜の闇より暗く、沈んでいることだろう。

 イスカは無言のまま、白頭翁の居室を出た。

 計里は白頭翁の元へ置いてきた。ひどく混乱している彼は、もはやこの件では役に立つまい。

 鴎花が真に翡翠姫であるのなら、計里もまた彼女を捧げることを躊躇うものでは無いのだ。

 この屋敷へやってきた時とは打って変わり、今のイスカは絶望の二文字しか感じられなかった。

 この国を治める者としての責任は、強く自覚している。

 鴎花を失いたくないのは、あくまでイスカの私情であり、為政者としてこの感情を優先すべきではないだろう。

 しかし己にも周囲にも厳しくあろうと律しているイスカにとって、彼女にはどれだけ心の柔らかい部分を委ねていたことか。

 この温もりを手放すことに、耐えられる自信が無い。

 この地を統べる天帝は、蛮族の王が中原を治めることを許さず、イスカを苦しめる目的でこんな事態を引き起こしたのかもしれない。

 ならばいっそ、イスカの命を奪えば良いものを。どうして自らの血を引く娘を贄に求めるのか……。

 俯き加減で歩くイスカは来た道を戻って屋敷の裏口へ出ようとしたが、その時、馬のいななきが響いてきて、顔を上げた。

 そこには馬を連れて歩くアトリがいた。

 普通、高級官吏の妻が自ら馬をひいて歩くことなんてしないはずだが、羊の毛を織って作った伝統の黒い衣を身に着け、銀の耳環をいくつもぶら下げたその装いは、華人の妻であることに反発しているようにも見える。

 彼女は今からこの馬に乗って出かけようとしていたようだが、屋敷の隙間からイスカが出てきたことに気付くと目を見張り、馬を引いて近づいてきた。


「まぁ、イスカ。なんでこんなところにいるの?!」

「いろいろあってな。アトリは息災か?」


 彼女と顔を合わせるのは、半年前、計里との婚姻の宴を開いた時以来だった。

 故にイスカは何の気もなく言葉をかけたのだが、アトリは瞬時にむっとしてしまった。


「それは愚問ね。私がどうしているかなんて、あなたにはどうでもいいことでしょう。あなたは鴉威と華人が婚姻を結んだという事実が欲しかっただけなのだから」


 言葉に棘があるのは、アトリがこの再婚に対し不服を抱いているからにほかならない。

 まぁ、無理もないか。

 言葉もろくに通じない、風習も違う初対面の男女がそう簡単に睦み合うことなどできるはずがない。イスカと鴎花が理解し合えたことの方が奇跡なのだ。

 イスカは苦笑を漏らした。

 今はそれどころではないが、アトリは鴉威の有力部族の出身。あまり無下にもできない。


「そうか……俺はアトリが幸せになれるように、相手を選んだつもりだったんだがな」

「私は馬にも乗れないような男に興味は無いの」


 アトリが、いや鴉威の女が男を選ぶ基準は単純明快だ。どれだけ巧みに馬を乗りこなすか、力が強いか、そして家畜をどれだけ飼っているか。

 その基準からすれば、文官の計里はろくでもない男の代表格なのであろう。


「全く……こんなことになるなら、北でおとなしく暮らしておけば良かったわ」


 不平を鳴らすアトリに、イスカは大きく頷いた。


「同感だ。俺も今すぐにでも、全てを投げ出して北へ帰りたい」


 それができれば、どれだけいいだろう。

 イスカがつい愚痴を漏らしてしまったのは、同郷の人間と、故郷の言葉で話をできた心安さ故である。

 しかしアトリはその甘えを許さなかった。


「そういう話をするのは、あの痘痕の王妃様だけになさいよ。私はあなたの妻ではなく臣下なんだから、あなたは私の前で強いところだけを見せるべきだわ」


 鴉威の族長は強さを基準に選ばれる。

 そしてその強さこそが統率力に繋がるのだから、上に立つ者は下々の者の前で常に雄々しく振る舞う。

 先代族長の妻として、年若い国王をたしなめたアトリだったが、その直後、自分の言葉が想像以上にイスカを凹ませてしまったことに気付いたようで、小さく肩をすくめた。

 そして懐から紙切れを取り出して、イスカに差し出したのだ。


「あなたがここに来ているなんて知らなかったから、たった今預かってしまったのよ」


 渡された小さな紙は細く折って、結ばれていた。

 誰からかと問えば、それは言えないわ、と断られてしまう。


「あなたに直接渡すのは難しいから、代わりにって頼まれてね。瑞鳳宮の壁をよじ登るより、木京の街中にあるこの屋敷へ忍び込む方がよほど楽だと思ったみたいよ。それに私なら後宮へ出入りするのも自由だし、確実にあなたに会えるし」


 訝しがりながらもイスカは紙を開いた。

 そして殴り書きにされた十三個の文字の羅列を目にしたのだった。


「……なぁに? あなたはその華語、読めるの?」


 手元を覗き込んできたものの、アトリは文字を全く読めないから首を傾げるばかりだ。

 イスカはしばらく紙切れを凝視していたが、不意に視野がぼやけてきたことを自覚した。張り詰めていた気持ちが一気に緩んだせいだ。


「……」


 言葉がうまく出てこない。馴染み深い故郷の言葉を用いてさえも、この気持ちを表すのは無理そうだ。

 全身の力が抜けてしまったイスカは、その場にしゃがみ込んで額を抱え、感情の昂りが収まるのをやり過ごすしかなかったのだった。


三.

 天祈ティェンチーは天帝とこの地を治める為の盟約を結ぶ際の、皇女と皇后だけに伝承されている格式の高い伝統の舞い。

 ツェイ皇后はこの舞いを雪加シュエジャだけでなく、その乳姉妹に過ぎない鴎花オウファにまで教えていた。


「どうせそこにいるのじゃ。そなたもついでに覚えておけば良かろう」


 普段は醜い容貌の鴎花と口をきくことすら忌み嫌っていた彼女が、素っ気なくはあるがわざわざ声をかけてくれたのは、今日の日の為だったらしい。

 この先、もしも水柱が上がることがあれば、いくら痘痕面であろうと本物の皇女である鴎花を捧げなければならないと彼女は考えていたのだろう。

 皇后から舞いを教わっている最中、秋沙チィシャが少し不安げな目でこちらを見ていたのは、醜いものを極端に嫌う皇后から鴎花が不当な扱いを受けないか、そして自分の娘が誤って捧げられるような事態にならないかを案じていたからかもしれない。

 秋沙は今、どこで何をしているのだろう。

 イスカは以前、鴎花の頼みを聞き入れ、人をやって秋沙の故郷を探してくれたが、眼病を患って故郷に戻った彼女は、年始の変の後、木京へ行くと言って出て行き、それ以降の足跡が掴めないそうだ。

 生みの母ではないにしても、鴎花を愛情深く育ててくれたのは秋沙であるし、できることなら彼女には実の娘である雪加とも再会させてあげたかった。しかしその雪加はもう鴉威の地へ行ってしまったので、今はもうそんなことを望むべくもない。

 痘痕で覆われた自分の姿を人前に晒すわけだから、鴎花は当然舞いを苦手としていたが、今こうやって噴き出す水柱の真下で舞うことには、何の抵抗も覚えなかった。

 むしろ白々と夜が明けていくのを感じながら天への祈りを捧げることには、ある種の高揚感さえ覚える。

 しかし目を上げれば、そこには轟音を上げて大地の割れ目から噴き出す水の柱があった。地面の割れ目から水が噴き出しているのだ。いずれは大地を覆い尽くさんと、とめどなく溢れてくる水の勢いは恐ろしかったが、それでも鴎花にはすぐ傍で支えてくれるイスカがいる。

 昨夜、暗くなってから香龍シャンロン宮へ戻ってきた彼は、日中に高楼で再会した時よりよほど落ち着いた、しかし強張った表情で「中原を救うため、お前を水柱に捧げたい」と告げた。どうやら時間を置いたことで、王としての覚悟を固めてきたようだった。

 すでに心を決めていた鴎花は、これを二つ返事で了承。生まれたばかりの息子は小寿とウカリに預けた。

 たくさんの子を育てている小寿なら、この子のこともきっと立派に育ててくれることだろう。

 そして鴉威の民であるウカリが側にいれば、イスカの跡を継ぐにふさわしい鴉威ヤーウィの男として導いてくれると思う。

 この子は鴉威と華人、両方の血を引いた、二つの民族の未来を象徴する存在なのだ。どうか安らかに育ってほしい。

 小寿もウカリも、そして幼い杜宇ドゥユゥまでもが涙を流して鴎花との別れを悲しんだが、生まれたばかりの息子だけは、その青灰色の目を大きく見開いて旅立つ母を見送った。

 もちろん、鴎花だって名前もつけていない我が子と別れるのは辛い。それでも鴎花が水柱に飛び込み、天と地を結ばない限り、中原は水没してしまうのだ。母としての我儘を通している場合ではない。これはこの幼い息子の未来を守ることにもなるのだ。

 捧げると決めた以上、なるべく早い方が良いと言ったイスカは、真夜中に出立することに決め、自らの操る馬に鴎花を乗せた。

 これには明るい時間だと、人々が集まって来て収拾がつかなくなるという意味もあったらしいが、翡翠姫を早く捧げて欲しいと願う人々は夜中であるにも関わらず瑞鳳ルイフォ宮の周りに集まって来ていたのだ。

 彼らは今にも瑞鳳宮へ雪崩れ込む勢いだったが、イスカが鴎花を連れて表へ出てくると、大きな歓声を上げた。

 鴎花はこの時面布をつけていたが、翡翠色の絹の長衣を身に纏っていたので、遠目からでも翡翠姫だと知れたのだ。


「国王陛下、万歳!!」


 これは鴎花が初めて目にする異様な光景だった。

 平伏する人々の声が波のように重なって高まり、騎乗する鴎花を包み込むのだ。

 暗闇の中で人々の塊が盛り上がって、迫ってくるような感覚……鴎花は思わず恐怖を覚えてその身を縮ませたが、イスカは彼らの声を堂々と受け止め、励ますように鴎花の手を握ると、葦切ウェイチェへ続く道をゆっくり進んだ。

 供をするのは鴉威の騎兵らと華人の兵士ら、合わせて三百人近く。

 人数を揃えたのは、怯え切った人々が焦るあまり暴徒と化してイスカの手から鴎花を奪おうとすることも考慮してのことだったが、それは杞憂に終わった。

 鴎花を愛しげに抱きしめ、それでも毅然と葦切へ向かう王の姿を前にして、人々は国王陛下万歳、以外の言葉を発することができなかったのである。

 こうしてイスカの操る馬に乗ってゆっくり進むこと一刻ばかり。長河チャンファの川岸に出た鴎花は、まず最初に地面が揺れているのを感じた。

 水柱は大地を震わせながら噴き出しているのだ。その側へ近づくほどに水がほとばしる際の、おぞましい音も響いてくる。

 これらの音や震動に加え、明るい時間であれば川岸からでもはっきりと水柱の姿を目にすることができるそうだ。

 見えなくて良かったと鴎花は思った。

 そんな恐ろしいものを目にしてしまったら、到着前に気絶していたかもしれない。

 川の中に浮かぶ葦切は長河の北岸と浮橋で繋がっており、ここからは馬を降りて徒歩で渡った。島の中は岩場が険しくて馬を使えないのだ。

 自分の足で歩くようになると余計に大地の震動を感じ、そして島に入ると道は一気に悪くなった。

 地の裂け目から噴き出した出た水は島を縦横無尽に流れてその表面を覆いつくし、洪水を起こしているかのごとくだったのだ。

 この水の流れはすさまじく、この地へ参拝に来る者達を目当てに作られた売店、それに長河を横断しようとする者達を監視するためにイスカが作ったという兵舎も、その全てが流されてしまったそうだ。

 ただ唯一、裂け目のすぐそばにあった古い祠だけが無事だった。

 ここだけは周囲より一段高い大きな岩の上に作られており、噴き出した水はこの岩を避けるように流れ落ちていたからだ。

 注連縄を飾っただけの小さな祠だが、この前から天帝の娘が身を捧げると決まっていて、初代鵠国皇帝の娘も確かここから飛び降りたと聞いている。

 しかし鴎花がこの祠まで辿り着くのは、難儀な話だった。

 ただでさえ進み辛い切り立った岩の上に、今は大量の水が流れているのだ。

 いくら松明を掲げてもらっても足元は見えず、これはどうにもならないと知ると、イスカは自ら鴎花を背負った。

 そして祠の前までたどり着くと、この岩の上に鴎花を下ろしたのだ。


「ここから飛び込むのだな?」


 ここに至るまでに気力と体力を使い果たしていたイスカは、青い顔をして鴎花に訊ねた。

 この時、水柱は二人のすぐ目の前から噴き出していたのだ。

 地の裂け目から天へ向けて噴き出してくる水はその勢いも強く、この祠の上へ直接に降り注ぐことはしなかったが、噴き上がる際に弾け飛ぶ水滴は、その時々の風向きで方向を変え、イスカと鴎花の顔を存分に濡らしていた。

 大地を震わせる轟音に負けないよう、鴎花は叫ぶように答えた。


「その前に舞いを捧げます。天帝に私がここにいると気付いていただくためです」


 こうして鴎花はこれまで付けていた面布を外し、伝承に従って天祈を舞い始めたのだ。

 舞い終わるまでの間、イスカは鴎花の舞いの邪魔にならないよう、岩のすぐ下で待つと言った。

 この時はまだ夜明け前で暗かったので、彼は松明を掲げて鴎花の足元を照らしてくれたのだ。

 しかし鴎花のいる場所と違い、彼の立っているところには激しい勢いで水が流れこんでいる。腰のあたりに激流を受け続ける格好になったイスカは、その勢いに押されてたびたび転びそうになっていた。

 もちろん供の者達も手伝うと言ったのだが、イスカはこれを許さず、彼らを少し離れた、水の流れの少ない岩の上へ退避させた。


「最期くらい、二人きりにしてくれぬか」


 懇願するようなイスカの指示を受け、供をしてきた者達はおしなべて黙り込んだ。護衛として共に来ていたシィ蓮角レンジャオなどは、早くも顔をくしゃくしゃにして泣いてしまっている。


「陛下……御無理だけはなさらぬよう」


 岩の上に立っている鴎花は心配でならなかったが、イスカはむしろこの苦しみを鴎花と分かち合いたい様子だった。

 一番近いところで鴎花を見送りたい。

 それが彼の願いなのだろう。

 鴎花はその意図を解すると、静かに天祈を舞い始めた。

 舞い自体はそう難しいものではないし、激しい動きもない。ゆっくりと、優雅に、手指の先まで意識を集中して舞うように、と崔皇后から叱咤されたことを思い出しながら舞を捧げる。

 その間も、目の前では水柱が噴き上がり続け、震動と轟音は止まることがない。

 ここに今から飛び込むのだと思えば、足がすくんだ。

 それでも黙って松明を掲げてくれるイスカの為、鴎花は懸命に天への祈りを捧げる。


(……そう、全ては陛下の為)


 舞い始めると、鴎花の心の内にはこれまでイスカと過ごした時間のことがありありと蘇ってくる。

 年始の変の混乱の中での出会い、初めて契りを交わした夜のこと。二人で見た高楼からの広大な景色に、山羊と戯れ、鴎花が淹れた茶をイスカが飲んでくれた楽しい日々のこと……。

 そのどれもがかけがえのない思い出だ。

 これまで伽藍宮の片隅でこの醜い容姿を恥じ、消え入ることだけを考えて暮らしていた鴎花を、彼は必要として求めてくれた。

 鴎花が今、痘痕の浮いた蟇蛙ヒキガエルの如き素顔を晒して舞っていても、堂々としていられるのは、まさに彼のおかげだ。イスカという、どんな自分でも受け入れてくれる絶対的な存在を得て、鴎花はどれほど強くなれたか。

 イスカと共に暮らせたのは一年とほんの少し。

 鴎花が天帝の娘であったがために、短い期間しか一緒にいられなかったが、それでもいい。

 その血筋のおかげでこの身は中原を救い、彼の役に立つことができるのだ。むしろ感謝している。


「あ……」


 流れるような動きで、鴎花が差しだした右手の指の先から不意に強い光が溢れ出した。

 圧倒的な輝きを纏って陽が昇ってきたのだ。

 長河の上流である東の方角から顔を覗かせた太陽は、まっすぐ伸ばした鴎花の指先に導き出されたかのように見える。

 長時間舞い続けたことで息を切らしていた鴎花は、その動きを一旦止めた。

 舞うことで身体が熱くなったせいだろうか。全身に浴びる水の粒すら妙に生温かく感じるし、生まれたばかりの陽の光を浴びた水滴は、キラキラと輝いて見えた。

 それはとても神々しい光景で、鴎花は自分が朝の陽と一つになったような感覚に陥ったのだ。


「……陛下……これで舞いは終わりです」


 鴎花は息を弾ませながら、一段低いところに立っているイスカに声をかけた。

 この時ちょうど、大きな音を立てて噴き出していた水柱が、今までとは異質な、唸るような低い音を上げたのだ。

 これこそが水柱に飛び込む合図であると、鴎花は予め聞いていた。

 天におわす龍の神が自分の娘の存在に気付いて地上へ目を向けた時に、この音がするのだそうだ。

 イスカは鴎花の告げた言葉の意味を理解し、すでに不要となっていた松明を投げ捨てた。

 彫りの深い顔を、大きく歪めている。

 さすがにそのまま泣き出しはしなかったが、その表情からはそれに近いものを感じた。

 鴎花は優しく微笑むと、岩の上で正座した。

 そして目と鼻の先にいるイスカに対し深々と頭を下げる。

 自分が立ったままでは、低いところにいるイスカより頭が高くなってしまい、それを申し訳なく感じたのだ。


「陛下のご厚情、決して忘れるものではありませぬ。これまでありがとうございました。どうかこれからもこの地に生きる民を、力強く導いてくださいませ」


 今こそ別れの時。

 万感をこめて挨拶をする鴎花の背後で、不気味な音がまた響いた。

 水柱が唸っている。

 全て伝承の通りだ。天帝がこちらへ目を向けていることは、やはり間違いない。

 この時、イスカの口元が何か呟いたように動いた。

 しかしその声は水柱の轟音でかき消され、鴎花の耳には届かなかった。

 聞き返すように鴎花が小さく首を傾げると、イスカはこの直後、誰もが予期せぬ行動に出たのだ。


「……ならぬ」


 奥歯をギリギリと噛み締めたかと思えば、彼は突然、鴎花がいる岩に足をかけ、この上に飛び乗った。

 一体何をするつもりかと鴎花は驚いたし、少し離れたところで見守っていた蓮角ら供の者達も、王の行動の意味が分からず、大きくどよめいた。

 しかし騒がしくなった背後には目もくれず、イスカは鴎花の身体を横抱きに持ち上げたのだ。


「きゃっ?!」

「やはりお前一人を行かせるのは、心許ない」

「へ、陛下……?!」


 混乱する鴎花に口を寄せたイスカは、振り返るや否や、岩の上に集まっていた供の者達に大きな声で呼びかけた。


「聞け! 俺は今より天帝にその意思を問うて来る。天帝は真にこの地に自分の娘を贄として捧げられることを望んでいるのか。そして辺境の蛮族と呼ばれてきた俺に、中原の王たる資格があるのか!!」

「ええ?!」

「天帝が血筋のみを重んじ、俺のような男など塵芥に過ぎぬと言うのならば、それまで。だが俺は天におわす龍神がそのような狭量とは信じぬ。俺は王妃と共に必ず戻って来よう。皆、しっかりとその目に焼き付けておけ!!」


 イスカがやろうとしていることを察し、鴎花は全身から血の気が引くのを感じた。

 彼はなんと、鴎花を抱きかかえたまま共に水柱へ飛び込もうとしているのだ。


「陛下、いけません。贄になるのは、私一人で十分です!」

「うるさい。これは俺の問題だ。お前一人をこんなところへ突き落として、どうして偉そうに中原の王を名乗れる?」


 鴎花は暴れてイスカの手から逃れようとしたが、これを抑え込んでくる力は信じられないほど強かった。


「俺は終生、お前と共にあると決めたんだ。お前も肚を括れ」


 抱き締めた鴎花の耳元に囁いたイスカは、大きく口角を歪めた。

 水柱から降ってくる水滴でずぶ濡れになった褐色の頬は、流石に緊張で強張っていたが、鴎花を覗き込む蒼い瞳は、かけすの羽を彩る鮮やかな差し色と同じに輝いていた。初めて会った日と同じく、その瞳はぞっとするほど美しい。

 鴎花は声にならない悲鳴を上げたが、これにはイスカの率いてきた供の者達も黙ってはいなかった。


「陛下っ!! おやめくださいっ!!」


 悲鳴を上げながら一同の先頭を切ってこちらへ走ってくるのは蓮角だ。しかし彼は岩の表面を覆っている激しい水の流れに足を取られ、転んでしまった。

 その姿を一瞥したイスカは、手を離すなよ、と鴎花に囁くと同時に、力強く地を蹴った。


「陛下あぁっ!!!」


 鴉威の者達も、華人達も、イスカの供をしてきた者達はそれぞれの言葉で絶叫した。

 そんな声を纏いながら、威国の王と王妃は、勢いよく水柱を噴き上げていた地の割れ目へその身を投じたのだ。


「そんな……」


 二人の姿が消えてしまった祠の前では、水柱が噴き上がる以外の全ての音が消え去り、柔らかくも力強い朝の光が、人も水も大地も等しく包み込んでいた。

 その光と水滴によって、空には淡く七色の虹が生じている。

 それはまるでイスカと王妃が虹をかけて天帝の元まで旅立ったかのようで、この世のものとは思えぬ美しい光景を前にし、供の者達は放心したままその場に崩れ落ちた。

 そして予想外の出来事に呆然としていたのは、葦切にいた供の者達だけではなかった。

 辺りが明るくなったために川岸に出て、水柱の様子を見守っていた大勢の人々もまた、言うべき言葉を失っていた。

 黒衣の王が翡翠色の衣を纏った王妃を抱き上げたまま水柱に飛び込んだ姿は、川の上流、東の方角から昇ってくる朝の陽に照らされ、長河の北岸からでもはっきりと見えていたのだ。


「……これで、良いのか?」


 誰かがぼそりと呟いた。

 その身を以て天と地を結ぶのは、天帝の娘であったはずだ。

 そこへ蛮族の男が加わっても良かったのか、この時はまだ誰にも判断できなかったのだ。

 しかしこの後、一刻もしないうちに水柱に変化が起きた。

 激しかったはずの勢いが急に無くなり、最後に二、三回、高く噴き出したかと思えば、突然……そう、あっけないほど突然、水が止まってしまったのだ。


「あ……」


 この場にいた全ての人々はこの瞬間、老若男女を問わず、等しく同じ呟きを漏らすことになった。


「助かった……」


 人々は糸が切れた人形のように、膝から崩れ、そして地に頭をこすりつけて平伏した。

 天帝が地上に住む人の子らを認めてくれた……中原は水で覆いつくされる危機を、免れたのだった。



***

 水柱が止まったことは、長河の南岸へ馬を飛ばして駆けつけた郭宗グォゾンもその目ですぐに確認した。


「中原は救われたのか……」


 郭宗もまた、呆然と呟いた大勢の内の一人だった。

 しかし彼の想いは、多くの者達が覚えた安堵にとどまらなかった。


「そうか。あやつは雪加を捧げたのか……」

 

 それしか手が無かったことは、郭宗だって分かっていた。

 しかしイスカの様子を見ていれば、彼がそれだけは阻止したいと願い、故に危険を冒してまで郭宗に会いに来たことは明らかだった。

 彼がそうまでして妹を大事に思ってくれたことについては、深く感謝している。

 郭宗は痘痕面の鴎花のことを醜い容姿の女孺としか認識していなかったし、それ以上の感想を抱いていなかったのだが、病を得たせいで実の母から疎まれ、臣下に身を堕とした薄幸な妹が、わずかな間でも彼に愛され幸せに暮らしてくれたのなら、それは喜ばしいことだと思う。

 これまで上がっていた轟音が止まり、葦切は嘘のように静かになってしまっていた。

 その様子を郭宗が対岸からじっと見つめていると、斥候が火急の知らせを運んできた。

 なんと水柱に飛び込んだのは威国ウィーグォの王妃だけでなく、国王も一緒だったというのだ。


「なんと……あの男が……」

「なんたる好機!」


 郭宗の傍らに控えていたエァ鵬挙ホンジュが、この知らせを聞き、膝を打って歓声を上げた。


「これぞ天帝が我らにもたらしてくださった僥倖でありましょうや。今なら勝てます。陛下、どうぞ長河を渡れとのご命令を。木京を取り戻しましょう!」

「ならぬ。今そんなことをしては、朕は人心を失う」


 郭宗は即座に鵬挙の意見を退けた。

 威国の人々は、その身を以て民を守ろうとした翡翠姫の姿を目の当たりにし、強い敬意を抱いたはずだ。

 郭宗がそんな彼女の想いを無下にして戦を仕掛ければ、いくら祖国を取り戻すための戦いとはいえ、鵠国軍は悪役にされてしまう。


「しかしあの僭王亡き今なら、我らは間違いなく勝てます。我らの都を取り戻すことに躊躇うことなどありましょうや」


 長河を渡り、父の仇を討つことを生涯の目標に据えている鵬挙は、憎いイスカが死んだことしか見えていないようだ。

 もちろん郭宗とて早く木京を取り戻したいという気持ちは、鵬挙と変わらない。

 中原は華人ファーレンのもの。いつまでも辺境の蛮族に好き勝手にされてはたまらない。

 しかし彼は皇帝だった。戦術を語ればよい将軍とは違い、もっと多角的に物事を捕らえることを求められていたのだ。


「全軍に伝えよ。兵を引くのじゃ」

「陛下!!」

「朕らは今、不慮の死を遂げられた母上様の喪に服している。喪が明ける前に戦さを行うは不忠である」


 郭宗は目を血走らせた鄂将軍を封じるべく、心にもない理屈を平然と並べ立てた。


「向こう三年は国力の増強に努め、それから後に改めて川を渡る。それでよいではないか、鵬挙」

「そんな……」

「いずれにせよ、我らの補給線は伸びきっている。これ以上の進軍は無理だったのじゃ。それはそなたもよくよく分かっていよう」


 元はと言えば、崔皇后が木京へ帰りたい一心で鄂将軍ら主戦派の将軍らを焚き付けて始めた戦だった。建国したばかりの鵠国には余力が無く、望むと望まざると、二十万もの大軍を率いての戦は難しかったのである。


「補給なら、木京を攻め落とした後に集めればよいではありませんか」


 鵬挙は諦めきれずに尚も食い下がったが、主君から冷たい目で睨まれただけだった。


「ではそなたは朕に都で略奪をしろと申すのかえ」

「それは……」


 実を言うと鄂将軍自身はそれをも辞さない構えだったのだが、郭宗は祖国を取り戻すことよりも、木京の民の平穏な暮らしを守ることを優先した。

 年始の変の折、鴉威の兵士らは瑞鳳ルイフォ宮では大暴れしたが、無辜の民草が暮らす街中には一切手を付けなかったのだ。

 郭宗は自分達が蛮族以下の振る舞いをする事態だけは避けたかったのである。

 こうして主戦派の鄂鵬挙が項垂れながら下がると、郭宗は側にいたズイ広鸛グゥンガンに声をかけた。


「広鸛。そなたはもう一度、威国の王と連絡を取れ。この先の和平について前向きに話をしたい」

「し、しかし……かの者はもう……」


 広鸛は戸惑ってしまった。彼もまた、斥候からの知らせを郭宗と共に聞いていたのだ。

 水柱にその身を捧げている男とどうやって連絡を取れと言うのか。

 しかし郭宗は小さく首を横に振った。


「朕にはあの男が王妃愛しさのあまり、考え無しに水柱に飛び込んだとは思えぬのじゃ」


 何か裏がある。

 そう読んだからこそ、郭宗は撤退を決めた。

 ここで渡河を命じたところで、失うものの方が多いのではないか?

 冷静に状況を読んだこの時の判断のおかげで、結果的に郭宗は明君としての地位を確立した。

 彼は河北を取り戻すことは叶わなかったものの、初代皇帝太宗に並ぶ偉大なる皇帝、鵠国中興の祖として、後世まで長く崇められることになるのだった。


四.

 水柱は地の割れ目から噴き出していたが、その割れ目の底がどんなものであるのかは人々に伝わっていない。

 実は深く大きな亀裂が果てなく続いており、この底に溜まった水が噴き出していた。

 そしてこの亀裂の途中には一ヵ所だけ空洞があり、ここには葦切ウェイチェの西岸、つまり川の上流側の、最も切り立った崖の隙間から中に入ることができた。

 自然にできたものではない。

 元は光が差し込む程度の隙間であったものを、人が立てるくらいの大きさにまで人為的に広げた形跡が、その岩肌の随所に残っている。

 水柱が止まった後、この空洞には三人の荒い息遣いだけが響いていた。


「た、助かった……」


 表にいる人々が漏らしたものとは意味が違うが、全く同じ呟きを口にしたアビは、自分と兄、そしてその妻が無事に生きていることを確認すると同時に、声を裏返して激怒したのだった。


八哥パーグェまで飛び込むなよ!! 俺はこいつ一人だと思って準備してたのに、二人も飛び込んだら網が破けるに決まってんだろ!!」


 アビは予めこの空洞に待機し、大地の割れ目を横断するように、網を張っていたのだ。

 水柱の上に通しているが、目の粗い網なら水の流れを邪魔することはない。大地の裂け目は広いが、飛び込む場所は祠の前からと決まっているから、狙って網を張っておくことができる。

 こうして地上から飛び降りてくる鴎花オウファを助けようと準備していたのである。

 ところが、予想に反して兄まで一緒に飛び込んできたものだから計画が狂った。

 その重さに耐えかね、亀裂の岩肌に設置していた四隅の留め金のうち、三つが瞬時に弾け飛んでしまう。残り一つだけで辛うじて二人が奈落の底へ落ちるのを防ぎ、アビも慌ててこの網の端に飛びついた。

 そしてこれを引き上げることになったのだが、これがもう、想像を絶する荒行で。

 そもそも大人二人をアビ一人の力で引き上げるのは無理だったのだ。

 網にぶら下がった格好のイスカはすぐに近くの岩肌に足をかけて自分の体重を支えてくれたものの、地の底から噴き出してくる水柱に叩きつけられて、思うように上ることができない。

 アビはもう何度、これは無理だと諦めかけたことか。

 しかし鴎花の足に網が絡みついたせいで、彼女が腕の力だけでぶら下がる必要が無かったこと、水柱の噴出が途中で止まったこと、陽が高く昇っていったため、頭上から差し込む光が徐々に増えて、亀裂の内部の岩肌が見えるようになったこと、などの幸運にも助けられ、二人が飛び込んでから一刻(2時間)近くたった後、何とか亀裂の中腹にある空洞まで上がってくることができた。

 しかし下手したら最後の留め金まで外れて、網を掴んだアビもろとも、地の底まで落ちるところだったのだ。

 心身ともにくたびれ果てたアビが、兄に文句を言うのは当然である。


「本当にもう!! なんでこうなるんだよ!! 俺はまだ死にたくないんだ!! 勘弁してくれ!!」

「……網を張って待っているなんて、そんなことは書いてなかったぞ」


 弟に噛みつかれたイスカは、肩で荒い息をつきながら反論した。

 その顔は蒼白で、ガタガタ震えている。

 長い時間宙吊りになり、死と隣り合わせだった恐怖によるものだけではない。長く水柱に打ち付けられたせいで、体温がすっかり奪われてしまったのだ。

 その傍らでは鴎花も同じく体を震わせていたから、アビは予め用意していた大判の布巾をその頭に被せてやりながら頷いた。

 

「あぁそうだよ。あんまり詳しく書いたら、八哥は読めないだろ。だから俺は八哥が読めそうな文字だけを使って、本当に必要な事だけを短く書いたんだ」


 鴎花を深く愛しているイスカのことだから、生贄として彼女を捧げることを躊躇っているに違いない。

 そう思ったからこそ、アビは葦切へ向かう直前に木京にいるアトリを訪ね、兄への伝言を書いた紙切れを渡した。

 让他走吧,我会把她好好带回来。

(彼女を捧げろ。俺が助ける)

 それだけ書いておけば、イスカならきっとアビからの伝言だと気付き、鴎花を生贄に捧げてくれると思ったのだ。

 中原が水で覆われてしまうと怯える人々の手前、贄を捧げる格好を見せる必要があった。下手に彼女を助けるつもりだのと公表すれば、人々はますます混乱し、手に負えなくなるとアビは読んだのだ。


「俺も水柱が上がったって聞いたのが、ちょうど四日前でさ。その時は木京ムージンの北、三百里(約120km)ほどの場所にいたんだぜ。そこから宿場の馬を乗り継いで、夜通し走って駆けつけたってのに、そんなにしっかり準備できるわけないだろ!」

「あの……」


 終わる気配のない兄弟の言い争いの間に、鴎花は布巾を被ったままおずおずと割り込んだ。


「どういうことですか、これは?」


 先ほどから鴉威の言葉が飛び交っているので、鴎花にはその内容が理解できなかったのだ。

 とりあえず命が助かったらしい、ということ以外、さっぱり分からないようだ。

 褐色の肌をした異母兄弟は、このもっとも過ぎる訴えを受け、互いに顔を見合わせた。


「……そうだな。まずはお前が無事だったことを喜ぶべきだな」


 狭い空洞の奥には灯明を一つ置いているし、地の裂け目から差し込んで来る光もある。

 イスカは改めて鴎花を見つめるとその身体を愛しげに抱き寄せ、その隣で肩をすくめたアビは胡坐をかき直した。

 そして今の状況を華語に切り替えて語り出したのだった。


「結局、水柱にまつわる伝承ってのは、全部が嘘だったんだよ」

「え……?」

「誰が飛び込もうが飛び込むまいが、水は勝手に止まる。その事実を知っていた崔氏が我らは天帝の子孫でござい、って大法螺を吹いたのが始まりだ」


 アビはこの話を雪加シュエジャから聞いたものだと前置きしてから話をした。

 ツェイ家は長く木京付近の土地を治めていた豪族で、葦切の岩の割れ目から数百年に一度、水柱が上がることを知っていた。

 どうしてそんなものが出てくるのか。

 理屈なんて分からないが、葦切だけが周囲と違う種類の切り立った岩で構成され、遠くから見れば川の中腹に盛り上がっているように見えるところから考えるに、この地の真下では火山の溶岩のようなものが蠢いていて、この亀裂から一定周期で噴き出しているのかもしれない。

 とにかく崔家は水柱をそういう自然現象として認識していた。そして水柱が上がった時には一族の娘を贄として捧げて鎮め、それをもって自分達が天帝の子孫であることの証明とした。


「神の子孫である崔家は栄え、やがては木京付近を治める国まで作った。でもその国は初代鵠国皇帝に滅ぼされてしまった」


 旧王朝の姫として殺されかけた隼国の皇女は、太宗タイゾンの前に引きずり出された際、自分を殺せば天帝の代替わりの折に捧げるべき娘がいなくなると脅したのだ。

 太宗は河南ファナンの出身で、最初はそんな伝承をまともに信じていなかったが、隼国の旧臣らを取り込む目的もあり、彼女を皇后にした。

 すると即位の数年後、本当に水柱が上がったのだ。

 この時すでに皇后自身は病で亡くなっていたが、彼女に教えられたとおり娘を捧げると、これが収まった。

 以来、太宗は皇后には必ず崔家の娘を立てることを子孫に伝え、さらには隼国の家臣であった霍子フォズを重用した。

 そして彼の著書である霍書フォシュにより、人々は天帝への畏敬の念を常に学び、それに伴って崔家の者達を特別視し続けることになった。

 初代の崔皇后は祖国が滅んでも、実質的に自分達一族が栄え続けるように仕組んだのだ。


「ここの空洞は生贄として捧げられた娘を助けるため、崔家の者達が作ったんだ。こんなものが存在していること自体、崔家が生贄なんて本当は必要無いと知っていた、って証明しているだろ?」


 崔家の者達にとって水柱への生贄は、自分達が神の子孫であると証明するための儀式でしかなかった。

 自分達の娘を無為に殺したいわけでもなかった彼らは、ちゃんと脱出路を用意していたというわけだ。


「この話は皇帝も知らない。代々の崔家の人間と、皇女だけに口伝されているんだ。それで雪加も皇女として崔皇后からちゃっかり教えてもらっていたけど、あんたは全然聞いていなかったんだろ?」


 アビに問われ、鴎花は頷いた。

 痘痕面の彼女は元々皇女として扱われていなかったし、万一水柱へ捧げるような事態になったとしても、皇后は助けてやるつもりなんてなかったのだろう。


「天帝の娘は、本来なら崔家の者達が手を尽くして助けてくれることになっているけど、年始の変で崔家の一族は絶えてしまった。当然誰も助けに来てくれないから、放っておけば贄として捧げられた者は本当に死んでしまう。それが嫌だ、助けてやれって雪加が言ったんだ」

「……姫様が私を助けたいと……?」


 今はもう、雪加が皇女でないことを知っていたが、鴎花は今までの癖でそう呼んでしまった。

 アビはそれを聞いて小さく笑った。誇りだけで生きている彼女を、今でも皇女として扱ってもらえるのは嬉しい。


「あぁ。翡翠姫でもない偽物の分際で、中原を救ったと勘違いされて皆から崇め奉られるなんてとんでももない。だから命を助けてやり、贄にもならぬ存在だと証明してやれってさ」


 本来鴉威の地で暮らしていたはずのアビだが、実は辺境地では揃わない物資を調達するため、こっそり中原の街へ買い出しに来ていたのだ。

 それに同行していた雪加と共に水柱の出現を知ると、ここまで全力で駆けてきた。

 雪加は買った荷物と共に宿屋に残してきた。乗馬を習い始めたばかりの彼女では、葦切まで走り続けるのは無理だったからだ。


「分かってる。俺が勝手に鴉威を離れるのはいけないよな。でも燕宗イェンゾンがさぁ、このままじゃ材料が足りなくて焼き物を作れないって言うんだよ。これでもあの皇帝陛下は何も無いところから頑張って、窯を作るための煉瓦を焼くところまではこぎつけたんだぜ。けどさぁ石灰石が鴉威には無いんだ。あれが無いと煉瓦同士がくっつかなくて登り窯を作れなくて」


 良い焼き物を作るためにはどうしても高温を生み出す登り窯が必要であり、石灰石以外にも必要なものはたくさんあった。やむを得ずアビは買い出しのため、冬が終わるのを待って南へ出て来たのだ。

 これに雪加がついてきたのは、これから夏に向けて乳ばかりで腹を膨らませることになる鴉威の食事に早くも飽きてしまい「そなただけ中原に戻って米を食べてくる気か?! 妾にこんな臭いものを飲ませておいて、それは卑怯であろう!!」と駄々をこねたせいである。


「まぁ、燕宗の見張りについては、三哥サングェにくれぐれもよろしくって頼んであるから大目に見てくれよ。俺も買い出しが終わったらすぐ戻るからさ」


 三哥とは鴉威の地に残って暮らしている、アビとイスカにとっての異母兄である。温厚な性分の兄は弟が一族の長になることに文句をつけることもなく、今も羊や山羊と共に穏やかに暮らしているのだ。

 愛嬌を絡めてアビが頼むと、イスカもその件については不問にしてくれた。

 アビが雪加と一緒に街へ出て来てくれたおかげで、鴎花が助かったのである。文句を言うわけにもいかないだろう。


「それで話は戻るけど、どうして八哥まで飛び込んだんだよ? 意味が分かんねぇんだけど」


 改めてアビが問うと、イスカは青くなった下唇を突き出し不満を露わにしつつ答えた。


「水柱を目の前で見上げたら、その勢いが思った以上にひどかったから驚いたんだ。あんな恐ろしいものに飛び込めとは、随分と無茶苦茶な話ではないか。それで鴎花が舞っているのを見ている間に、だんだん腹が立って来てな」

「は?」

「お前が助けると言っているとはいえ、どうして鴎花をこんな危険な目に遭わせなきゃいけないのか理解できない。それにこの国の連中は、俺の王妃を差し出せと、当然のことのように要求してきたが、それもおかしいだろう。だからもしも俺に王としての威が備わっていれば、こんな危険な手段を取らずして、皆を黙らせることができたんじゃないかと思ったんだ」


 イスカは王としての絶対的な威を得るため、自分も水柱に飛び込むことに決めたらしい。

 どれだけ善政を施こうと、武力を誇示しようとも、いつまでも付き纏ってくる夷狄ウィーディの王という称号を乗り越えるために、こんな無茶苦茶な試練を与えた天帝を逆に利用してやろうと考えたのだ。


「そんな……」


 話を聞いた鴎花は、なんと無謀なことをしたのかと絶句し、アビも彼女と同じく猛抗議した。


「いや、それは危険すぎる賭けだろ?! 俺がどうやって助けるのかも分かって無かったくせに。下手したらこの国は突然王を失って大混乱に陥るところだったんだぞ!」

「お前が助けると言ったんだから、必ず助けてくれるものだと信じていたんだ」


 弟に対する全幅の信頼。

 全く……イスカは狡い男だと思う。敬愛する兄にそこまでの想いを示されたら、アビはそれ以上何も言えなくなるではないか。


「それにアビが鴎花を助けたとしても、生贄になったはずの女が戻ってくるなら理由が必要なはず。その点、俺が一緒にいれば、いくらでも言い訳してやれる」


 イスカがそう言った時、地の裂け目の上部から人の声がいくつも聞こえて来た。

 その言葉から、どうやら鴉威の者達のようだと知れる。

 アビはそれを見上げて感嘆の声を上げた。


「へぇ。さすが鴉威の者だな。華人なら恐れ多くて覗き込むこともできない地の裂け目なのに、みんなは乗り込んででも八哥を探す気だぜ」


 しかし上から見ているだけでは、暗がりになっているこの空洞の存在やそこにいる人間のことは全く捉えられないようだ。

 この空洞から地上までは、距離にしておよそ十丈(約33m)はあるのだ。

 岩陰から見える黒衣の男達は縄を下ろそうと相談しているようで、そのうち華人らもその輪の中に加わり始めた。


「あぁ、みんなが八哥を探してる……八哥は王として、皆に必要とされてるんだな」


 アビは黒い瞳を細めた。

 威国は安泰だ。それは彼らの必死な様子を見ていたら分かる。

 天帝に認められた王として、これからイスカの名は中原の隅々にまで響き渡るだろう。そして偉大な王を輩出した鴉威の名も、必然的に高まるはずだ。

 鴉威の民としての誇りを強く抱いているアビにとって、こんなに嬉しいことは無い。


「みんなに呼びかけてやれよ。俺はもう行くからさ」


 アビは荷物をまとめた。自分がここにいた形跡を残すのは良くないから、持って来たものは全て回収する。鴎花に渡していた大判の布巾さえとりあげた。

 アビさえいなければ、後はイスカがいいように話を作るはずなのだ。


「アビ、ありがとう。お前のおかげで助かった」

「よせよ。俺が八哥のために働くことは当然のことだぜ」


 改めて礼を言う兄に対し、照れくさそうに応じたアビだったが、それではイスカが申し訳なく思うかと考え直し、褒美をねだることにした。


「あぁそうだ。じゃあ褒美に木京へもう一度入る許可をくれよ。雪加に木京の街で売ってる翡翠饅を買って帰る約束をしてるんだ」

「そうか。では、後で米も送ろう」

「そりゃ助かる。飯のことでは毎日文句ばっかりで、手がかかるったらもう……」


 これで兄とはまた長い別れになる。アビは努めて重苦しくならないよう明るい口調で兄とその妻に別れを告げた。

 そして細い岩の隙間から、眩しい光の溢れる崖の外へと抜け出る。

 元々切り立った岩が重なっている断崖絶壁の西側斜面には人も近づかないのだ。外は明るいが、目立たずに移動できるだろう。

 背後からはイスカが地上へ向けて大きな声を上げるのが聞こえて来た。それに対しての湧き上がるような歓声も。

 その声を聞いて微笑を浮かべたアビは、荷物を背負い直すと葦切と北岸を結ぶ浮橋を目指して、険しい崖をよじ登ったのだった。


***

 鴉威の習慣では命名は生後五日以内に、華人も七日目に名を付けるのが一般的なのだが、イスカは王子が生まれてから十日も経ってから、ようやくリーテェと名付けた。

 華語では日雀と書く。

 鴉威の民と華人の、両方の血を引く子なので、それぞれで通用する名を付けたのだ。


「この名はあの日、水柱の前で舞うお前の姿の先にあった、美しく輝く朝日にちなんでみたんだ」

「リーテェ。なんと良い響きでしょう」


 遅ればせながら息子の名を決めた二人は、可愛い我が子を見つめながら微笑み合った。

 水柱が引いた翌日、イスカと鴎花は揃って木京へ戻ってきた。

 これまでは水柱に捧げられた天帝の娘が俗世に戻ってくることは無かったので、華人達は驚いていた。

 もしや天帝には中原に子孫が住んでいると伝わっていないのではないか、それなら近いうちにまた水柱が噴き出すのではないかと危ぶむ者もいたが、そういう声は異民族の男が一緒に飛び込んでしまったせいだろうという推論で抑え込まれた。

 これまでにない事態になっているのは、あり得ないことが起きたせいなのだ。

 イスカ本人も、天帝に会って王妃を返してもらってきた、そなたを中原の王として認めるとの言葉を賜ったのだと説明した。

 現に二人が戻ってきているのだし、わざわざ文句を言う必要も無い。

 この後すぐに鵠国との正式な和平を結ぶ交渉で忙しくなってしまったこともあり、結果として誰もが現状をありのままに受け止めることになったたのである。


 こうしてイスカは今日も一日の政務を終えて、香龍シャンロン宮に敷いた絨毯の上で寛ぎ、王妃の淹れた茶を飲んでいた。

 手にしているのは霍書フォシュである。

 華人の子供なら、生まれて一番最初に目にする書物であり、多くの者が暗唱しているものの、いまだ文字を覚えきっていないイスカが読みこなすのは難しい。それでも華人の心を知るためには欠かせない書物であるため、こうやって僅かな時間にも学ぶようにしている。

 鵠国との間に成立した和平はもって三年。その間に郭宗は内政に勤しみ、北伐の兵を挙げる力を蓄えるつもりだろうが、威国はその上をいかねばならない。

 向こうが太刀打ちできぬと諦めるほどの強固な国を作る。そのためにもイスカが華人達ともっと心を通わせることは重要になるのだ。

 読書に励むイスカの傍らでは、息子が懸命に寝返りを打っていた。今朝、初めてできるようになったのだ。

 本人はその成長ぶりを父に見てもらいたいようで、先ほどから手足を突っ張り、上手にごろんとひっくり返っては、イスカを自慢げな目で見上げてくる。

 

「ほぅ、大したものだな、リーテェ。たった一日で随分上達したではないか」


 イスカは書物を脇に置くと、青灰色の瞳の息子を抱き上げてやった。そうしないと、イスカの膝先に置いていた茶碗が、息子の身体でひっくり返されてしまいそうだったのだ。

 イスカは膝に座らせた息子のふっくらとした頬に顔を寄せると、ちょうど飲み終えた茶碗を下げに来ていた鴎花に話しかけた。


「さすが、赤ん坊というのは滑らかな肌をしているものだな」

「私と似なくて良かったです」

「いや、お前の肌の痘痕は、実は龍の鱗の名残なのではないかと、巷では噂されているそうだぞ」


 天帝は龍の神。

 蛇にも似た細長い体は鱗で覆われているため、その末裔である鴎花に鱗の痕があってもおかしいことはない。

 イスカは膝の上にいる幼い息子にも話しかけた。


「なぁ、リーテェ。お前の母はその見た目通り、紛うことなき天帝の娘なのだ。お前も誇らしいだろう」

「そのような噂……陛下が言わせているのでしょう」


 鴎花の苦笑交じりの問いかけに対し、イスカは口元を緩めて誤魔化した。

 誰が噂をばらまいたかは重要ではない。要は多くの者がそのように感じてくれればそれでいいのだ。

 中原を救った翡翠姫が痘痕を得ていることは、いまや誰もが知っている。

 かつて流れていた翡翠姫が見目麗しい姫であるという噂は、あれは心の美しさを表したものだったのであろう、と勝手に解釈されたようだ。

 近頃ではそんな鴎花に会いたがる人も増え、彼女もまた痘痕を気にすることなく積極的に表へ出るようになっていた。

 可愛い息子を育てつつも、病気の者の手当てや、孤児の世話をする慈善事業を立ち上げようと動き始めたところである。

 イスカが王として力強く民を率いていく傍らで、彼女は人々を労わる柔の面を担ってくれている。

 なんと得難い王妃なのだろう。

 イスカは目を細めて鴎花の頬に手を伸ばすと、その凹凸の多い肌に触れた。


「もう誰もお前の痘痕を嗤わぬ。いや、むしろ誇りに思う」


 これから鴎花はイスカの王妃として、世継ぎの王子の生母として、堂々振舞ってくれたらいい。


「全て陛下のおかげですよ」


 本人は淡く微笑んで言うが、イスカは鴎花を見出しただけで、素質を秘めていたのは彼女自身だ。

 翡翠姫の名は、彼女と共に輝きを増していくだろう。

 そんな鴎花の隣に自分が立てることを、イスカは何より誇らしく思うのだった。


(おわり)

長い話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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