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注射

「今日は予防接種の日。だけど彼は注射が大嫌いだった。」


 鼻を突くツンとしたアルコールの臭いがますます恐怖を掻き立てる。

 不安とも怯えともつかないざわめきが周囲を取り巻いていた。

 かちゃんとすぐそばで金属が触れ合う音がするたびに、びくっと身体が震える。

 今日は学校の集団予防接種の日だ。

 恐ろしい病気に掛からないため、生徒が揃って注射を受ける。

 それは子供達のためを思って保護者や教師が設定した機会のはずなのだが、彼は随分前からこの日が恐ろしくて堪らなかった。

 それもそのはず。彼は何よりも注射が苦手だった。むしろ怖くて仕方がなかった。

 弾力ある生身の肌の、よりによって皮膚がもっとも柔らかい肘の内側。

 普段は折り曲げた腕の内側や身体の陰に隠れている、身体の中でも群を抜いてか弱いその場所に鋭く尖った金属の針が突き刺さる。

 冷酷に光を弾くその凶器は、薄い皮膚を突き破り肉を貫き痛覚を刺激する。その痛みに暴れ出しそうになっても、傍らの看護師にしっかりと身体を押さえ付けられ逃げることは到底適わない。

 そのうちに肉体に侵入した太い針は血管に穴を穿ち、体内には存在しない薬品を注入するのだ。

 そして極めつけはそうした責め苦を受けて傷付いた箇所を、きついアルコール臭を漂わせた脱脂綿でこれでもかというほど圧迫される。

 そんな恐ろしい儀式を、まだ年端もいかない無垢な子供達が受けなければならない。

 まわりの子供達もまるで生け贄に選ばれてしまった哀れな子羊のように沈鬱な表情を浮かべていた。

 いったい誰がこんな残酷な制度を作り出したのだと彼は天を恨みたくなった。

 いや、むしろ本当にその運命を受け入れる必要があるのか。

 彼は天啓に打たれたように、ふいに思い直す。

 周囲を見ればまわりの子だって恐怖に怯えた表情を浮かべているじゃないか。それなら自分がこの運命を拒絶して、いったい何が悪いというのだ。

 それは彼にとって、そして他の子供達にとって実に画期的な発想の転換だった。

 だがそう思いたって腰を浮かしかけた彼の決意は、あともう一歩のところで遅かった。

「それでは予防接種をはじめます。先生、お願いします」

 冷酷無比な看護師の声が響く。彼は絶望に顔を歪めた。

 袖を捲られ背中を押され、生徒と医師は向かい合う。それはなんと残酷な邂逅なのだろう。彼は自らの運命を呪い、そして思う。たぶん、きっと自分は今にも泣きそうな表情を浮かべているに違いないと。

「先生、早くしてください」

 看護師の呆れたような視線が突き刺さる。

 彼は覚悟を決めてしぶしぶと注射器を手に取った。

 ああ、どうして自分は医者なんかになってしまったのだろう。

 彼は白衣姿の己を見下ろし、あまりに今更な後悔にため息を落とすのだった。

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