3 粉砕してから抽出
「こんにちはー」
十月に入ってすぐ、羽重の後輩の田浦が丘咲珈琲焙煎所にやってきた。一度羽重に紹介されたことがあり、丘咲も知っている人物だ。
一号店で出されるコーヒーは、丘咲の焙煎したものの他に田浦が見つけた焙煎士のコーヒーも出されることになっていた。あえて、丘咲のものとは全く味の傾向が違うものになっているらしい。
「こんにちは、田浦さん」
「羽重に来客があって、長引きそうなので俺が代わりに来ました、すみません」
「そうですか、お忙しそうですね」
「仕事を見つけてくるのがうまい人なんです。だからこその出世頭なんでしょうね。どうですか丘咲さん!」
「どうって」
丘咲は笑って流す。田浦はもちろん冗談で言ったのだろうが、あの大企業で出世頭なのかと思うと、どこか遠い人のように感じられた。
「おかけになって下さい、今コーヒーを」
「いやいやお構いなく! あ、豆、これですね」
作業台の上に、箱詰めした豆が置いてある。今度は外部向けのお披露目会が一号店で行われることになっており、そこで出すためのものだ。
「あの、田浦さん」
丘咲は尋ねてみた。
「私、会社の皆さんに男性だと思われてるそうですね」
田浦が軽く目を見開く。
「それ、羽重が言いました? おおー」
『おおー』? と思いながら、丘咲は首を横に振る。
「いえ、一号店の前で他の社員さんにお会いして。挨拶したらびっくりされてて……」
「ああー」
今度はそんな声を上げてから、田浦は少し考えるそぶりを見せた。そして、こう答えた。
「まあ、言わない方がいいこともあるんですよ」
「私が女だってことを? どうしてですか?」
「その辺は、羽重に聞いて下さい。その方がいいです、うん」
田浦は言って、箱を持ち上げた。
「丘咲さんが気にしてたって、伝えておきます。それじゃ、ありがとうございました! 絶対成功すると思いますよ」
「あ、はい、よろしくお願いします」
丘咲は何となく腑に落ちないものを感じながら、田浦を見送った。
そして、ハンドピッキング中の木箱の前に戻る。豆には今日も、小さなガラス片が混じっていた。
その夜、羽重から電話があった。
『今日は行けなくて済みません。田浦、ちゃんと受け取りに行きましたか』
「はい、大丈夫です」
返事をしながら、あの後田浦と羽重はまだ話をしていないらしい、と丘咲は悟る。ということは、丘咲が気にしていることも伝えていないだろう。
直接羽重に聞けばいいのだろうが、田浦の言っていた「女性だと言わない方がいいこと」とは何だろうと気になっていた。色々と考えるうちに、何にせよ理由があるならこのままでいいのかもしれない、と言い出しにくくなる。
『広報の林道に聞いたんだけど、一号店に立ち寄ってくれたとか』
「あ、はい、用事のついでに通りかかっただけで」
『そうですか。明日が外部向けお披露目会なんだけど、来ますか?』
羽重は提案してくる。
「えっ」
『真っ最中じゃなくても、少し時間をずらして。スタッフには会ってみたいんじゃないかな。招待客が帰った後で、一号店スタッフに紹介するのはどうかなと』
「あ……そうですね」
自分が焙煎したコーヒーを美味しく淹れ、そして客にサーブしてくれる人々だ。確かに、「よろしくお願いします」の一言は直接伝えたかった。
「ちょっとだけ、行こうかな……。あ」
自分が女性だとバレるけれどいいのか、と言いかけて、丘咲は何となく言葉を飲み込む。
『じゃあ六時にお開き予定だから、六時に店の前で。その後、田浦は別の焙煎士さんの接待だって言ってたから、俺も丘咲さんを接待しよう』
「えっ、あの、そんなの」
『って大げさですね、こないだ言ってた打ち上げをやろうって意味で』
「あ……はい」
丘咲は苦笑した。
一号店の味が決まるまでずいぶん頑張ったのだ、ねぎらい合うくらいのことはしたい。彼女もステップアップできたはずで、今回の話を持ってきてくれた羽重に感謝したかった。
「六時ですね」
『楽しみです。じゃあ』
電話が切れる。
丘咲はちらりと、棚の上に置いた紙袋に目をやった。
それから、まるでデートの約束をしたかのような気分で、緊張しながらも着ていく服を考え始めた。
翌日、六時少し前に、丘咲は一号店の前の通りを行ったり来たりしていた。
白い丸襟のついたモスグリーンのニットに、ベージュのロングスカート。色々考えた末に結局地味な格好に行き着くのは、彼女の性分だ。せめてもとワンポイントのつもりで、バッグは柄の入ったものを選んでいる。他に、小さな手提げの紙袋も持っていた。
やがて、前回と同様に店からスーツの集団が出てくる。一番後ろから出てきた羽重が、すぐに丘咲に気づいた。
彼は丘咲に近寄り、
「中で待ってて」
と早口で言うと、店の中に声をかける。
「すみません、俺のお客さんです。すぐ戻るから待っててもらって」
そして、丘咲に軽く手を挙げてから外に出て行った。
店員が奥の席に案内してくれ、丘咲は大きな観葉植物の陰になったソファ席におとなしく収まる。注文を聞かれたので、まだ飲んだことのないコーヒーを頼んだ。
前回来た時にはなかったコーヒーカップ用の棚があることに気づき、チラチラ眺めていると、やがて入り口から女性が入ってきた。
あ、と丘咲は気づく。
林道だ。
挨拶した方がいいのか迷っているうちに、店員の一人が彼女に声をかける。
「林道さん、お疲れさまです。今日はもう上がりですか?」
「ええ、今日は。あー疲れました」
「座って座って。あれ? 林道さん、指輪してる!」
「えへ、もう仕事が終わったからいいかなって」
丘咲が葉陰からそっと見ると、カウンター席に座った林道の左手の薬指に、澄んだ輝きがあった。ダイヤモンドだとすると、婚約指輪だろうか。
「式、もうすぐなんですってね。社内での名前は、林道のままで行くんですか?」
店員が尋ねる。林道は答えた。
「そうします。『羽重』が何人もいたらややこしいでしょう」
急に、丘咲の心臓が早鐘を打ち始めた。
店員の声は続く。
「いやー、でも林道さんがそのうち社長夫人になっちゃったら、話しにくくなるなぁ」
「社長になんかならないと思う、彼は。もっともっと優秀な方がいますから」
「そんなこと言っちゃっていいんですか」
笑い声。
自分の心臓の音を聞きながらも、丘咲はいつの間にか、膝の上の紙袋の手提げをぎゅっと握りしめていた。
「お待たせしました」
いきなり横から声がかかり、丘咲はビクッと振り向いた。コーヒーをテーブルに置こうとしていた店員が、彼女の様子に驚いて手を止める。
「あの、ごめんなさい、私もう行かないと」
丘咲は立ち上がった。林道が気づき、笑顔になってさっとカウンターの椅子を降りる。
「あっ、お……この間の! いらして下さったんですね!」
「こ、こんにちは。はい、でもごめんなさい、ちょっと急用で」
もっとましな言い訳はないのかと思いながらも、丘咲は携帯電話を手にして見せた。いかにも何か連絡がきたかのように。
「いつもバタバタしてすみません、また」
一つ頭を下げると、丘咲は林道の反応を待たずに店を飛び出した。
その途端、ドン、と広い胸にぶつかった。
「ぶっ」
「うわっ。あ、丘咲さん」
羽重が驚いた顔で立っていた。
「どうしました? 何かあった?」
「あ、の」
喉が詰まって、言葉がうまく出てこない。元々、彼女は嘘をつくのは苦手だった。
そこへ、後ろから林道のにこやかな声がかかった。
「あら、待ち合わせだったんですか? オニイサン」
「その呼び方はやめろって」
羽重は顔をしかめる。
ふざけ合うような会話に、丘咲はたまらなくなって顔を伏せた。羽重が彼女の顔をのぞき込む。
「本当にどうしました? 気分が悪い?」
「外に、出たい」
羽重を押しのけるようにして外に駆け出した。後ろで彼があわてた声で、
「俺、直帰な!」
と店の奥に向かって言うなり後を追ってきた。
川にかかる橋の上で、羽重は丘咲に追いついた。
「丘咲さん」
「ごめんなさい、用事が」
「落としましたよ」
「えっ」
思わず立ち止まって振り向く。
彼女が持ってきた手提げの紙袋が、彼の左手にあった。そして右手には、落とした拍子に袋から飛び出したらしい、小さな透明のパッケージも。
「あっ」
丘咲は取り戻そうと手を伸ばしかけたが、羽重に近寄るのもためらわれて、とうとう何も言えずに立ち尽くしてしまった。
「もしかして、これ、俺にかな」
羽重は手元と丘咲を見比べた。
パッケージの中には、丘咲がワイヤーアートで作ったストラップが入っていた。ワイヤーで装飾されているのは、薄い青のガラス。
丘咲は、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にした。
赤いガラスを見て「ロマンだな」と言った羽重なら喜んでくれるかと、別のガラスを見つけたときに思いついて作ったものだ。今回の仕事のお礼のつもりだった。
が、林道の婚約指輪を見た後ではオモチャ同然に見える。自分はダイヤモンドではなく、磨かれないままコーヒー豆に埋もれたガラス片のようだ、と。
「本当に? これももしかして、豆に混じってたやつかな。やった、ありがとうございます」
さっそく携帯電話を取り出した羽重を、丘咲はあわてて止める。
「着けないで! 着けなくていいんですっ」
「何で!?」
「ごっ、ご結婚なさる人が、他の女からのプレゼントなんて身につけちゃダメですっ」
「結婚するのは弟だけど」
「はい?」
丘咲は目を瞬かせた。
「弟、さん」
「同じ会社に弟がいるんで。さっき林道が言ってたでしょう、オニイサンって。弟が彼女と結婚する予定で」
『オニイサン』が『お義兄さん』であったことを悟り、丘咲は脱力した。
羽重兄弟がいて、そこに林道までが羽重と名乗れば、確かに「何人もいたらややこしい」ことになるのは確かだった。
羽重が、どこか嬉しそうな表情で彼女に近づいた。
「……丘咲さん。もしかして、それでさっき」
「あの、社長候補なんですか!?」
丘咲はあわてて遮る。そこも大問題だった。
羽重は顔をしかめる。
「丘咲さんまでそんなことを。現社長の身内の中で、俺が一番年長だからそういうことを言う奴がいるだけ。親族経営なんで色々あります、気にしないで下さい」
「き、気にします! やっぱり、そんなしょぼいの着けないで!」
しかし、羽重はさっさと携帯にストラップをつけると、
「ロマンの欠片、ゲット」
と満足気に眺めて内ポケットにしまい、丘咲の目を見た。
「他に気になることは? あ、そうだ、丘咲さんが女性だと会社の人に言わなかった理由もだ」
どうやら、丘咲がそれを気にしていると田浦から聞いたらしい。
もし林道が彼の婚約者だったなら、婚約者に余計な心配をさせまいと、一緒に仕事をしている焙煎士が男性だということにした……というならわかる。そして林道は婚約者ではないとわかったものの、他に恋人がいれば同じことだ。
田浦が「自分からは言えない」と言ったのも、先輩の恋愛話をよそで話さないようにしただけだとすれば……
「……丘咲さんが、若くて綺麗な女性だと会社で話したら、どうなってたと思う?」
羽重はため息をつく。
「ただでさえ『丘咲さんの珈琲』と銘打つわけだから、現社長に『顔も宣伝しろ』って言われるに決まってる。今頃、顔写真を撮られて、宣伝ポスターやメニューに使われてたかも」
「嫌です、そんなのっ」
「でしょう? あなたは絶対嫌がると思った。そんなことになったら仕事を断られてしまうか、嫌な仕事を無理矢理やらせることになる。だから隠してた。林道にも口止めしました。守ったつもりだったんだけど、気にしてたならごめん」
羽重に守られていた、と知った丘咲の身体の強張りが、少しずつ解ける。凍っていた川に雪解け水が流れ出すように、表情が柔らかくなる。
羽重は、もう一歩丘咲に近づいた。
「田浦が言ってました。俺から丘咲さんにそのことを説明すれば、絶対雰囲気が良くなる、って。……今日、俺と、食事に行ってくれますか」
丘咲は急いでうなずいた。元々その約束だったのを、勝手にショックを受けて反故にしようとしてしまったのが申し訳なかった。
「……っ良かった!」
羽重は一度天を仰ぎ、それから丘咲の隣に立って背を軽く押す。
「せっかく見つけた人だから、大事にしたかったんです」
鼓動を落ち着けようとしながら、彼女は尋ねた。
「でも、あの……本当は写真を出した方がいいとか、あるんですか? その方がお客さんに信用してもらえるとか、営業戦略的に」
「俺は出さなくていいと考えてます。逆に、秘すれば花ってやつで。あ、でも顔は出さなくても、メニューの片隅にちょっと『焙煎士丘咲さんにインタビュー』とか載せるのはいいかもしれない」
羽重が丘咲の顔をのぞきこんだ。
「丘咲さん、焙煎を始めたきっかけは?」
「えっ」
丘咲はまた赤くなった。
「秘密です」
「……何で?」
「何でも。あの、何食べに行きましょうか」
「何か希望はある?」
羽重に聞かれた丘咲は考え、少し照れながら答えた。
「……食後のコーヒーの、美味しいところ」
ゆっくりと、話をしたいから。
ささやくように付け加えた彼女に、羽重は笑った。
「それ、自宅に誘ってくれてるように聞こえる」
「ちが、ちがいます!!」
「だってなぁ。一番コーヒーが美味しい場所はどう考えても」
「そういう意味じゃないですから!!」
結局その日、公開しないと言う約束で、丘咲は白状した。
初めて父親に焙煎を教わろうと思ったきっかけは、いつか好きな人に、自分の焙煎した美味しいコーヒーを飲んでほしかったから。
ただそれだけなのだ、と。
【丘咲珈琲焙煎所 完】