第9話 俺が最初に人間に負けたときの夢だ
目の前に放たれた矢が通り過ぎる。一瞬の出来事に動けなくなり、俺は銀髪の人間を見上げた。余裕の表情で俺を見下し、不敵な笑みを浮かべて――
「そんなに言うなら、やってみろ」
挑発的な物言いだけが、痛烈に俺の頭に響く。名を呼ばれて立ち去った奴を、俺は恐ろしく、憎く感じていた。
また、あの夢か。あれから500年も経っているというのに、俺はまだ、あのアクーシャという人間に劣等感を抱き続けているというのか……。俺は寝台から身を起こした。途端に、エメラルドグリーンの悲しげな瞳と視線がかち合った。
「お前……俺の部屋に入るなと言ったろう!」
俺は即座に立ち上がってアクアの首根っこをつかまえると、黒岩石の上に降ろした。こいつはそれでも心配そうに俺を見上げる。
「やっぱり、悪い夢見てるのか?」
相変わらず変な奴だ。自分の心配はせずに、他人である俺の心配をしているんだからな。しょげたように犬耳を垂らしたアクアを、俺はくしゃりと撫でた。
「ああ、俺が最初に人間に負けた時の夢だ。確か、アクーシャっていったっけな…」
最初の人間との出逢いがこういうものであったからこそ、俺は人間を憎んでいる。俺が苦々しくそう言うと、アクアは少し驚いた顔をした。
「水影? それって――」
「…知っているのか?」
俺が問うと、アクアは頷いた。確かにこいつは人間として生きてきたのだから、人間であるアクーシャのことについて知っていたとしてもおかしくはない。アクアは少し間を置いて話した。
「水影は500年ほど前の人間で、世界最初の人王である月光を、生涯補佐した人物であると言われているんだ。弓の名手で、それに関する逸話も数多く存在しているくらいにな」
アクアの話は、俺の記憶ともかなり一致していた。俺があいつに出会ったのは500年ほど前の話だし、巨鳥をたった一撃で仕留めた事からも、弓の名手である事がうかがえる。人王の補佐だとは知らなかったが、それでも並大抵の人物でなかった事は明らかだ。モンスター全てを統べる王が“魔王”であるのに対し、人間全てを統べる王、“人王”。全てをまとめうる実力無しには、当然王たる資格はない。彼らを補佐する人物とて、相応に実力のある人物には間違いないのだ。
「そうか、じゃああいつが――そういえば、ルナラウスとやらもいたな」
俺は感慨にふけって、独りごちた。アクアは何故か、可笑しそうに笑っている。
「でも、水影が有名なのは、人王の補佐だって事以外に、別の理由があるんだ」
「そうなのか?」
俺は何か言いたげなこいつの言葉を、少し待った。500年というのは人間にとっては長い時間だから、忘れ去ってしまわないような、別の理由が必要だという事だろうか。
「うん、水影は“双減存在論”を主張したんだって言われてる」
「そうげんそんざいろん?」
聞いた事もない言葉に、俺は首を傾げた。アクアは、おれも全部は知らないけど、と加えてから話し始めた。
「人間とモンスターは、お互いの数を減らす事で、増えすぎずにバランスを保っていられるんだ、っていう主張らしい。だからどちらも相手の数を減らすように進化していくのは当然の流れで、知能を発達させたり種族をまとめる王も現れるんだ、って」
俺は話を聞きながら、考えていた。理解するために、というのももちろんあったが、それ以上に気にかかる事があったのだ。
「その主張が、どうして有名なんだ?」
俺には、アクーシャの言っている事が至極当たり前の事を言っているだけに思えたのだ。もっとも、人間とモンスターの両方がお互いに争っているという事を、開き直って考えているという点では画期的なのかもしれないが。
「それが、この論文の最後の部分が欠落していて、500年経った今でも水影が本当に言いたかった事が謎に包まれているんだよな……」
俺は少し思い返してみた。言われてみれば、あのアクーシャという人間は、何を考えているのかが謎であった。だからこそ、こうして人間に強い印象を与えているのかもしれない。あの時は俺もガキで何も考えた事はなかったが、あの時の言葉にも、別の意味合いが込められていたのだろうかと思ってみるのだった。




