第10話 お前は人間だ
俺は日々の雑務を終え、何気なく城内を歩いていた。それが、いつの間にかアクアの部屋に足が向かっていた事に苦笑する。見ると、こいつは自身の父親の毛皮に顔をうずめていた。俺が入るなり、茶色い犬耳がピン、と立って俺の足音を聞きつける。続いて、エメラルドグリーンの瞳が俺を不思議そうに見つめた。俺は適当に椅子に座ると、アクアの瞳を見つめ返した。
「たまに思うんだが、お前、人間の世界でのいい思い出ってのはねえのか?」
半分は人間でありながら、もう半分はモンスターであるアクア。それ故、人間の世界で生きていく事は並大抵の事ではなかっただろう。それこそ、モンスターとして生きたいと思ってしまうほどに。アクアは寝そべっていた体を起こし、ちょこんと座り直した。
「いたよ。おれの事を、ちゃんと見てくれた人間が――」
*****
それは、おれが既に一人で旅をしていた頃。おれは、決まったチームを作れず、助っ人として臨時に戦いに参加して生計を立てていた。ある日たまたま立ち寄った町で、その人と出会ったんだ。
討伐系の依頼に協力して欲しいと、冒険者に頼まれたんだ。その冒険者は十代半ばの少年だったのに、一人で旅をする、腕の立つ人物だった。
「もったいないよな」
それが、おれへの最初の言葉だった。目深にかぶったフードを、わざわざ屈んでのぞき込んでの言葉だった。
「もったいない? 何が?」
「お前さ、こんなに綺麗な顔してるのに……このフードじゃ見えないだろ?」
そう言って伸ばされた手の温もりを、今でも鮮明に覚えている。今までそんな事を言われた事がなかった。おれがモンスターだと気付いていなかったのもあるだろうけど、その人はおれを綺麗だと言った。おれは少し迷って、人のいない場所にその人を連れて行った。
「おれ、人間じゃないから……」
他に誰もいない事を確認してから、おれは黒いフードを外した。おれの犬耳があらわになって、その人は驚いて目を見開いた。そうして、おれは自分の身の上を語った。今思えば、どうしていきなり正体を見せてしまったのだろう。褒められた事が嬉しくて、ひょっとしたら受け入れてもらえるかもしれないと、心のどこかで期待していたのかもしれない。それがどんなに甘えた考えだったか、そのすぐあとに後悔した。今までも、おれがモンスターと分かると、途端にその目つきが冷たくなったから。この人が黙ってしまったのを見て、おれは怖くなってしまった。
「やっぱり、モンスターのおれがここにいちゃ、まずいよな……」
おれがそう言うと、その人はおれの頭に手を置いた。そのまま頭を撫でてきたんだ。最初は行動の意味が分からなかった。顔を上げた先にあったのは、その人の穏やかな顔。
「大丈夫。お前は人間だ」
「でも、おれは――」
「お前がモンスターなら、俺はとっくの昔にお前に殺されてるよ」
その言葉で、すべておれの杞憂で終わってくれたのだと分かった。見た目ではなく、おれを――おれの内面を見てくれていた。その時の明るい笑顔に、おれも自然と笑顔になった。
その少年の名は、リュウジといった。
それから数日後。おれ達は、依頼主のいる町へたどり着いた。山の麓にあるその町は、所々で白銀色に輝くラッパ状の花が咲いていた。
「月下草か。こんな所でも咲くんだな……」
美しい花の前で、おれは腰をかがめた。そんなおれを、リュウジは不思議そうに見つめる。
「月下草? 別に珍しい花でもないだろ?」
それもその通り、月下草はどこでも生える事のできる花で、取引される事もあるが安価な物だった。確かに美しい花ではあるが、おれが感慨深そうに見入っていた事が意外だったのだろう。
「なあ、リュウジは、月下草の花言葉、知ってるか?」
おれは唐突に問いかけた。リュウジは眉間にしわを寄せて、分からないと答えた。何でそんな事を、とも聞かれた。だから、おれは話したんだ。
「月下草の花言葉は、『貴方が来るのを待ちます』っていうんだ」
「…なんだそりゃ」
リュウジは訳が分からない、というふうに首を振った。実際のところおれも初めて聞いた時はよくわからなかった。おれはお袋から聞いた話をした。
「確かに、月下草はどこにでも生える。でも、つぼみが花となるには、“ある条件”が必要なんだ」
「条件?」
「ああ。それは局地的な風――いわゆる、地方風が吹く必要がある。フロードといって、海から吹いた風が高い山を越えきれずに下る、冷たく湿った山よりの風。つまり月下草のつぼみは、フロードが吹かない限りずっと花を咲かせずに待ち続けるんだ」
それが、この花言葉の由来。おれが珍しそうにしていたのは、この花がそういった地方風の吹く場所でしか咲かない事を知っていたからだ。リュウジはただ黙っていた。見慣れたはずのこの花に、新たな視点を持って接する事ができたからかもしれない。今なら言えるだろうかと、おれは口を開いた。
「おれ、今まで、リュウジという風をずっと待っていたんじゃないかと思うんだ。おれの花を、咲かせてくれる存在を」
「……へっ?」
その時のリュウジの顔は、とても面食らったようなものだった事を覚えている。声もまた、素っ頓狂なものだった。普段だったら何でもない言葉。けれど、月下草の話の後だからこそ、意味を持って聞こえてくる。呆然とおれを見つめるリュウジに、おれは言葉を続けた。
「おれはずっと一人だった。おれはこの世界に必要ない存在じゃないかとも思った。でもお前に出会えて、そうじゃないって思えるようになったんだ。だから、お前はおれにとっての風。おれのことをちゃんと見て、受け入れてくれてるから――」
おれが言い終わっても、リュウジはしばらく黙っていた。その間、ずっとおれを見つめて。やがて口を開いた時、リュウジの口元は笑っていた。
「俺も、お前と出会えて良かった」
優しく、そうつぶやく。
「…だめだ、俺はお前ほど口が達者じゃないや」
リュウジは笑った。おれもつられて笑った。しばらくはそこでしゃがんでいたんだ。ずっと彼といたいと願いながら。
でも、できなかった。やっぱりおれはモンスターで、人間とは暮らせなかったんだ。たまたま訪れたのが、ここしばらくの間一度もモンスターからの襲撃を受けていない街だったんだ。けど、おれ達が訪れた晩にそれが起きてしまった。何の理由かは分からない。けれど、少なくともおれは疑われた。おれが街へモンスターを入れたのだとか、おれがいることで他のモンスターがおびき寄せられたのだとか。
もちろん、リュウジは街の人達を止めようとしてくれた。でも、そう簡単にいかなかった。おれはそんなあいつを見るのが苦しくなって、おれを庇わなくてもいいように一人で抜けてきたんだ――
*****
一通り話し終わったあとのアクアの瞳は、暗く沈んでいた。俺はそんなこいつの茶色い髪の毛をくしゃりと撫でる。
「お前はお前で……苦労してたんだな」
俺の行動に、弾かれたようにこいつは顔を上げた。俺の目とエメラルドグリーンの瞳が合うと、こいつは尻尾をゆらりと振る。
「でも今は、フィルバー様がいるから大丈夫」
ニッと笑ってみせ、アクアは尻尾を嬉しそうに振った。俺はその笑顔に、嬉しいような胸の辺りががきゅっとなるような、不思議な感覚におちいった。言葉も返せず、俺はただこいつを撫で続けた。