日向子の気持ち
20
「どうでした、美香……さん。頬の傷、治りそうですか?」
診察室からから出てきた美香に、日向子はそう声をかけた。
悠哉の運転で倉庫街から脱出して見慣れた町並みに帰ってきてすぐ、悠哉は知り合いの病院に二人を預けたのだ。
美香の頬の切り傷を診てもらう必要だけでなく、『我々』に吸わされた高濃度麻酔の検査を行うためだ。ハロタンも吸い過ぎると体に影響が出る。検査しておいて損はないというのが悠哉の言い分だった。
「もちろんよ。悠哉の言ってた通り、浅い切り傷だったから跡も無く治るって」
「……」
「ねぇヒナ、お腹すかない? もう二時近いでしょ、検査終わったらなにか食べにいかない?」
なぜか黙る日向子に気付かないで、美香はさらに言う。……俺は気付いてるもんね、美香より一歩リードしてるぜっ!
「うるさいわね、わたしも気付いてるわよ。ヒナから話してくれるのを待ってるだけ。……彼女はいなくなったの?」
……おう、さっき帰っていったぞ。まぁ本当は俺が起きた時に戻るのが普通なんだけどな。
「なら良いけど。あんなの繰り返されたら胸焼けしてたまらない」
……やーい美香のツンデレー。って前にこれ言った気がするな、別の言い方考えないと……。
「別に良いけど、あんたの彼女がどっかで聞いてるかもしれないわよ? 疑い深さでまた浮気と思われてもわたしは関係ないけど」
……うわぁ誤解だぞっ! 俺はこんなの相手しないからっ!
「どういう意味だあぁん?」
美香がそんな感じで地の文と遊んでいると、ようやく日向子が口を開いた。
「美香……さん、私この辺りのお店知らないので、おいしいお店お願いします」
「とっておきのお店を教えるわ!」
日向子からやっと帰ってきた反応に、美香は少し嬉しくなって答えた。……と言っても日向子ちゃんが自分から話してくれるのがいつになるのか分からないけどな。あと悠哉が日向子ちゃんから変態と呼ばれることに開き直って、変態的性癖のセクハラをしたかもしれないぞ?
「ねぇヒナどうしたの悠哉にセクハラされた?」
美香はノータイムで食いついたっ!
いきなり訊かれた日向子は驚いたように美香を見て、しかしその内容に目を伏せる。
その反応に美香の怒りが燃え上がった。
「あんのバカ悠哉っ! (わたしならともかく)ヒナにセクハラするなんて、帰ってきたらちゃんと報復してやらないと……っっ!」
……心の声が微妙に出てるよ美香。っていうか「わたしならともかく」ってなによ、美香はM気質なのか(ニヤニヤ)?
「ちっ、違いますっ! 葛城さんに何かされた訳じゃないです……。ただ……」
美香による冤罪を止めようと慌てて言う日向子だったが、やはり言うのは躊躇われるようだった。悠哉と仲の良い(と日向子は思っている)美香にそれを言って、悠哉に伝わってしまう事を心配しているのかもしれない。
「ただ?」
日向子は美香がそう促した後も、日向子は何度も口を開けては閉めて、どうも告白する決心がつかないようだった。……さぁどうするんだ美香? 恋愛経験のあるこの俺が教えてあげようか(ニヤニヤ)? ボギャッ! あのー、こっちを見もせずに殴って無視しないでくれます? 表情見ないと煽りがいが無いからさぁ。
少し経って、ようやく日向子が決心をつけてその先に続く一文を話した。
「私、葛城さんが……、怖い、です……」
「よし悠哉は死亡確定ねヒナをいつ襲おうとしたかは知らないけれどそれなら変態と呼ばれるのも当然だわなんで初対面の子に夜這い仕掛けてるのよわたしなら……なんでもないとにかくどうやって死に晒そうかしら首を絞めようかしらそれとも殴ろうかしらそれとも」
「美香さん落ち着いて下さいっ、そんなんじゃありませんからっ!」
日向子の言葉に表情が抜けて息継ぎすらせずにまくし立てる美香。ただ一部の言葉を言っているときだけ顔を赤くしていたが。……ひゅーひゅー、お熱い事でー。
「ならどういう事よ?」
美香のその言葉に、日向子はゆっくりと話しはじめた。
「……葛城さんが配送センターで職員の方を気絶させた時、初めて怖くなったんです……」
それは、日向子の心からの告白だった。
「……それまではまだ良かったんです。あんな事をするなんて、人を傷つけるなんて分からなかったから……。ハロタン? を使うことだって、眠らせる薬だって聞いていたから手伝ったのに……」
美香の耳に届く日向子の声は、恐怖に震えてか細いものだった。
「……葛城さんが怖いです。そんな力を持っていることが、職員の方にやったように躊躇無く力を振るえることが……」
そして日向子はその気持ちを吐き出した。
「あれだけの人達を一瞬で倒してしまった葛城さんが、怖い……っ! それが出来る葛城さんがどんな人なのか考えると、そしてそれが私に振るわれるかもしれないと思うと、私は怖くて怖くてたまらないんですっ!」
日向子はそう言うが、しかしそれだけではないだろう。今まで悠哉と一緒に行動してきて体験したものや感情などいろいろなものが組合わさって、日向子の中で大きな一つの恐怖を形作っている。
「そういうことね」
美香は一つ頷いた。
悠哉をよく知り、信頼している美香とは違い、日向子にとって悠哉は今、よく分からない人間になっている。これをどうやって日向子に説明しよう、と美香は少し考え込んだ。……美香、美香、別に誤解解く必要ないんだぜ? 下手な説明すると美香のライバルの出っ来上っがりーーっていうはめになるぞ?
「それは仕事だからよ。悠哉だって普段はわたしにやられるような怠け者なのよ?」
「でも、葛城さんが私に向かって、それを絶対使わないと言え無いじゃないですか」
「悠哉の性格的に使わないわよ、そんなことする度胸もないしね」
「一時の気の迷いでやるかもしれないじゃないですか」
にべもない否定。これは、日向子にとって既に終わった問答なのだと、やっと美香は気付いた。
否定して、否定して、否定して、それでもなお拭う事の出来ない恐怖があるから、日向子は美香に相談したのだ。……まったく、女心というものが分かってないねぇ美香。
「じゃぁ言わせてもらうわよ」
美香は、自分の気持ちをさらけ出すように口を開く。
「悠哉はヒナの依頼を受けて動いてるのよ?」
「でも、こんな事を私はっ……」
パチンッッ!
という音が病院の待合室に響いた。
呆然とした様子で日向子は左頬に手をあて、美香をまじまじと見つめる。
「ここまで言ってもまだ分からないのっ? 悠哉は、今、あなただけの事を思って動いているのよっ?」
日向子の頬を叩いた美香は、涙ながらにそう言った。
涙。
日向子にとって、初めて見る美香の涙は、哀しさから来るものだと日向子はきちんと分かっているだろうか。
悠哉は、理解されない。
9ヶ月間悠哉の生活を見てきて、美香は心からそう思う。
今回のように依頼人を保護しながら依頼を遂行するパターンこそあまり無いが、このような泥臭い乱闘が関わってくると、どうしても悠哉は怖がられてしまう。
美香は、それがどうしようもなく哀しいのだ。依頼を完了して去って行く依頼人の目に映る悠哉に対する恐怖と蔑み。
それを何ということはない、と涼しい顔でいる悠哉を見るのが、美香は耐えられないほどつらかった。
悠哉だって依頼人に心からの感謝を聞きたいはずだ。恐怖ではなく信頼を、蔑みではなく信愛を受け取りたいはずなのだ。
それなのに、受け取れるのは恐怖だけ。それでもなお、悠哉は探偵という仕事を続けている。
「……、私だけを、想って……」
日向子がはっと気付いたように繰り返した。
「そうよ、悠哉が持っているものじゃなくて悠哉を見てあげてっ? 悠哉そのものが大事でしょうっ?」
美香の心からの言葉に、日向子も納得したようだった。
「そうか……、私が葛城さんをもっと良く知れば良いんですね……」
……だから言ったでしょ、ライバル作っちゃうかもよって。あーあ、自分から作っちゃってこの美香はー。
「そうよ、悠哉を知ればそんなことをしないって分かるはずよ」
そんなこんなで二人は楽しそうだった。




