プロローグ:路地裏の扉_1
唯白凪斗は、夜の街を歩いていた。
新卒から務めた会社を退職して一週間。目覚ましは鳴らないのに、身体はいつもの時刻に目を覚ます。昼は役所に寄り、銀行に行き、スーパーで必要なものだけを買った。寄り道はしない。夜は冷凍庫の前で立ち尽くす。やることは減ったのに、気持ちは軽くならない。空いた時間に、空白が増えただけだと感じる。
場部に食べる気が起きなくて、そのまま外へ出た。あてもなく歩いていると、駅前のコンビニから揚げ物の匂いが流れてくる。食べてもないのに、胃のもたれる気がした。……今日の夕飯は、のり弁か、カップ麺か。どちらにしても味はわかっている。選択の手応えがない。急な霧雨に濡れながら『せめて、飲み物だけでも』と、ペットボトルのお茶を一本買った。
雨は一瞬で上がったらしい。路面が白い光を引きずっていて、背中のシャツは少しだけ湿っている。地面からは雨上がりの匂いが立ち、凪斗の鼻をムズムズさせる。
ここは、いつもの帰り道。自動販売機、駐輪場、古い美容室。見慣れた並びのはずなのに、その夜は一か所だけ違っていた。
――路地の奥に、扉が一本立っていた。
昨日まではなかった。はずだ。
真鍮の取っ手が街灯をはね返し、少しだけ黄味がかった光を返している。そこから、焦がしバターのような匂いが微かに流れてくる。「ぐぅ」と空腹が反応する。理屈より先に、足が路地へ向いた。
恐る恐る触れてみると、取っ手は思ったより温かかった。捻って押すと、扉は素直に開く。
中は木の匂いがした。磨かれたカウンター。丸いランプがいくつも吊られて、光は強すぎない。棚には見慣れない文字のラベルを巻いた酒瓶が並ぶ。ガラスが触れ合う音はしない。静かだが、気まずさはない。知らない店のはずなのに、椅子の位置まで想像できた。
「いらっしゃいませ」
低い声がした。カウンターの向こうに白髪まじりの男。六十代くらいに見えるが、目の奥は年齢を測りにくい。
「ここは、異世界BAL。世界と世界の交差点に置かれた、小さな店でございます」
「異世界バル……? 何かのコンセプトカフェとか……?」
「その名の通り、でございます」
唐突な言い回しなのに、作り物の感じはない。
凪斗は苦笑して、カウンターの端に腰を下ろした。座面は少し硬いが、背中が落ち着く角度だった。
「お客様、初めてでいらっしゃいますね? お名前をお聞きしても?」
「あ、はい、唯白、凪斗です」
「凪斗君。いい名前ですね。私はこの店のマスター、ツユと申します」
「ツユさん、ですか」
水の入ったグラスが滑ってくる。氷はない。ひと口で喉がスッとした。
「お腹は空いていますか?」
「ええ、まあ。減ってます」
「正直なのは善いことです」
ツユは棚から木の器を取り出した。包丁が葉に入ったあとの、青い匂いが微かにしている。
凪斗は店内を見回した。四人掛けのテーブルが三つ、二人掛けが四つ。今座っているカウンターの席は五つ。壁際に小さな本棚。国名も地名も書いていない地図のような絵が飾られている。椅子と床に無理はない。尖った装飾もない。聞こえてくる音楽はささやかなもので、会話の邪魔にならないだろう。長居に向いた店だと思った。
グラスの水をもうひと口。胃が動き出す。空腹はごまかせない。
――退職のことを思い出す。最後の週は送別の挨拶が続いた。会社の人たちは優しかった。嫌いで辞めたわけではない。ただ、続けられないと思った。仕事の時間と自分の時間の境目が薄くなり、休日の音がどんどんと遠くなっていった。無気力で、何にも関心が持てない。ある朝、出勤の電車でふと鏡を見た。そこには、見たことのない酷く疲れた人が映っていた。だがよく考えて気付く。それは自分の顔だった。……そこで辞めた。
「あの! ここは、酒場ですか?」
凪斗が聞くと、ツユは少しだけ笑った。
「もちろんお酒は出しますし、それに合った食事も提供します。バル……と言いましたでしょう? 誰でも迎え入れる、社交場でもあります。ですが、ただの酒場ではございません」
「じゃあ、何です?」
「交差点ですよ。店名もホラ『クロスロード』ですから。世界と世界、人と人、記憶と食欲。食材と料理。そういうものが一度、同じテーブルに置かれる場所なのです」
「……はぁ」
ツユの語る説明は短い。内容が耳の表面を流れ、頭の中まで入り込まなかった。つまり、足りない感じはするが、言葉の押しつけはない。
それが、どこか心地よかった。
「そうですか」
凪斗は頷いた。わからないことがあるのは嫌いではない。解けばいいからだ。仕事ではいつも「わからない」を減らす側だった。ここでは、わからないまま座っていていいらしい。強制されないことが嬉しかった。
そのとき、小さな鈴が鳴った。扉が開いた音だ。
振り返ると、背筋の伸びた青年が立っている。蛇のような目に、耳の先は見たこともない形……ギザギザになっている。ところどころ鱗のようなものがあり、赤黒く光っている。腰の向こうに太くて長い尻尾が見えた。
「え、っと……竜人、とか? あはは、そんなまさか……」
「その通りです、よくわかりましたね!」
青年はそのままニカッと笑うと、カウンターまで寄ってきた。
ドン――と、大きな音を立てて、大きな麻袋がカウンターに置かれた。
「なかなか良いナッツが手に入りましたよ。どれも硬い殻に覆われていますが、中身は名前の通りです」
「ありがとうございます、いただきましょう」
そう言って、ツユが袋の紐を解くと、中から色も形も不揃いな物体が転がってきた。




