追憶
三木桜子は、比較的裕福な家に産まれた。
仕事が全ての厳格な父親と、夫に逆らえない母親。彼らが築いた家庭は、ありきたりだがそう呼ぶにはあまりに冷たかった。
それだけならばまだ良かったのかもしれない。
けれど、大学病院で医師をしていた父親は出世欲の塊で、その為ならば娘である桜子さえ利用するような男であり、彼女の意思が通る隙間はどこにもなかった。
そして、口に出来ないような下劣で常識的には考えられない事を、まさしく身体を使って強要された。
自分のどこにも綺麗な部分はないと思った。男に恐怖するようになるのも当然だった。
そんな桜子がそれでも父親と同じ職種で働くことに決めたのは、こんな自分でもせめて誰かを救いたいと願ったから。医師ではなく看護士だったのはささやかな嫌がらせだ。
用意された婚約者にも無反応を通したことで解消にまでこじつけ、それからというもの父親は桜子に期待しなくなってくれたことは幸いした。望んでいた地位に就けたことも大きいだろう。
そうして手に入れた平穏は、しかしながらその頃にはもう桜子を元に戻すことはできなかった。
仕事は充実し、交友関係も目立っておかしなところはない。それでも自分は汚いままで、部屋をどれだけ整頓しても風呂でいくら身体を磨いても、爪の隙間の奥深くが気になって仕方がない感覚。実際に彼女は、何度も指に到達してなお爪を切り続けて血を流した。その色だけは他と変わらず、だからそれを見ればその都度安心ができ、いつしか手首には痛みが重なって刻まれていく。
右手のひらの傷痕は、高校生の頃、発作的に発狂して窓を割った際に出来てしまったものである。落ち着いてから欠片を片付けていたつもりが、気付けば強く握り締めたままぼんやりとしてしまい、痕が残るほど深く切れてしまった。手当てはしてくれたが、母親は何も言ってくれなかった。
タクトを見つけたのは、職場の飲み会を抜けて帰る途中のこと。桜子はその時のことを運命だと思っている。
小柄な自分とあまり変わらない背丈の制服姿の子が、傘もささず雨に打たれながら歩いている光景は、喧騒の中でまるでそこだけが別世界だった。わずかに見える肌は光り輝いている気がするほど青白く、俯いていてもその顔立ちは整っていた。
一番印象深かったのは、ふと持ち上がった横顔にはめ込まれた灰色の瞳。まるでプラチナやダイヤモンドのように気品で、どこもくすんでいない。
欲しいと思った。だから衝動に任せ声を掛けてしまった。
「きみ、大丈夫?」
相手はとても驚いた様子で、視線が傘を持つ手からそろそろと移動してぶつかる。
真正面から見たそれは、最初に感じた以上の震えを生み、閉じ込めようと決めた。
雨の中立ち尽くしていた様子から、他人からでも普通ではないと容易に想像できたにも関わらず、何にも誰にも染まっていない。その綺麗さが羨ましい。嫉妬にも似た感情が全身を走った。
「迷子……なわけないよね。家出でもしたの?」
相手が不純な想いを抱えているなど知らず目を見張る。桜子に浮んでいた満面の笑みは、獲物を捕らえた獣だったというのに。
そうやって出会った少年がタクトと名乗ってくれるまで、しばらくの時間を有したけれど、それまでの間でも桜子は与えることに躊躇はなかった。その分、これから惜しみなく返してくれれば良いのだ。離す気は声を掛けた瞬間で跡形もなく消え失せていたのだから。
優しさも施しも、当然ながら女だって知らなかったタクト。今まで散々、桜子を穢してきた行為をもって初めて迎えた夜は、それはもう楽しかった。
何度やめてと叫ばれただろう。心をわし掴んだ瞳に涙を滲ませ、襲いくる感覚に恐怖を浮かべ。たとえ歳にいくらか差があろうとも、男であったのだから抗えないわけじゃなかっただろうに。それでもタクトは、桜子を数々組み強いてきた者達とは違い、彼女の意思を望んだ。そう――かつての自分のように。
本当に綺麗だった。その日から部屋に留まり生活を始めてくれたタクトは、なにをするにしても自分とは真逆に見え、言い様のない情が芽生えた。それを愛情と呼ぶのだと信じて疑わなかった。
身体は傷だらけで、しかも一生癒えることはなくて、心だってそうだったにも関わらず。
どうしてなのだろう。どうしてこうも自分とは違うのか。考えて考えて、強要されてきた理不尽の差だと思い至り、だから桜子は抱きつくす。抱いて、抱いて、その上で自分の色に染めるため、タクトがこれまで受けてきた痛みさえ上書きした。
どんなことをされても口だけで拒み、受け止めてくれていたタクトであったが、煙草だけは苦手な様子だった。理由は尋ねずとも分かってしまう。だから無理やり味を覚えた。そして強いた。
にもかかわらず、タクトは汚れるどころか愛くるしく変わっていく。好きなことを覚え、表情を知り、桜子を見る。出会った頃から微塵も失われない瞳を持って。
気付けば啼くのは桜子の方になっていた。今にも壊れそうな繊細さを醸し出しながら、感じさせてくる手つきはとても荒々しく、その二面性が余計に極上で。溺れていく。
でも――それでも、たくとはやはり綺麗なまま。そして自分は汚いまま。
一体何が違うというのか。息苦しいはずなのに、痛いはずなのに。内側からでは鍵にもならない鍵があるだけの扉を越えるどころか近付くことすらせず、毎朝仕事に行く桜子を見送り、薄い微笑みを浮かべて出迎える。
食事を用意してくれ、献身的に尽くし、夜はいつまでたっても満足しない桜子に合わせ額に汗を流す。それの繰り返し。
桜子はふと気付いた。まるで犬みたいだと。尻尾を激しく振ることはないけれど、かといって猫のように腕をすり抜けてお気に入りの場所で眠ることもしない。
だからある日、口にした。
「タクトはペットみたいだね」
「ペット?」
「そう。ご飯さえあれば十分で、でも外を知らないから一人じゃ生きられない。まるでペット」
そう言って笑ってみると、タクトは憤ることもなく「そうだね」と返し、あろうことか嬉しそうにしていたのだ。少なくとも桜子にはそう映り、その姿にまた綺麗だなと思った。
きっと彼は裏切らない。忠実に慕ってくれる。縛っているはずの外に出るなという約束すら、疑うことなく受け入れているのだろう。ここしか居場所がないのだから。
ただ、その姿で余計に自分が汚い存在であると自覚せずにはいられなかった。そして気付けば仕事場から、薬を一つ盗んでいた。万が一バレたとしても、父親の威光は職場にまで届く。その考えもまた、桜子が嫌って疎んでたまらないはずの自分を映す鏡そのもの。
「足りない、全然足りない」
だから、そういうことなのだと信じるしかなかった。
もし桜子が、自由を知った後のタクトのような人物と知り合えていたならば、本当の意味で彼女を想える人と出会えていたら、きっと綺麗な人間などどこにも居ないと教えてやれたことだろう。
しかしながら、手の届く範囲には一人もおらず、そうして満足できない女がぽつんと立つ羽目になる。
唯一、タクトという存在だけが桜子に希望を与え、生きさせてくれた。彼本人は何もしないまま。
過去を聞かなかったのは、聞かれるのが怖いからだった。話せないのは、綺麗なタクトを父親たちに汚されたくないから。あくまで彼を染めるのは、自分だけが良い。
そうやって年月は過ぎていく。恋人などという関係は欲さず、けれどもいつしか愛情を求め、乾いた状態が続き。
変化の兆しが見えたのはその頃だ。飢えるがまま叫ぶと、タクトが苦笑を浮かべるようになった。
拒絶するかのごとく口を塞ぎ、翻弄して逃げる。押し付けて、遠ざかり、けれども傍からは離れない。
どんなことに対しても、気付けば器用にこなしてしまうタクトらしいその行動に呟かずにはいられなかった。
「ズルイよ、タクト」
一緒には居てくれるのに、けして同じ所にまでは来ても分けてもくれない。その狡さが愛しい。すると視点は激変し、気付けるようになった。
タクトの行動は逐一、桜子を考慮されている。自分がコーヒを好きだと言ったから、わざわざ道具をねだって腕を磨いた。どんなに本に没頭していても、声をかければ必ず顔を上げ、「どうしたの?」柔らかな声で尋ねてくれる。どのきっかけにも自分が居る幸せ。
タクトを攫った日から、桜子の雰囲気が変化したことを普段を知る人は気付いていて、時折その理由を尋ねてきたけれど、彼女は誰一人にもその存在を教えたことはない。
そして、周囲が穏やかなことで、タクトが奪われる心配もする必要はなかった。
おかしい思うとすれば、それは本人だけなのだ。しかしそのタクトでさえ、最も好きな瞳は盲目。彼を知るのは桜子だけ。
ならばもっと、もっと。もっと愛して、愛してもらおう。逃げ場はどこにもないのだから。
「桜子さんの声は綺麗だね。肌も、触っているだけで気持ち良い」
そう言ってくれるあなたが誰よりも綺麗。でも、嘘。熱を持って囁かれる言葉を作る唇だけが、タクトにとって唯一の潤いを失っている場所だから。
「愛してるよ、タクト」
「僕も愛してる」
欲する答えを敏感に察し、口にしてくれるそこに想いはない。
ただ時間だけが過ぎていく。朝が来て、夜を迎え、重なり合って陽射しを浴びて。混ざりはしても溶けることは出来ずに終わる。
その全てを、本心が込められた小さなビンだけが見続けた。
しかし一度だけ、桜子が盗んだとき以来手に取ったことがあることをタクトは知らない。
それは二人の関係が二年目を過ぎた頃だっただろうか。桜子はタクトを置いて、趣味の散歩に出ていた。
陽射しは高い位置から降り注いでいて、週末ということもあり人通りは比較的多かった。それとは逆でお気に入りのコースは人気が少なく、だから表の性格としてはおっとりとしている桜子でもその視線に気が付けたのだろう。
道の脇で真っ直ぐ強く、彼女を見ていたその人は、通り過ぎる瞬間を見計らって声をかけてきた。
「こんにちは、良い天気ですね」
見事に着こなされた着物は上質で、妖艶というのが相応しい女性だった。到底知り合いにいるとは思えない人。見知らぬ相手へ挨拶するような気軽さは感じられない。
「そうですね」
だから桜子は、一応言葉を返しながらも首を傾げた。
するとその女性は微笑みながら一歩前に出る。
しかしその目には、明らかな敵意があった。おもわず逸らすと、前方には黒塗りの車が止まっている。
そして、口にされた名は恐怖を呼んだ。
「あなた、タクトという子をご存知?」
大事な大事な愛しい人。それは桜子だけの存在でなければならなかった。




