飛翔
淡い色のレースのカーテンが秋風にゆらゆらと揺れ、そこを透けて空の色が部屋を彩る。
外からは絶えず電車の通過する音や踏切の警告音、車の走る音が届いていて、その刻に相応しい情景を見事に表現していた。
「はい、どうぞ」
ベッドにもたれかかりぼんやりとしていた桜子へ、タクトがマグカップを渡す。
手に伝わる温もりにホッとしたのも束の間、一人足りないことに気付き桜子が周囲を見渡した。
「あの子は?」
「玄関にいるよ」
答えに眉を顰めるも、タクトは笑うだけだった。さらに浮び方が今まで見たことのない冷ややかさだったため、今度は彼に視線が縫いつく。
するとゆっくり、タクトは小さなビンを取り出した。
それはいつからか桜子の化粧品と並んで置かれていたが、到底一般家庭にあってはならない代物で、ましてや使用していいものでもない。
だというのに中身は空。上を向いていた視線が手元へと落ちる。
「使用法が違うけど」
「無害にならなければ構わないよ」
のぼる湯気もたつ香りも変わらない。しかしタクトは否定しなかった。中身が既に混ざっているのだ、渡されたコーヒーの中に。
思えば大分、タクトの腕は上がった。それこそ専門としてやっていけるほど。始めは中々にひどい味をしていたことが懐かしい。
「あなたが死んでくれるなら、なんだって良い」
そしてなにより、そんな言葉を吐けるようになったことが嬉しかった。
一人で生活する術の他は何も知らず、表情すら一切浮かべなかったというのに、共有した時間の中でこんなにも変化した。
桜子は驚きカップを放り投げることなく、それどころか感嘆の息を吐きながら顔を綻ばせた。
むしろタクトの方が怪訝に眉をひそめる。
「どうして?」
さらに、その問いで疑問を抱く。
「どうしてそんなことを言うの?」
分かっているくせに。繰り返された質問へ言い返しかけ、床に座る桜子の前へ屈む。諦めたように首を振った。
「桜子さんはおかしいよ」
「今さらな話でしょ」
「それを僕は昨日知ったんだ」
桜子が攫ってきた小さな子供を見たその瞬間、タクトはそれに気付いた。
四年という歳月は、時間のみでみても十分に重い。ましてやタクトの場合、思春期と呼べる時期を1DKの狭い部屋で桜子のみと接して過ごした。
そうでなくとも彼は、その人生でとてつもなく偏った人間としか知り会えていない。
だからこそ分からなかった。自分は弱味に漬け込まれていたことを。
「あの子はだめだよ、桜子さん」
「だから私を殺すの?」
「そうだよ。僕がこの部屋から出るためにも」
ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離は、けれどタクトが動かないせいで縮まらない。彼がそう望んだことで、二度と交わることがなくなった。
桜子は口元へカップを持ちあげ、息を吹きかける。その様子にタクトが喉を鳴らした。
それは恐怖からだったのか。桜子しか見抜けない範囲で表情が強張った。
「こんなにも愛しているのにタクトは出て行くのね。でも、それだけだったら、なにも私がいなくなる必要はないよね」
「それは……」
「教えてくれないと飲んであげない」
鳥のさえずりのように小さな笑い声を漏らし、桜子は腕を下げた。
外では刻々と夕陽が色を濃くしている。
「僕が……」
「僕が?」
「そうしないと、出ていけない」
そう言った時のタクトに、自分がしている行いに対する躊躇はなかった。
しかし、桜子を見つめる灰色は廃墟のごとき寂しさを映し出し、その心情をありありと相手へ伝える。
だから原因たる人はまた笑う。
「なんだ、こうすればよかったのね」
泣きそうなタクトに桜子は言った。
そして、なんの躊躇もなく元から普段より温かったコーヒーを一気に飲み干す。
目の前で彼女の大切な愛しい人が息を呑んだ。
「待っていて、すぐ着替えるから」
「っ! 桜子さ――」
とっさに伸ばされた手をひらりとかわし、桜子は平気そうにクローゼットへと向かった。
しかし、動作はすぐにぎこちなくなり、足元もおぼつかなくなる。
それでも彼女は恥らうことなく下着姿になると、大事にしまっていた服を着た。
またしてもタクトが驚きに固まる中、支度が終わり振り返った姿は、四年前彼を救い出した優しいお姉さんそのものだった。
「ベッドに寝かせてくれる? こけそうだから」
「桜子さん……」
「早く。私だけが知るタクトの場所に居たいの」
桜子からのお願いをタクトは断れない。彼女でなくともきっとそうだろう。そういう男性だと知っている。
やおら立ち上がり、腰に手を添えた。小柄な身体をベッドに沈めれば、力が一気に抜けていく。薬があっという間にそうさせた。
「タクトのせいだからね」
長い指が特徴な手と傷と指輪が印象的な手を繋げたまま、タクトは傍らに跪いた。
表情の乏しさを補うかのように、その時々で変化する体温が今は冷たい。反対に、タクトの持つ温もりを吸い取るかのように、桜子は温かさを増していた。
髪を、頬を、出会いの雨に代わって夕陽が飾る。
「タクトが愛してくれさえすれば、こんなことにはならなかったのにね」
「だからって、あんな小さい子を」
「自分は良いって? じゃあなんで止めてって何度も言ったの。私は足りなかったのに」
この部屋で最も二人が濃い場所。そこに横たわりながら桜子は責めた。
タクトが苦笑する。答えても、もはや一時凌ぎでの満足すらさせてあげられそうにない。
「タクトはずっと綺麗だね。何をしても、されても、綺麗だった」
「あなたは汚い。僕は助けてもらったと思っていたのに、そうじゃなかったんだよね」
まばたきの早さが緩慢となり、視線が揺らぎ始めた。
その姿を静かに捉える瞳は何も映していない。
けれどもどこか眩しそうだ。お互いの雰囲気が混ざり合っていく。
「でももう、タクトの方が汚いよ。ズルイ。自分だけ、私を置いてく」
「それでも僕にとって桜子さんは綺麗じゃない。今はまだできそうにないんだ。だって、感謝してたのに。ここしかなかったんだよ?」
「捨てられたくないから捨てるなんて、ズルイね」
桜子の溜まった雫がとうとう溢れ頬を伝った。
いくらタクトが強く手を握っても返ってくる力はなく、そして最後だというのに欲するものも出てこない。
あるのはただ、これで良かったのだという満足感だけだった。
「愛してる」
そして、夕陽を反射させる透明な涙を流しながら、桜子は淀みなくその言葉を口にした。これまでの思い出に対する全てと、これから訪れる安らぎへの期待を込めて。
焦点の定まらない視線で、それでも必死にタクトを見ようと頑張る彼女の姿はとても美しかった。
身体の横で投げ出されていたもう片方の手がふらふらと彷徨い、タクトの頬に触れた。本当に嬉しそうに笑うから、つられて笑ってしまう。
常に短く切り揃えられ、休日だけ色鮮やかに変貌していた爪は、けして肌を傷つけることなく眉や鼻筋、まぶたにまつげと移動し、右往左往してから唇へと辿り着く。どれだけの数、キスをしてきただろう。舌を絡め、肌を舐め――
おかげで唇は乾燥してばかりだったというのに、僅かたりとも分かち合うことは出来なかった。
「愛して……?」
「あなたが満足することは一度だってなかったじゃないか」
それでも強請り続ける桜子はもう、今のタクトを見ていない。
まなじりからこめかみ、輪郭を伝って首を流れる涙の中には、いつのどんな彼がいるのだろうか。
初々しく快楽の一切を知らなかった少年はもうどこにもいないのに、桜子の視線はあの頃からまったく変わらない。
狂った呼吸音が揺れる。笑ったつもりでも、それすら出来なくなっていた。
「愛して、る」
「うん」
「愛、して、る?」
「うん」
「あ……い……」
「うん、だからもう」
壊れた機械のように同じセリフを繰り返す相手へ、タクトもまた中身の入っていない相槌で答えた。淀みなくそれだけを求められ、受け取らず透明にしてしまう。
ただ、夕陽に照らされながら弱っていく姿は、これまでで一番愛しさを募った。今ならば、今だけは、いつもと立場を逆にもう止めてと叫ぶことすらできなくなるまで愛せる気がした。
だがそれは、あくまで身体だけ。それだけでは足りない。桜子が求めていたのは、もう一つの形も存在もあやふやなものだから。
タクトは頬を拭ってやりながら、そっと、本当にそっと耳元で囁いた。手が舌に変わり、涙を舐め、虚ろな瞳を閉じてやる。
僕があなたを綺麗にしてあげるから。だから――死んで?
「――わ、かっ……た、よ」
とても清らかな声だ。タクトを信じて疑わない。
そんなこと出来るはずがないというのに、それでも彼を一番理解しているのは桜子だった。
ずっとずっと、もしかしたらこうなることを望んでいたのだろうか。色々なことを分かち合い、まっとうに進む術はどこにでもいつにでもあったというのに。それでも二人は別れを、こんな形で選んでしまった。
ゆっくりと弱々しく桜子の頬が上がり、それから下がるのを寄り添っていたタクトは感じた。静かに呼吸が落ちていく。
一転して霞んだ声が「待ってるよ」そう伝えたのが最期だった。
それきり桜子は反応を示さず、ほぼ消えかけながら胸を動かしていた。
「うん、待っていて」
タクトも最後の言葉を贈り、しばらく動かず揃って夕陽を浴びる。
窓では肌寒さを感じさせるひんやりとした風がいまだカーテンを揺らし、帰路に着く人々が奏でる外の音を届けていた。カラスが必死にこの一室の異変を知らせようとしていたが、それは無駄な努力だった。
タクトが顔を上げ、横たわる桜子を見た。出会った時の服に、柔らかく緩やかな髪。たった一度だけ心から楽しめた、出会い、デートをした夜の姿がそこにはある。彼女はまだ不思議な優しいお姉さんで、彼は女も知らない綺麗な少年だった。
しかし、と自分の手のひらを見つめる。身体そのものも心もあの時から雰囲気を変え、二人の関係は終わった。
タクトは自由だ。母親に捨てられた絶望を突き、部屋に縛った人はもういない。
そして桜子もまたそう。彼女はずっと苦しんでいて、やっと解放された。満足のいく形で。
「いつかまた、会いに行くよ」
立ち上がり、自分の行いを目に焼きつける。
まだ眠っただけの桜子は、この後、夕陽が沈み月が出て、朝日が昇ったら目覚める気がするほど穏やかだ。そんなわけはないと分かっていながら、そうかもしれないと思ってしまう。使った薬がどんなものなのかは教わっていたが、タクト自身には知識がない。
だから願う。このまま警察が押し入ってくるまでに、一人で静かに朽ちていってくれることを。
どちらにせよ、タクトの中にはもう桜子はいない。必要ない。
そうして踵を返すと、必要な箇所、最低限の物から指紋をふき取り、小さな鞄一つで事たりる痕跡を持って、四年間しまわれていたたった一足だけの靴を履く。予想はしていたが、やはり踵を踏まなければならなかった。
それでもタクトは思わず声を漏らした。
どうやら自分はちゃんと生きていたらしい。ずっと止まっているから不安だった。鏡を見ても、桜子を抱いていても。なにもかもが産まれた時から変わった気がしなかった。
桜子から教わった自分が正しく自分で、そしてこの先もそうでいられるかどうかは分からない。
だからこそ、今日こうして扉を開けるのだろう。金属音が響きくと光が差し込み、真正面に赤い空が広がった。
四年間、窓越しで見てきた景色。雲が浮び風が流れ、鳥が羽を広げるあたり前な風景がそこにはあった。
「お待たせ」
「おねぇさんは……?」
できることなら感情のまま泣き、この感動をじっくりと味わいたい。
けれど、玄関前で大人しく待ってくれていたもう一人のタクトが服を掴んで問いかけてきたため、微笑んで安心させてあげなければならなかった。
「お姉さんは疲れたみたいだから、僕がかわりについていくよ」
そう言って小さな手を握ってやる。
サイズの合わない靴はとても歩きにくかったが、それでも何も知らず笑う子のために歩きだす。
桜子がさらってきたその子は、たった一日三人で過ごした間で見違えるように清潔になり、痛々しい身体はしっかりと手当てされていた。
その全てが桜子の手によるものだ。だから彼女に囚われてしまわないよう、おのずと足取りは速くなった。
この子もまた、かつてのタクトと同じく純粋に、ただ助けてもらえたと思っているだろう。たしかに救ってはいる。
だからってダメだ。何もかもが早過ぎる。失うのも奪うのも、得るのも与えられるのだって。自分みたいになってはいけない。させてはいけない。
会った瞬間に溢れたそんな考えがきっかけだ。けれど、タクトこそが小さな自分に助けてもらえていた。
この子が連れて来られなければ、きっとタクトは部屋を出られないままいつか桜子に捨てられ、今度こそどうなっていたかわからない。
だからその感謝を込め、彼は目的地近くに来た時、一枚の小さな紙切れを持って当時の幼い透の前にしゃがんだ。
「教えたこと、覚えてる?」
「うん。おかあさんのことをはなす」
「そう。そして、お姉さんが書いた手紙を警察の人に渡すんだ」
「そしたらもう、だれもいたいことしない? おねぇさんみたくたすけてくれる?」
「きっと、必ず。ただ、もしまたお家に帰らなきゃいけなくなって、君が逃げたくなった時は――」
「ときは?」
桜子にもタクトにも何の疑いもなく信頼を寄せ、見上げてくる大きな瞳。その美しさと桜子がさきほど見せた涙に差異はなかった。
続く言葉を待って首を傾げる姿におもわず、おずおずと頭を撫でてしまう。細くさらりと流れる髪から頬へと手が移れば、そこにはガーゼが貼られている。
処置を施す手付きは優しかった。服に隠れた身体の隅々まで、とても手際が良かった。その様子が浮び、ひっそりと唇を噛み締める。
そしてタクトは、その時の彼にできる精一杯のことをした。
「このアドレスに連絡を。ただし、誰にも教えてはいけないよ」
「わかった」
できることならこの子が、これをよすがにすることなく戻れるよう願いながら。
ただし、隠すように紙をしまう姿に安心は浮ばなかった。
「ほら、行って」
「おわかれ?」
「うん、お別れ。約束だよ。お姉さんの手紙を必ず渡すこと。それと」
「おにいさんのことはゆっちゃいけない」
賢く力強い言葉へ良く出来ましたと微笑めば、無垢な笑顔が返ってくる。
それは桜子が魅せた最期の微笑みと、とてもよく似ていた。
「さあ――」
「うん!」
そっと背中を押せば、かすかに見える交番の前に立つ青い服に身を包んだおじさんの元へその子は走りだした。
その手には、内容とそぐわない可愛らしいデザインの便せんがある。桜子が残した最後の声が。
おかしくて聡い、賢いくせに馬鹿な、優しくて残酷だった女性。
「だから仕方ないよね」
見送ることなく別の道へと進みながら、タクトは呟く。
小さな背中に思った。
拾われたのは自分が先で、拾ったのはあなただ。なら最後まで責任を持たなきゃいけない。いつかの夜、桜子は言ったのだ。まるでペットみたいだと。そう言って笑っていた。
そうして彼女はペットのように彼を愛でた。
「そう……、だからだよ」
だからタクトは、愛してると笑った桜子へ、無情にも死ねと囁いた。
さらには約束を。狂ったように綺麗になりたがった彼女へ、拾ってくれた感謝と汚した憎しみを込め、代わりにそうしてやるからと。
とはいえ一体何年かかればそれができるか分からない。方法すら見当がつかない。
それでもその約束があれば、一先ずは居場所がないままでも生きていける気がする。
「ああ、ホントだ。たしかに僕はズルイね」
他人ばかりを理由にして、自分一人で頑張ろうとしないから。
そうやって自嘲しながら、タクトはとりあえずこれからのことを考え、桜子のいない世界での生き方を、まずは靴を買うところから始めようと決めた。
それから成長した透と出会うまで、桜子と過ごした時間と同じぐらいを夜に溺れることをまだ知らず。その時のタクトはただただ、胸に広がる悲しみと解放感を刻んだ。
そして彼は唯一、桜子の最期だけは誰にも語らなかった。透にさえだ。
これだけは自分だけのものとして、囁かれた愛を否定し続けた。
桜子には与えることができなかった自身の愛を見つけてからも、ずっと――




