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そして僕等は夜に溶ける  作者: 林 りょう
LAST CASE《とある逃走犯の場合》
31/44

再会



 小さい――

 確かに人生が転換した日、そのきっかけと出会い最初に感じたのは、今ではあっさりとしすぎて味気ないものだった。

 何度も絡め握った手が繋いでいたのは、触れるのが戸惑われるそんな存在で、そして初めて理解出来ないと思った。

 頬はうっすらと青く、動きはぎこちなく。それは自分にもよく覚えがあり、けれどとても稚拙に見える。頭が悪いと笑いながら、怯える瞳と向き合った。

 その嘲弄が誰に対するものだったのか。そんなのは決まっている。当時の自分でも抱き締め隠せるほど小さな身体と心を、壊そうとした相手だ。そして、こんなにもあからさまな痛みの形を無視した周囲。

 助けを叫ばなかったことを、なぜ出来ないのだと分からないのだろう。たった一度の抱擁で、頭を撫でるだけで、全ての苦しみを許容できる優しさの固まりが、自分のされていることの意味を理解してしまえば、それは世界の崩壊に繋がる。

 狭い空間で身を寄せ合った彼らは、それぞれ形は違えど皆同じだった。

 だから当たり前に手を伸ばせた。

 傷痕のある手が背中を押す。向き合う一人が両手を広げて膝をつく。そこに温かみのある笑顔はなかったけれど、迎えられた子供に対して心があった。


『おいで』


 抑揚はない。言葉はただの糸口で、彼は動かなかった。

 一歩下がった場所でその光景を見つめていた彼女が、その時何を思っていたのか。それを知るのは本人だけだが、終わることと始まりはきっと紙一重なのだろう。喜びと寂しさがない交ぜとなった感情が、ひっそりと全身を震わせた。

 彼女は静かに眺める。ゆっくりと全身を預け、受け止め、別々の存在が繋がる姿はとても美しかった。涙が出るほど切なかった。

 そしてその夜、一つ増えた寝息に隠れ囁いた。


 ――ねぇ、タクト。君はどう思った?


 答えは返ってこない。まどろみの最中、それでも律儀に伸びてきた手は、今までそうしてきたようにそっと髪を撫でてくる。

 けれど声は生まれない。


 ――私はね、綺麗だと思ったよ。


 彼女は言葉を続け、二人の間にある小さな身体を優しく叩いた。安心して眠れることを、そのリズムをもって繰り返し伝えた。


 ――明日は三人でご飯を作ろうか。


 ふと零れた笑み。逸らした視線を元に戻せば、潤んだ深切みの欠けた、そのくせどこまでも澄んだ灰空が少しだけ覗いていた。


『寝れ、ない……の?』


 曖昧な意識のせいか舌足らずで幼く、可愛らしい。その声が、時に熱く苦おしく翻弄するのだと、一体誰が思うだろう。

 もがく事すら忘れて溺れ続けている姿はどこにも見られない。

 手を移動させて頬を撫でてやると、猫が擦り寄るように嬉しそうに目を細めてそのまま落ちていく。

 だから彼には聞こえない。彼女が唯一表に出した本心が。


 ――ズルイよ、タクト。


 朝はあっという間に訪れていた。

 三人で迎えた最初で最後、彼女にとって終わりの日は少しだけ肌寒く、空が青々と澄み渡っていた。




 □□□




 今が夏で良かったと思いながら、透は小さな公園の遊具の中で目を覚ました。

 ひたすらに港を目指しての逃走劇が始まってから、二晩を過ぎた。電車を乗り継ぎ、時には歩き、人の目に怯えながらの時間は精神的な疲労を濃くする。

 時間を確認すれば腕時計は朝の六時を過ぎたところで、溜め息を吐きながら頭を起こす。

 現実逃避をしたいわけではない。そうでなくとも、枕代わりにしたせいで少しへこんだバッグや、手元から消えた携帯がしっかりと訴えてくる。記憶など、冷静になったことでより鮮明さを増していた。

 けれど、やはり罪悪感は湧かないままで、逃げる気も失せていない。

 ぬるくなってしまったペットボトルの中身で喉を潤し、ポーチから鏡を取り出した。そこに映る自分は、やつれるどころか最近で一番目に力があるように思える。固くなった身体に唸りその場から這い出れば、朝日はとても気持ちが良かった。

 殺人犯の気持ちは、自分がまさしくそうなった今でもあまり分からないように思う。透はただ自分を守っただけだった。子供の頃には出来なかったことをしたまで。ただ、それが相手を殺してしまったことこそがとても幼稚で――運が悪かった。


「今日の昼には着けるかな」


 透はまだ知らない。養父の死体を旅行に行っていたはずの母親がすでに見つけていたこと。しかもそれは、彼女が逃走してそう時間が経っていなかった。

 なんでも連れの女性のまだ幼い子供が熱を出し、面倒を見ていた夫から帰ってきて欲しいと頼まれたそうだ。透が詳しく理由を聞いたなら、なるほどと納得したことだろう。彼女の母親は、一人が嫌いだった。一緒に帰って来たとしてもおかしくはない。

 入れ違いともいえるその差は、はたして幸運だったのだろうか。透が苦笑して考えるのは、全てが終わってから。この時はまだ、何も知らず暢気に朝の街を歩き始めていた。

 目的とする港には、ぎりぎりまでバスを使ったとしても二時間は歩くだろうか。今の家に移り住む前、海が見たいと一度だけ中学生の頃にわざわざ行ったことがある場所だった。

 コバルトブルーが広がるどころか緑色をしていて底は見えず、お世辞にも綺麗な場所ではないし、縁やゆかりが強いわけでもない。だから選んだとも言えるが何もない所だ。

 メールを送ったのは一昨夜。もしすぐに見てくれていたならば、身捨てられてしまっただろうか。それだけが怖い。そうでないなら、一体どれだけ待てばいいのだろう。六年もの空白があるというのに、来ないかもしれないという不安は、無視できないほどには感じるがそれほどありもしなかった。

 何も知らない周囲は、徐々に朝の喧騒を強くしていく。ガラス越しに見た自分の姿が家出少女そのもので、透はドキリと足を止めた。

 昨日はまだ、知られていないと思うことができた。

 しかし、今は違う。それぞれの日常を謳歌する為、足早に何人も透のすぐ横を去って行く。

 急に恐ろしくなる。もしこの状態で声を掛けられでもすれば、動揺して怪しさはより増すだろう。

 バッグも捨てた方が良いだろうか。悩み始め立ち尽す姿こそ不審だと気付いたのは、すぐのことだった。


「とにかく今は、港に行こう」


 下がる肩を気を取り直して持ち上げる。途中で何度かコンビニに寄り、持てるだけ飲み物と軽い食べ物を買う。それからしばらく、ぎっしりと人が詰め込まれたバスに揺られた。

 まるで冒険をしているようだとはさすがに思えなかった。

 ただ、それでも楽しみではある。温かい手にまた会えそうなのだから。

 虐待を受けていた日々では、人の目を警戒する今とは真逆で、周囲は誰も透に気付いてはくれなかった。頬や腕の痣は堂々としていて、まるで子供らしくなかったと自分でさえ感じるのに、その異変を感じる大人はいなかった。

 当時の自分は何故、助けてとたったの一言が叫べなかったのだろう。それでどうにかならないことを実感したけれど、何もせずジッと耐えるだけだった。痛いから泣くぐらいで、母が怖くて、でも――

 そうか。透は熱気で湿った窓に頭を預けてそっと呟いた。

 それでも母しか居ないことを、ちゃんと分かっていたのだ。だとしたら、子供はなんて賢い生き物なのか。十ヶ月もの間、温もりどころか全てを分けてくれていた母親が作る苦しみは、なんて残酷なのだろう。

 大人はおおきい。倍以上の手が振り下ろされる迫力は凄まじく、透は未だ突然の衝撃に驚きより怯えが来る。

 もうしばらくすれば、テレビや新聞で過去を持ち上げられたりするのかもしれない。それを想像していい気味だと笑えば、さらに餌を蒔くようなものだ。

 調べたらきっとすぐ分かる。透は一度、母の手を離れて施設で過ごした経歴があった。それ以降だ。良い母との生活は。まるで学校へと迎えに来たように家へ戻った。

 そのきっかけこそが、透にとってかけがえのないものであり、こうして縋る唯一となったものだが、外聞としては誰もが正反対に思うだろう。

 友だちも作れず、一人寂しく家の近くでブランコを揺らしていたところで伸ばされた、指輪が二つ光る傷のあった手。美人だけれどどこか不思議な空気を纏ったその人の微笑みは、死んでも忘れたくない。

 恥ずかしい挨拶から始まり、一人なのかと聞かれた。だから頷くと、彼女は何の気なしに言った。


『だったらお姉さんと一緒に来ない?』


 恐る恐る差し出された手を握り返す。この人は母とも、周囲の大人とも違うと思ったから。


 そして透は――誘拐された。


 その時のことを母は一切語らない。透もだ。

 そもそもとして、あれは助けだされたのであって、けして誘拐されたわけではない。けれど、保護してくれたおじさんも、事情を聞いてきた女の人も、警官はこぞってあの人を悪者にした。

 六年も経った今では、所々おぼろげで感情によっていくらか書きかえられているだろう。それでも、寄せられた同情はとても気持ち悪かったのを覚えている。

 透はバスを降りてから、ただひたすらに歩いた。一度だけ通った道を黙々と。

 中学生の自分が海を見たいとおもむろに目指したのは、虚しさが急に来るものではないからかもしれない。

 うだるような暑さから額を流れる汗に苦しめられつつ、透が目的地へと到着したのは、昼を過ぎ夕方にさしかかろうとしていた時間だった。


「どっか、隠れる場所……」


 達成感よりも疲労が濃い。バッグを地面に置いて周囲を見渡す。

 元々寂れていて人気は無く、船は動くだろうが海へ出ているのか疑問だ。透は港の奥にあった、倉庫のような建物の後ろを待つ場所と決めた。

 そこに座っていても海はしっかりと眺めることができた。コケを溶かしたような濁った色でも、波はあるし潮風を吹かせる。

 綺麗だとは思えない光景だけれど、穏やかではあった。


「時間を潰すのが大変そう」


 ここまでの間、考え事を多くしつつも急ぐ気のおかげで時間はあまり感じなかった。正直手持ち無沙汰だ。口の中で飴を転がし膝を抱く。

 家を出てすぐ適当な駅で捨てた携帯には、今頃どんなメールが入っているだろう。どうせなら、養父の死んだ状況が外に漏れていればいい。そうすれば少しは報われる。

 さざ波の音に誘われふつふつとわいてきたのは怒りだ。なのに苦しくて、今になって泣けてくる。

 しばらく、無人に見える港では、密かなすすり泣きが響いていた。

 そのまま透は寝てしまった。カモメの鳴き声に導かれ見た夢は、昨日から延々思い出される過去の情景。

 助けてくれたあの二人は、恋人だったのだろうか。何かを教わったわけでなく、知らないことばかりだ。それでもとにかく、三人で作った昼食はとてもおいしかった。

 ピーラーを使って必死に野菜の皮を剥く透の隣で、青いエプロンが似会う男が包丁を持つ。少年と呼ぶには大人びていて、かといって青年にしては幼さが残った彼の腕は、細くてもしっかりと彼女を抱き上げてくれる。たった一日で、意味なく何度も。

 ふわりとした髪を一つにまとめた女性は、彼の隣で食材を炒めながら鼻歌をうたっていて、ときおり透の頭を撫でてくれる。

 どうして二人の子供じゃないのだろうと、その温かさに触れながら思った。どうして赤の他人の彼らに出来て、母には出来なかったのだろう。自分が悪かったのかすら、知ることも諦めた透には見当のつけようがない。

 思い出して考えるだけ、泥沼にはまるようだ。

 だから、遠くで聞こえた音に気付いて目を開けた時も、気分は最悪だった。


「………………車?」


 どれだけ寝てしまったのか、周囲は真っ暗で頼りになりそうな明かりもない。一瞬どこに居るのか困惑しかけた。だがそれは、潮の香りが落ち着かせてくれる。

 暴れそうな心臓を押さえつけながらゆっくりと、物陰から覗く。

 飛び込んできたのはヘッドライトだった。まだ距離があったおかげで眩しさに目を痛めず済んだ。

 普段聞くエンジン音とはまた違った、映画でよく使われるような車に思える。

 安易に飛び出したりはしない。ただひたすらに、ジッと待つ。

 顔を引っ込め、息を殺した透が隠れる倉庫の手前で、突き当たりだと分かったのか車が止まった。

 ドアが開く。足音がする。

 明かりで生まれた人影に悲鳴を挙げそうになったけれど、それは一見して透のものではなかった。

 まさか、本当に来てくれた。でも、まだ分からない。グルグルと思考が回る。

 声を聴きたい。連れて来てもらった場所で迎えてくれたあの日のように。

 流しても流しても枯れることのない涙を堪え、透は重ねた手の甲に爪を立てた。

 そして止まった足音。それはすぐ隣からした。


「ああ、見つけた」


 強い力で手を押し付けていたせいで、呑んだ息は微かにも空気を揺らさない。

 見開いた目で相手の姿を捉えたのと、彼が口を開いたのは同時だった。


「おいで。久し振りだね」


 驚いても、怒ってもいない。急かすでもなく、強いるでもなく。淡々とした冷涼な声は、それでもいつだって優しく響く。記憶の中と同じく、今も変わらずそうだった。

 見上げる透の視線の先で、長めの腕が左右に広がる。スラリとした足が躊躇なく地面で膝を折り、灰色の目とぶつかった。


「来て、くれたの?」

「約束したからね。君も守ってくれただろう?」


 身体から力が抜けたのは安堵からか。それとも、思い出の中よりもさらに格好良かったからかもしれない。

 能天気な自分に呆れ、ぎこちなく笑う。

 彼はもう一度、ゆっくりと静かに言った。


「おいで」


 あの日と違ったのは、相変わらず青白い顔に表情があったこと。

 その笑みがあまりにも儚く思え、これまで重ならなかった期間の大きさを実感しながら、透は腕の中へと飛び込んだ。


「うあああっ――――!」

「もう大丈夫」


 その言葉には、不思議なほど安心できる。

 ごちゃごちゃな感情のまま泣く透を抱きしめた手は、頭と背中を支えてくれていた。


「それにしても君、女の子だったんだね」


 二度と繰り返されないことを願いながらも得た再会。些か場違いな感想を持つ彼の名を透はまだ知らず、この時はただ昔のまま呼ぶしかなかった。

 そして、全身で必死に苦しみを吐き出す成長した小さな身体を、軽々と抱き上げてやれないことを、タクトは少しだけ切なく思う。

 寂れた港から広がる海が青さを取り戻せるほど、透はひたすらに涙する。

 それは、子供の頃にはどうしても出来なかったことだった。

 

 




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