火種
エネルギーの全てを燃やしつくしそうなほど燦然と輝く太陽によって水分を失い始めた土の中から、穏やかな成長の果てにセミが目覚め始める季節だった。近くのスーパーの袋を下げた生活感溢れる姿のタクトの前に彼女が現れたのは。
甘い時間は紙一重だとタクトは常々思う。そうなるよう勤めた努力の結果として与えることのできた一時だけれど、望まなければ――溺れてしまえば甘い暴力でしかなくて、重ねれば重ねるだけ身体は渇きを覚えた。
抜け出した今だからこそ、あのまま続けていれば指先から砂の塊のように崩れていったのではと本気で考えずにはいられない。でなければ、こうして不意打ちで巻き戻されて喉がはりついたりするだろうか。
タクトの繊細な指は首元を密やかに撫で、表情は痛みに耐えるようにしかんでいる。
「タ、ク、ト」
有名なブランド品で固められたシックな装いに、むせ返るオリエンタル系のセクシーな香り。真っ赤な爪が光る指には細長いメンソールの煙草が挟まれていて、弾んだ声を発した口元にそれをもっていくだけで男を誘う色欲が溢れている。
麗華のような派手さはない。けれど彼女以上の精気全てを吸い尽くさんばかりな毒気がある。そんな女だった。
「……純さん」
「覚えてくれていてなにより。ホッとした」
「僕が? 忘れるわけがないでしょう。あなたのような素敵な女性」
逆さにすれば零れる器の中の水のように自然と口を出たセリフには、わが事ながら吐き気がした。こんな皮肉を察してくれる相手ならば、そもそもこうして再会することはなかっただろう。
かつての客の一人であった女に頭からつま先まで品定めされる視線に晒されながら、タクトは司の忠告が正しかったことを後悔と共に受け止めた。そして、あの時の行動を恥じる。
「お久し振りです」
「えぇ、久し振り」
純が歩けば地面で小さな破片が飛んだ。ハイヒールの踵がコンクリートを削り取っている。本当はただの偶然でしかなかったが、タクトは本気でそう思った。それぐらい近付いてくる足取りには脅迫的な感情が篭っており、よしんばあしらって事務所へ逃げ帰っても、老いた扉が叩き壊される結末が待っているだけだろう。
煙草を持ったまま清楚さ溢れる真っ白のシャツの胸に手を添えた純は、右手のレジ袋に心底気に食わない表情を向けた。それはまるで恋敵に対する憎悪のようだ。
「タクトがお店を辞めて以来よね?」
「約束では、こうしてお会いすることはないはずだった気がしますが」
「あら、勘違いされたら困るわ。私はタクトと約束したんじゃなくて、お願いをきいてあげただけよ」
平日の周囲の店が開き始めてすぐの時間。大きな道路に面していないとはいえ、それなりに人は動く。往来するいくつもの目はしっかりと妖艶な女が周囲をはばからず男にしなだれかかる様子を捉えていて、奇異の視線が二人にまとわりついた。
せめてもの救いは、この界隈でタクトが様々な形で有名だということだろう。ほとんどが嫌味のない呆れか、相変わらずだといった生温かさを持っている。今回ばかりは心外だったが、それでも自業自得で、タクトは苛立ちのぶつけ先を自分に定める他なかった。
「……それで? どういったご用件ですか」
「なんだか冷たくなった感じ。というより、そうね。反抗期?」
「なければこれで。仕事が控えていますので」
やんわりと、それでも固く細い肩を押す。
すると純は無理やりにタクトの唇を奪いにかかった。
通りがかった年配の女性が不快感をあらわに睨み、取引先へ向かう途中なのだろうか若いサラリーマンが思わず足を止め、彼にとっては非日常な光景に釘付けとなっていた。
「なぁに? 一丁前に仕事って。ただのお遊びじゃない」
「心外ですね。これでも一応、色々な方に頼りにされているんですが」
習慣として応えてしまいそうになるのをグッと堪え、タクトは初めて女性特有のふっくらとした柔らかな感触を拒絶した。
ガサリと袋が鳴き、ザワリと心が揺れる。タクトしか知らない自分が唯一の存在意義を改めて教え、警告を発しているのだろう。それぐらい、その拒絶はこれまでで一番の劇的な変化だった。
求めてもらえることは望んで叶うものではない。ましてそれは、永遠でもない。突き放される恐怖に怯えるあまり、純の知るホストとしてのタクトは出来上がっている。
今度こそ無理やりに一歩距離を取ったタクトへ、驚きと失望の色が込められた目が向けられた。
さらには純の腕がわなわなと震え、かろうじて残っていた灰を激しく落としながら煙草が突き付けられる。
すると今度はタクトが息を呑んで固まった。
「ほら、変わってない」
「っ……、下ろしてください」
「変わりたいと言ったから、せっかくお別れしてあげたのに。どうして気が変わったか、分かっているでしょ?」
オレンジの火種がジジジ、と嗤う。まるで蛍光灯が蛾を焼く音だ。わずかに青ざめた顔は、元の色が近すぎた為に気付いてもらえなかった。
タクトと関わる人間は、たとえ一晩の関係しか持たない女であっても、誰しもが彼を繊細の一言で表す。見た目も声も、仕草も使う言葉さえ、ともすれば霞んで消えてしまうのではと思わず指を伸ばしたくなる。
それは時間を共に過ごす中で守らなければならない決まりにも滲み出ている。その中で最も犯してはならないのが、タクトの前で煙草を吸ってはいけないということだった。真正面でなければ、人一人分手の届かない距離を離れていれば問題ないことが、余計にその繊細さを感じさせるだろう。
凶悪犯にナイフの切っ先を向けられているかのように心底怯えるのだ。だから、喫煙者である司も麗華も、けしてタクトの前で紫煙をくゆらすことはない。必要な距離を把握していても、その目が落ち着きなく彷徨うのを知っているから。消えて欲しくないのだ。その為ならば、些細なことでも彼らは気にかけてくれる。
当然ながら純もその事は把握している。しかし、彼女はあえてそれを破った。
「つれないじゃない。どうせ抱くならそこ等のお金も魅力も大したことのない女より、私にしておけばいいのに」
怒っていた。表情は微笑みといって差障りなかったが、言葉や雰囲気のせいで鬼の形相に感じられるほど、純は嫉妬の炎で全身が覆われている。彼女はタクトにとってもソワレの面々からしても、扱いをしくじってはならない相手だった。店を辞める時に一番揉めたのも彼女だ。
まかり間違っても関係を再び持ってはならない。その瞬間、大袈裟ではなく奴隷染みた人形にさせられてしまうだろう。
「あなたはもう客じゃない」
「そうね。だったらどんなアピールをしても私の勝手でしょ?」
「迷惑です」
「失礼ね。タクトはそんなことを言う男じゃないはずよ」
それを人は押し付けと言う。想いで飾った一方通行な感情ほどわずらわしいものはない。
純はフィルターを焼き始めた煙草はそのまま、新しい一本をバッグから取り出し火を点けて古い方をタクトへと弾いた。
ビクリと線の細い身体が跳ねる。
あまり力が入っていなかったので、火の消えていない吸殻は何も焼くことなく足元へと転がった。タクトは恐る恐るそれを踏み消すと、小刻みに震える指で拾いレジ袋の中へと放り込む。
「相変わらず律儀ね」純が他人事に笑う。
長さを取り戻したせいでオレンジが少しだけ近くなりさらに青ざめ、ストレスから今にも倒れそうだ。それはさきほどより顕著だというのに、純は一向に腕を下ろそうとしない。
「だってタクトは誰かに愛してもらわないと生きていけない子だもの」
それどころか勝手極まりない言葉でさらにタクトを追い詰めようとする。
ただ一言否定すればすむことが、ひどく困難だった。目の奥で、そうさせる情景が点滅しながら浮かんでくる。
青ざめていただけの表情が雨に打たれる子犬のように陰ったものに変わってから、純はやっと煙草を本来の嗜好品へと戻した。一息吸い込み、フィルターに濃い唇の跡を付ける。それでも、ゆっくりと吐き出された煙は風にあおられ、タクトの身体を締め上げる。
何度も純を啼かせた手が、彼女の中で最高な造りの顔を覆う。そこから漏れた諦めがにじむ深い溜息は、それでもなんとか必死に煙をはね返そうと吐かれていた。
「なにやってんだ?」
そんな時だった。
後一押しで屈しかけていたタクトへ野太い声がかかる。重く顔を上げれば、そこにはこんな所で会うとは思えない相手が怪訝な顔をしながら歩み寄ってきていた。
「横山刑事」
咄嗟に口を出ていた。
今まで名前すら一度も呼んだ事がないほど馬が合わない相手だったが、この際そんなことは無かったことにする。あえて職業が分かるように、親密な関係を装った。
普段の横山であれば、そんなタクトに喧嘩を売られたと感じ快く買うだろう。けれど、まがりなりにも彼も刑事として様々な状況に身を置いてる。場に流れる不穏な空気を敏感に察知し、それとなく間に割って入る。
純は案の定苛立たしげに、それでもさきほどとはうって変わって愛想を浮かべていた。
「邪魔したか?」
「いえ。すいません、こちらからお呼びしておいて」
「別に構わないけどよ」
何も言わず話を合わせてくれる態度に、タクトは内心横山への印象を改める。煙草が遠ざかったことが大きいとはいえ、それが出来るぐらい彼の登場で冷静を取り戻していた。
横山がタクトに顔を向けつつ純を横目に窺えば、彼女は乱暴な手付きで携帯灰皿に煙草を押し付けている最中で、その姿に好感は持てそうにない。これは立場的にも二人を引き離した方が良さそうだと判断した。
「んで? 俺はお邪魔しても良いのか?」
「もちろん。そういうことなので純さん、せっかくですが僕は失礼させてもらいます」
「そうね、引きとめて悪かったわ。今度は是非、ゆっくり話しましょ」
「仕事の空きがあれば」
遠まわしに正反対の挨拶を交わし、純は踵を返して颯爽と去っていった。
背中を向け手の甲を見せる。まるで逃がさないと言うように、その姿はタクトに映った。
肩の力が抜けたのは、再会を現実にさせる香水の濃厚な残り香の一切が消えてからだ。それまでしばらく目の前の道路を見つめ、もう一度片手で顔を覆う。緊張の抜けた身体がふらついてしまい、横山が慌てて腕を掴んでくれた。
「大丈夫か? 探偵」
「すいません、助かりました」
「いや、お節介でないならかまわないけどな。ストーカーか何かか、あれ」
いつになく親切なのは、それだけタクトの状態が切羽詰っていたからだろう。
それにしても今の様子にまず修羅場を想定しないのは、横山の鼻がそれだけ優秀ということか、それともタクトの印象がそう思わせるのか微妙なところだ。そのせいで、素直に礼を言いかねる。
かわりにタクトは自分から、事務所に招き入れることにした。
「似たようなものですけど、実害もなくこの程度で街のおまわりさんの手を煩わせたりしませんよ」
「おいおい、そう言ってくれるなよ。相変わらず口の減らない奴だな」
「ありがとうございます。とりあえず、時間が大丈夫であれば寄って行きませんか? お礼に一杯ごちそうします」
実際問題、頼られても出来る手助けは限られているせいで、横山も苦笑するしかない。それに嫌味がこもっているわけでも、深刻そうにも思えなかったので、簡単に流すことができた。
そしてこの申し出は願ったり叶ったり、場に居合わせた理由を果たせることにもなる。聡いタクトは当然ながら察しているが、今回ばかりは気付かないフリをして受け入れていた。それがなくとも、長嶋から聞き及んでいる腕に好奇心をそそられていただろうが。
「なら、お言葉に甘えようかね」
「どうぞ。こっちです」
そうして一人の女をくすぶらせたまま、平時であれば中々作られなかったであろう組み合わせでの一時はできあがった。




