青年実業家から求婚される①
■1
「いやー、こんなに上手くいくとは思いませんでしたよ」
東京、港区、虎ノ門。地上40階。
窓の外には、夜の東京が広がっていた。
双環亮介は、テーブルの上でスマートフォンを滑らせた。
長めの髪を後ろへ流し、仕立てのいいスーツを着ている。
その口元には、さっきから楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「新納さん、見てください」
大手通販サイトの化粧品ランキング。
1位から10位まで、色も名前も違う商品が並んでいる。
1位――株式会社ルミエ。
2位――株式会社オルカ。
3位――株式会社ミレイユ。
「客から見れば、10社が熾烈な競争をしているように見える」
双環は笑った。
「でも、全部、僕の会社です」
もう一度、ランキングを眺める。
「いやあ、綺麗に回りましたね」
双環亮介、34歳。
元動画配信者。現在は起業家。
昨年の個人所得、2億円。
人間の中にある、まだ言葉になっていない不安を見つける。
そして、それを本人より先に言葉にする。
そのことにかけて、この男は天才だった。
■2
「それにしても、新納さんの発想はすごいですね」
双環がランキング画面を閉じた。
「僕だったら、自社の商品をどう売るかしか考えなかった」
「OEMで少量多品目を低コストで作れる。だったら多ブランド展開して、客ごとに“自分専用”みたいに見せる」
「ここまでは、僕も時間をかければ辿り着けたかもしれない」
「でも――」
双環はスマートフォンを指で叩いた。
「会社そのものを増やす、までは思いつかなかった」
「客は、自分の悩みを分かってくれる、特別な化粧品を求めている」
「だったらブランドだけじゃなく、会社ごと分けてしまえばいい」
新納凛子は、ジンジャーエールに少し口をつけた。
「まあ、そこまでは言っていませんけど」
「でも、そこまで分けて考えれば、あとはシンプルです」
「客ごとに会社を分ける。次に、その人が何を気にしているのかを見つける」
双環はスマートフォンを開いた。
「三十代女性、じゃ広すぎるんですよ」
「写真を見たときに、前より疲れて見える人」
「同窓会が近づいて、急に老けた気がする人」
「目元だけが気になり始めた人」
「同じ三十代女性でも、欲しいものは全然違う」
双環は画面を指先で送った。
「そこまで細かく分ければ、“これは自分のための商品だ”と思ってもらえる」
「その人が抱えている悩みに、ちゃんと名前を付けてあげればいいんです」
■3
「……007のスペクターみたいですね」
双環は少し考えた。
「そうですか?」
「不安や対立を利用して、商品を売るという点では」
「でも、不安そのものを僕が作っているわけじゃないでしょう」
双環はスマートフォンを置いた。
「保険会社だって、就職情報会社だってそうじゃないですか」
「就活生には“内定を取る方法”を売る」
「企業には“いい学生を見抜く方法”を売る」
「片方に攻略法を売って、もう片方にはその攻略法への対策を売る」
「でも、どちらにも必要とされている」
凛子は少し考えた。
「需要があるなら、問題ない?」
「中身がちゃんとしていれば」
双環は即答した。
「もちろん、社員にはちゃんとしますよ」
「うちの退職率、有給消化率、育休取得率。どの数字も胸を張って言える」
「お客様にも同じです」
「顧客満足度もリピート率も高い。うちの商品を使って、損をしたと思う人はできるだけ出さない」
「それも、数字のためですか?」
「もちろん」
双環はあっさり答えた。
「新しいお客様を一人獲得するより、一度買ってくれた人にもう一度買ってもらうほうが、ずっとコストが低い」
「粗悪な商品を売って、一回だけ儲けても意味がないでしょう。不満を持たれれば離れていく。返品や炎上で済めばまだいい。健康被害なんて出したら、訴訟に行政対応、ブランドそのものが終わります」
「昔、お茶を使った洗顔石鹸で、大規模なアレルギー被害が出たことがあったでしょう」
「ああいうのは絶対に駄目なんですよ」
双環の口調が、少しだけ真面目になった。
「広告で興味を持ってもらうのはいい。でも、手に取っていただいた人には、約束したものをちゃんと返す」
「安心して使えて、買ってよかったと思ってもらう」
「そこは、別の話です」
凛子は再びジンジャーエールに口をつけた。
「合理的に誠実なんですね」
「誠実である理由まで、綺麗じゃないと駄目ですか?」
「いいえ」
凛子はグラスを置いた。
「もう、次とかも考えているんですか?」
「暗号資産」
双環は即答した。
「暗号資産交換業者を一社、買おうと思ってます」
凛子は黙って聞いていた。
「無名の動画配信者だった頃から、なんとなく思ってたんですけどね」
「今回、新納さんと仕事して、確信しました」
双環はグラスを指先で回した。
「人間の不安には、名前を付けるべきなんです」
「それで、美容の次は、お金ですか」
「はい」
「給料は上がらない。物価は上がる。老後は不安」
「真面目に働いてるのに、自分だけ取り残されてる気がする」
「でも、何が不安なのか、自分でもよく分かってない」
「その漠然とした不安に名前を付ける」
「そして、その不安に対して、ちゃんと答えを用意する」
双環は窓の向こうの夜景を眺めた。
「次も、うまくいきそうですね」
■4
「そうだ」
双環がふと思い出したように言った。
「大事なことを忘れるところでした」
鞄から、小さな箱を取り出した。
凛子の前に置く。
「受け取ってくれませんか?」
「なんですか、これ?」
「婚約指輪です」
凛子は双環を見た。
「……婚約?」
「はい」
双環は箱を開けた。
「今日、この日のために用意しました」
「………他の女性にも同じことを言ってるんじゃないですか?」
双環は少し笑った。
「内側に、新納さんの名前を彫ってあります」
「だから、使い回しはできません」
「………」
「新納さん。僕と結婚しませんか?」
凛子はもう一口、ジンジャーエールを飲んだ。
「理由を伺ってもいいですか?」
■5
「理由を伺ってもいいですか?」
双環は少し考えた。
「ご存じと思うんですが、僕、去年の年収が二億円ぐらいだったんですよ」
「それくらいになると、僕の意見に反対する人が、かなり減るんです」
「…………」
「僕が何か言えば、だいたい賛成してくれる」
「面白くない話でも笑ってくれるし、間違っていても、わざわざ指摘してくれない」
凛子は少し笑った。
「でも、新納さんは違うでしょう」
「違うと思ったら、普通に違うと言う」
「しかも、僕が考えていなかった答えを出すことがある」
双環は婚約指輪へ目を落とした。
「一緒に仕事をしていて、それがかなり貴重だと分かりました」
「僕一人でできることは、もうかなり多いんです」
「でも、新納さんと一緒なら、僕一人では思いつかなかったことができる」
凛子は黙って聞いていた。
「この先も、一緒に仕事をしたい」
「それなら、仕事だけにしておく理由もないかなと思いまして」
「それで……結婚したいと……」
「はい」
凛子はしばらく婚約指輪を見つめた。
「……ありがとうございます」
「お気持ちは、とてもありがたいです」
「ただ、双環さんにお伝えしていないことがあります」
双環が凛子を見る。
「私、一度結婚しています」
「そうなんですか」
「はい」
凛子は続けた。
「それから、九歳の息子がいます」
「……九歳?」
双環は少し目を見開いた。
「はい」
「新納さん、今三十二ですよね?」
「そうです」
「今は、離れて暮らしています」
「それは……知らなかったですね」
「仕事上、お話しすることではありませんでしたから」
凛子は婚約指輪の箱を閉じた。
そして、静かに双環の前へ戻す。
「お気持ちはありがたいです」
「だからこそ、これは一度お返しします」
双環は箱を見た。
「お子さんがいることが、理由ですか?」
「いいえ」
凛子は小さく首を振った。
「双環さんが、今初めて知ったからです」
「知らなかった大事なことをお伝えした直後に、『それでも構わない』と言わせるような形にはしたくありません」
「今、この場で答えを出すのは、アンフェアだと思いますので」
双環は少し考えた。
「なるほど」
「一度、普通に考えてください」
「その上でお気持ちが変わらなければ、そのとき改めて伺います」
「分かりました」
■6
四月の関東は、夜になるとまだ肌寒かった。
虎ノ門で双環と別れた凛子は、タクシーで新橋駅へ向かった。
終電間際の電車に乗り、横浦市へ戻る。
駅を出ると、夜風に桜の花びらが舞っていた。
事務所に着いた頃には、午前1時を回っていた。
株式会社新納事業相談所。
凛子は照明をつけ、鞄をデスクに置いた。
大手コンサルを辞め、この小さな事務所を始めて、もうすぐ1年になる。
ノートパソコンを開く。
時刻を確認して、ビデオ通話を発信した。
数回の呼び出し音。
画面いっぱいに、少年の顔が現れた。
『Hi, Mum!』
「ママと話すときは日本語で、って約束したでしょ?」
『あ、そうだった』
少年が笑う。
「こんばんは、ママ」
「こんばんは、リンゼ」
リンゼ・ハーコート。九歳。
凛子の一人息子だった。
「学校はどうだった?」
『普通』
「普通は禁止」
『じゃあ、まあまあ』
「悪くなってるじゃない」
画面の向こうでリンゼが笑った。
その後ろから、年配の女性の声が聞こえる。
『Rinze, have you finished your homework?』
「おばあちゃんが宿題やったかって」
「聞こえてます」
『日本語なのに?』
「あなたのお母さんですよ」
『あ、そっか』
凛子も笑った。
画面の端から、白髪の女性が顔を覗かせる。
『Rinko. Good evening.』
「こんばんは、お義母さま」
■7
通話を終えたときには、午前2時を回っていた。
凛子は顧問先から届いていたメールに一件だけ返信し、ノートパソコンを閉じた。
照明を落とし、事務所を出る。
金曜の夜はまだ完全には終わっていない。
通りには、バー帰りの客とタクシーがちらほら残っていた。
「今日は歩いて帰ろうかな」
横浦スタジアムを右手に見ながら、中華街へ入る。
昼間は観光客で埋まる通りも、この時間は静かだった。
閉じた店先を、赤や金の看板だけが照らしている。
高速の高架をくぐる。
中学に通い始めた頃から、何度も歩いた道だった。




