1.始めましょう
ふと気づいた。このあと、しばらく時間がある。
本を閉じて目の前に立っている彼を視界に入れると、向こうはこちらを見ていたようで、ぱちんと目が合う。
「……ねえ。あなたに話していないことがあるわ」
あの学び舎を卒業して数か月が経った。毎日家の仕事を覚えながらこなし続け、とうとう打ち明けるタイミングを今日まで見つけられなかった。私の人生のことも、もう彼が自由になってもいいことも。
いや、話せたのかもしれない。そうしようと思えば。
「そうですか」
彼はそう言って、姿勢も変えずにただ微笑んだ。思わず「気にならない?」と聞けば「お話しにならなかったのが、ディアーヌ様のご判断なのでしょう」と返した。
「アレン、ここへ来て。座ってちょうだい」
すらりとした長身はてこてことかわいらしい音でも立てそうな歩き方で近寄ってきた。ぽんと叩かれた柔らかい座面に少し距離を取って腰を下ろし、アレンはこちらを向く。
「聞いてくれる?長くなるけれど」
「もちろん」
穏やかそうな顔がにこりとして頷いた。
「わたくしはある日、……思い出したの。ディアーヌ・ボーヴォワールのことを」
☆
誰でもいい、この空席を埋められるのなら!
令嬢は優雅に歩きながら、内心焦っていた。
「あれは宰相の息子……あっちは、……えー、側近候補だわ」
口元を扇子で隠し、忍び声でつぶやく。彼女は、王子が妃を決めると噂されるこのパーティーで、自身の婚約者を探していた。
コツ、コツ、と靴音を鳴らし歩を進める。声をかけるつもりが、すれ違う誰もが一歩後ろに下がっていく。
「なによ」
割れる人波を恨めしげに見回す。この程度で諦めるわけにはいかない。
彼女は、ディアーヌであってディアーヌではなかった。本か絵か、何で知ったのか細かいことは分からないが、遠い昔おそらくこの世界へ産まれてくる前に見たことがあるのだ。否、正確にはそうだったと先程、行きの馬車で壮絶な頭痛を伴って思い出した。
彼女は精神的にいつも孤独だった。忙しい父、塞ぎがちな母。きょうだいも友人と呼べるものもおらず、王子の婚約者ながら接し方がわからず歓心を得られない。いつからかある少女を筆頭に彼と親しい人々への嫌がらせを執拗に繰り返すようになった。記憶の中ではその末に療養のためと地方へ送られた。そして事実上の追放で終わらず、その先で処理される。
なんと情けない、このわたくしがそんな幕引きはごめんだと、ガンガン痛む頭を抱えながら二人分の彼女は思った。
令嬢は考える━━まだ会ってもいない今なら、この筋書きの最も大きい条件を消し去ることができる。間に合うのではないか。
彼女の思惑はパーティーに集められた子どもたちとは全く反対だった。とにかく今日中に毒にも薬にもならなそうな男と婚約したい。どうしても王子とお近付きになどなりたくなかった。
ざわ、と背後の群衆が色めき立つ。まずい、とディアーヌは歩みを早めた。かの方々のお出ましの気配でもあるのだろう。
現れてしまえば背を向けてはいられないし、両親と合流せざるをえない。人々の視線の先から離れ、紛れるようにさらに遠ざかる。誰も彼もが今か今かと階段に釘付けだった。
━━やはり難しいか。ディアーヌがため息を堪えながら壁際に目をやる。
すると、そこにすらりと背の高い少年が1人飲みものも持たずただ立っていた。
「……もし、あなた」
社交の場にはそれなりに顔を出していたはずのディアーヌにも、そのもっと前の記憶でも見覚えはない。身長のわりに顔は幼い印象で、だいたい同年代だろうと思われた。身なりは悪くないが、侯爵令嬢がへりくだるほどではない。
「……」
「あなたよ。聞こえないの」
「……?僕、でしょうか」
「ええ。手を出して」
「はあ……はい」
不思議そうにしながらも、少年は素直に右手を差し出した。
「お名前は?」
「アレン、です。……ああ、アレン・ベルナールです」
言い直された家名で子爵家だ、とピンときた。領地を知っている。規模は小さいが地盤は悪くない。本人は素朴な雰囲気で、目立たず、従順で穏やか。何よりわたくしから逃げない。彼だ。
そう考えたディアーヌは出させた手をそっと取り、言った。
「ごきげんよう、アレン・ベルナール様。わたくしと婚約してくださる?」




