第2章 最終話:青の彼方、はじまりの無
第2章 最終話:青の彼方、はじまりの無
一九七二年 八月三十一日。
サニーの車内を満たしていた熱気は、夜明けの訪れとともに静まり返っていた。
拓真は運転席で浅い眠りから目覚め、恐る恐る後部座席を振り返った。そこには昨日まで砂浜を駆け回っていた少年と少女の姿は、もうなかった。
代わりに、寄り添い合うようにして横たわっていたのは、二人の小さな乳幼児だった。
推定年齢、零歳。
彼らの肌は驚くほど白く、透き通っている。握りしめられた小さな拳は、もはや自らの運命を書き留める力も、誰かを癒やす力も持たない。ただ、本能的に互いの温もりを求めるように、細い指先を絡ませていた。
「……最後なんだな」
拓真の声が、静寂に沈む。
彼は車を走らせ、青島の入り口にある弥生橋へと向かった。
ロンドンでケネスが辿り着けなかった「その先」。もし、愛する者と共に「無」へ還ることができたなら。拓真は、その最期の観測者になることを決めていた。
橋を渡り、青島神社の鳥居をくぐる。亜熱帯の原生林が朝日を遮り、境内は厳かな空気に包まれていた。拓真は二人を両腕に抱き上げた。羽毛よりも軽く、それでいて銀河のすべてを凝縮したような重みが腕に伝わる。
波状岩が広がる「鬼の洗濯板」の先端、海へと続く境界線に、拓真は立った。
朝靄の向こう、太平洋が黄金色に輝き始めている。
その時、二人の赤ん坊が同時に目を開けた。
そこには、知性も記憶も、呪いも祝福もなかった。ただ、一筋の清らかな「命」の輝きだけがあった。
二人が見つめ合った瞬間、あの白い光が溢れ出した。
それは以前のような、誰かを浄化するための激しい光ではない。
夜明けの陽光に溶け込んでいくような、優しく、穏やかな光。
光は二人の体を包み込み、物質的な輪郭をゆっくりと奪っていく。
「ケネス、エイリーン。……おやすみ」
拓真の腕の中から、確かな重みが消えていった。
二人の体は、粒子となって朝風に舞い、きらきらと輝きながら青い海へと還っていく。
肉体が消えたあとに残ったのは、絡み合っていたはずの指が空を切った、微かな名残の熱だけだった。
彼らは「無」へと還った。
それは死ではなく、長い逆走の果てにようやく辿り着いた、完璧な「安息」だった。
五十年前、ロンドンで引き裂かれた二人の時間は、ここ宮崎の海でようやく一つに重なり、零へと溶け合ったのだ。
拓真の手元には、あの一冊のノートだけが残されていた。
ページをめくると、そこにはかつての悲鳴のような英語も、昨日の拙い日本語も、一文字として残っていない。ただ、陽光を反射する純白の紙面が続いているだけだ。
だが、拓真は知っていた。
このノートはもう「空白」ではないことを。
そこには、目に見えないインクで、誰にも奪えない「二人の一生」が刻まれている。
たとえ世界が彼らを忘れ、歴史が彼らを異形として葬り去ったとしても。
拓真は、神社の砂を一つかみ取り、ノートの表紙に擦り付けた。
そして、その白紙の最初のページに、今の自分が持っている一番太いペンで、最初の一行を書き込んだ。
『一九七二年、夏。ここに、最も平凡で、最も特別な二人が生きていた』
拓真は青島を後にした。
彼が歩むこれからの未来には、もう「奇跡」も「逆走」も存在しないだろう。
しかし、彼の腕に残ったあの温もりと、右腕から消えた火傷の跡が、確かに物語が真実であったことを証明し続けている。
白紙のノートは、拓真の鞄の中で静かに眠っている。
いつかまた、誰かがこの物語を必要とした時、文字は再び血のように、あるいは光のように浮き上がるのかもしれない。
けれど今は、ただ静かに。
潮騒の音と共に、物語は永遠の沈黙に守られることになった。
宮崎の海は、昨日と変わらず青く、深く、すべてを受け入れている。
入道雲が空高くそびえ立ち、新しい一日が始まった。
ケネスとエイリーンの、長い、長い「美しき退行」の旅は、ここで、本当の終わりを告げたのだ。




