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白紙の残響  作者: 水前寺鯉太郎


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第2章 第5話:日南の入道雲、忘却の砂時計

第2章 第5話:日南の入道雲、忘却の砂時計

一九七二年 八月二十九日。

拓真の運転する中古のサニーは、海岸線を南へとひた走っていた。

窓を全開にすると、潮の香りと共に、狂おしいほどの蝉時雨が流れ込んでくる。後部座席では、昨夜よりも一回り小さくなった二人の「子供」が、身を寄せ合って眠っていた。

ケネスは八歳。エイリーンは七歳。

もはや、彼らの中に「アイルランド」の記憶はほとんど残っていない。

昨夜、ケネスは拙い日本語で拓真にこう言った。

「おにいちゃん、ぼく、なんだか……すごく遠くから歩いてきた気がするんだ。でも、どこから来たのか、もう思い出せないんだ」

拓真はハンドルを握る手に力を込めた。

彼が拾ったあの白紙の手記は、いまや一ページごとに文字が薄くなっている。書かれた内容が消えていくのではない。二人の頭の中から、その記憶が「なかったこと」として消滅していくのに合わせ、紙の上のインクもまた、物理的に透明へと戻っているのだ。

「……着いたぞ。ここなら、誰も来ない」

辿り着いたのは、日南海岸の断崖に挟まれた、名もなき小さなプライベートビーチだった。

車を降りた二人は、歓声を上げて波打ち際へと駆け寄った。

「ケネス、見て! お水がキラキラしてる!」

「エイリーン、待ってよ!」

その姿は、どこからどう見ても、夏休みを満喫する無邪気な幼い兄妹だった。

ケネスは砂浜で貝殻を拾い、エイリーンは波に足を浸してはしゃいでいる。

彼らがかつて、数千の苦痛を癒やした「奇跡の保持者」であったことや、闇の組織に追われる「異形の存在」であったことなど、今の彼らの笑顔からは微塵も感じられない。

拓真は砂浜に座り込み、その光景を黙って見守った。

これが、彼らが望んだ「平凡」なのだろうか。

知性を失い、歴史を失い、ただ「今、この瞬間」の太陽の眩しさだけを感じて生きる。

それは救いであると同時に、あまりにも寂しい「生の剥奪」に見えた。

昼下がり、ケネスが拓真の元へトコトコと歩み寄ってきた。

その手には、海辺に咲くハマユウの花が一輪握られていた。

「これ、おにいちゃんにあげる。……それから、これ、あずかって」

ケネスが差し出したのは、あのボロボロの手記だった。

今のケネスには、もうそのノートに何が書かれているのか、自分にとってどんな意味があるのかさえ分からなくなっているようだった。

「……ぼく、もうすぐ、もっとちいさくなる。そしたら、エイリーンのことも、おにいちゃんのことも、わからなくなっちゃうかもしれない」

八歳のケネスの瞳に、一瞬だけ、かつての「八十歳の老ケネス」の残照が宿った。

「だから、おにいちゃんが持っていて。ぼくらが、ここにいたこと。……ぼくらが、お互いを大好きだったこと。いつか、ぼくらが『いなくなっても』、だれかが知っていてくれるように」

それは、ケネス・ザカライア・ウルフという男の、魂の最後の一欠片が絞り出した「遺言」だった。

拓真は震える手でノートを受け取った。

「……ああ。約束する。絶対に、誰にも渡さない。俺が、ずっと持っておくよ」

ケネスは満足そうに笑うと、「エイリーン!」と叫んで、再び波打ち際へと駆けていった。

二人は砂浜に座り込み、沈みゆく夕日を見つめていた。

オレンジ色の光が、二人の小さな背中を包み込む。

その影は、刻一刻と短くなっていく。

夕闇が迫る頃、エイリーンがケネスの肩に頭を乗せて眠り始めた。

ケネスもまた、彼女の手を握ったまま、深い眠りに落ちていく。

拓真が二人を抱きかかえて車に戻そうとした時、胸を突くような感覚に襲われた。

軽い。

さっきまで八歳だったはずのケネスの体は、今はもう五歳児ほどの大きさしかなかった。

エイリーンも、四歳ほどまで縮んでいる。

二人の時間は、この夏の終わりと共に、最後の一秒へと向かって加速を止めない。

拓真がノートを開くと、最後のページに、震えるような、しかし決定的な一行が浮かび上がり、そして……消えた。

『さようなら、世界。ぼくたちは、幸せな子供として、消えることができる』

ノートは、再び完全な「白紙」に戻った。

【現在の外観推定年齢:ケネス 5歳 / エイリーン 4歳】

(※追記:もう、文字を書くことはできない。ただ、潮騒の音だけが耳に残っている。隣にいる女の子の手が、とても温かい。それだけで、もう、何もいらない気がするんだ)

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