好きしか無い君に
朝臣はアルバイトへ向かっていた。
帰り際に恵美言われた事を思い出す。玄関から出て、敷地を囲っている塀から数歩進んだところで、恵美が必死に追ってこう言って来た。
「勉強に差し障りない範囲で良いから、あの子の側にいて最期まで仲良くしてね」
それは玄関で言うと聞こえてしまうから、追って外に出てきたとわかった。
「はい。あの、夕生が何かあったら直ぐに連絡して下さい。俺の方もそうします」
「ありがとう。ごめんね。なんか若いうちに経験することじゃないよね」
「そう、ですね……」
朝臣は頭を下げた。勉強に差し障りのない範囲が先に来ている辺りが、元弁護士の妻の体を表していた。苦しい立場ながら、母親らしくもあるとも思う。確かに、勉強時間が圧倒的に足りなくなる。それは想定済みだ。実際にそうなっている。唯でさえ、全ての試験や難関突破が一度で済むとは思えない。金も居る。時間がない。効率良いアルバイトを探すのが良いとわかっているが、探す暇もない。仕方がないので、アルバイトの温さを利用して仕事中に勉強している。しかし、この脳の使い方をしていて本当に効率が良いのか。最悪、病院で勉強することも考える。夕生がどう思うかはその時対応する。……
いつものように、アルバイト先に入っていくと見慣れない人物が居た。この間、店長が言っていた新人だ。冴島珠美。朝臣は冴島と交代するようなシフトになっていた。
「おはようございます。初めましてですよね」
冴島の方から挨拶があった。確かに、女にしては背が高い気がした。滑舌が良いと思った。
「ああ。初めまして、篠井です」
「同じ歳だって、聞きました」冴島は自身を指差して、馴れ馴れしい笑みを浮かべて言う。どうでも良いが、勝手に年齢の話をしているのは店長だろうなと朝臣は思った。同じ歳なら、あの冴島の確率がやや狭まった。
「どこの大学ですか」一応、何気なく会話しようとした。すると、その間に帰り支度なのか、ポケットを探っている。鍵やら何やらの音が聞こえた。慣れた手付きで、煙草を一本咥えて答えた。もちろん火は付けていない。
「行ってないよ、そんなの。フリーター。篠井さんは、大学生なんだ」
朝臣は内心、柄悪い女だなと思った。
「そうです。もう時間ですよね」
腕時計を見て言うと、冴島はヤバイと笑ってタイムカードを押した。そのまま出て行く仕草を見せていた。思いついたように冴島は言った。
「あんたさあ、彼女いる? いるよね」
冴島は、何故が断定してきた。
「……まぁ」
厳密には女ではないが、まあ対応としてはこんなもんだろう。いるって言ってしまった方が、馴れ馴れしい態度が少しは回避できるだろう。すると、間の悪いことに奥で作業していた店長がニタリと笑いながらやってきた。
「篠井くん、彼女できたの? なんか徹底して硬派な感じだったから、興味ないのかと思ってたよ。そうか、それでシフト変わったりするようになったの? それならそうと、言ってよ、水臭いなあ。でも、おめでとう」
「おめでとう……?」
全然そんな気分じゃなかった。夕生が死んでいくことばかりに気を取られていた。朝臣は戸惑う。
「へえ。アハハ! なんか今会ったばかりでわかんねーけど、良かったね」
追って冴島が言った。冷やかし半分でも楽しそうだった。
良かったね。良かったね。おめでとう。
そうか……
「そんなもんでもないよ」二人から目を逸らした。その呑気な祝福ムードにはついていけずに、拒否してしまった。照れ隠しと思えばいい。しかし、照りの部分が無いのなら闇しか無い。そうそうこの闇と悲観を隠し切る演技など出来るほど朝臣は器用でもなかった。
「ハア? 謙遜? ワケアリ?」
いきなり冴島が食って掛かるように、一歩近づいてきた。
こいつなんか恐ろしい。そう朝臣は身構えた。ワケアリは当たっている。
「別にどうだっていいけど、それって彼女に失礼じゃね? あんま好きじゃねえのに、適当に合わせて無理くり付き合ってんなら、そんなのやめなよ」
「無理くりじゃねえよ、ちゃんと……」
そこで口をつぐんだ。何をムキになることがあるんだ。「大体さ。今、あったばかりなのに、随分、土足で踏み込んで来るんだな。失礼だ」
朝臣は抗議した。これでも怒りは半分以下に押さえたつもりだ。
「そうだね。ごめんね。お幸せに」
冴島は、あっさり引いた。朝臣の抗議を全く気にしない様子でそう言い残して去った。
「今のはあの子の言い過ぎだな」
店長が頭を掻きながら、小さく言った。
「店長が余計なこと言うからでしょう」
「悪かったよ。そんな怒らないでくれる。ともかくは良かったじゃないか」
「……俺のタイムカード、そこに立ってんなら押して下さい」
そうだ。適当に合わせて無理くり付き合ってなんかない。それなら、キスなんてしない。けれど、大事なことは伝えていないことに気づいた。好きだよと言っていない。今日、言えば良かった。あの時は、確実にそういう気分だったのに。
悲観にとらわれすぎていたかも知れない。今、夕生は生きているのだから。
客が途切れた時に、そっとスマートフォンのアプリを見た。夕生から届いてる。
「久々に、SNS更新してみたよ。おやすみ」
このまま、SNSは更新しない人ってことにすればいいと朝臣は思っていたが、コメント数を見ればそうはいかないのかもしれない。リンクが貼ってあったので、そこに触れた。
画像にはアイスクリームのみが中央に鎮座していた。その画像の直ぐ下には夕生の文章が短く書いてある。
「ありがとう。大好き」
自分の置かれている状況は公開しないと言っていたから、こうなのだろう。しかし、朝臣から見ると返って意味深に思えた。なんだか心配になる。久しぶりの更新で、顔を出さないというのは若い芸能人としてどうなのだろう。だからといって変に長文を書くのも難しいか。早速、コメント欄には熱の高い文面が次々伸びていた。
「見たよ。短いな。これで大丈夫なの」
そう文章を送ってしまったが、夕生が見るのはもう少し後になるだろう。
時間的なものも手伝って、客はほとんど来なかった。その間にする作業が沢山ある。届けられた商品の陳列がある。
夕生がSNSにアップロードした画像のバニラアイスクリームは、高校生の頃にねだられた事があったものだ。いつもこれが好きだと言っていた。
誕生日が近いから、と言っていた事を思い出す。確か10月13日。
来月か。何をプレゼントしたら良いだろう?
先のことなんて、と思う事はなるべくしない。そう決めたら、いくらか心が軽くなった気がする。
長く感じた労働時間も終わり、自分のアパートに帰宅した。バイト先から貰った弁当を温めている間に、ノートパソコンを立ち上げた。何気なくクリックしたニュースサイトのエンタメニュースには「深夜ドラマ『僕との放課後』の樫木夕生、二ヶ月半ぶりに更新」との小さい見出しが目に入った。そのニユースサイトでは次の活躍が望まれている。と締められていた。そこにはそのドラマのワンシーンと切り取ったようなサムネイル画像があった。思わずクリックしてみると、拡大された夕生を見ることが出来た。
同時に、電子レンジの高い音が鳴った。取りに行くと、加熱した弁当が熱くなりすぎていた。バイト先で使っている電子レンジよりもワット数が強い。つい、いつもの癖が出た。仕方なく、少しだけ待つつもりで、すぐ横のキッチンの上に置き去りにする。そして再び、ノートパソコンの前に座った。
画像に胸が高鳴った。
このドラマは、担任教師と女子高生の恋愛もので、夕生はその女子高生へ惹かれるあまりに、禁忌の恋愛を前にストーカーになってしまう特殊な役どころだった。つまり悪役。よってこの画像は壁からヒロインを見つめているシーンの切り取りになっていた。とても切ない表情を浮かべてた。
今と違うなあ。
けれどこっちが本来の夕生の姿だとも思える。辛さが込み上げたが、もっと以前の夕生の顔が見たくなってしまった。
樫木夕生で画像検索すると、画面一杯に夕生の顔が並んだ。
制服の夏服のシャツは、ネクタイの色味が多少違うだけで高校の頃と殆ど同じだ。なのに、演技なのか写し方なのか。両方の要素が組み合わさって、別人格にも見える。
俺の樫木夕生に一番近いのはどの画像か。なんて過ぎってしまう。
ただ少し、可愛らしいだけと思っていたのに。人懐こい所が好きだった。馬鹿ではないのに天然な所が好きだった。恥ずかしがりな癖に、勇気がある所が好きだった。好きだった――。
朝臣は吐息を堪える。
スマートフォンから通知音が聞こえた。




