すべてのはじまり
「クリント」
不意に名前を呼ばれて、クリント・ホークアイは手元の新聞から顔を上げた。見ると、テーブルを挟んで向かいのソファに座った30代前半の女性が笑いかけている。美しい金髪を後ろでまとめ、ややたれ気味の目をした、柔和な印象の女性だった。
「ああ、ドナ。なんだい」
男は妻の名を呼んだ。ドナテッラ・ホークアイは肩をすくめて唇をとがらせる。
「難しい顔してるから。なにか嫌な記事でもあった?」
「ああ。標準時で半年前に鎮圧された植民惑星の反乱なんだが、ひどいことになってる。代理政権へ反発するテロ組織が住民を虐殺したらしい」
「まぁ……」
「そもそもこの反乱は銀河帝国からの独立を求めてのことだ。植民惑星がわからしてみれば、なぜ何万光年も離れた太陽系政権の言うことを聞かねばならないのか、納得できなくてあたりまえじゃないか。鎮圧にあたったテセウス・V・ハルトマンとかいう将軍が、この住民を殺したようなものだよ」
「じゃあそのハルトマン将軍がいなければみんな笑顔だったってことかしら?」
「かもしれない」
「もう、クリントったら」
ドナテッラは柔らかく微笑んで席をたち、クリントの後ろにまわった。そして背もたれ越しに彼に抱きつく。
「旅行の最後にそんな顔して。しかめ面より笑顔がいいな」
「旅行じゃなくて学会の帰りだろう。コラ、やめなさい。公共の場だぞ」
じゃれるドナテッラに、くすぐったそうにクリントがはにかむ。彼は彼女の手を払って、少し恥ずかそうに周りを見渡した。
宇宙船の広いラウンジだった。いくつも並んだソファとテーブルでは他の乗客たちが談笑している。観葉植物の緑が目に映え、複雑なコーヒーの香りが心を落ち着かせる。少し離れたソファでは、おそらく兄妹だろうか、ふたりの金髪の子供がじゃれ合っていて、笑い声が耳に心地よい。
ふとクリントは、ドナテッラがその兄妹をじっと見つめているのに気がついた。彼女の瞳は憂いを帯びていて、男にはその理由が容易に察せられた。クリントは彼女の手を優しく握った。
「……大丈夫だよ。すぐに私たちの間にも子供が授かるようになる。キミの病気も、あと少しで私が治す」
するとドナテッラは微笑んで、クリントに絡めた腕を解いた。彼女は夫の肩に手を置いた。
「……ありがとう。でも無理しないでね。私は自分の病気が治らないことより、あなたが笑わないことのほうが辛いから」
ドナテッラは優しく言って、部屋に戻ると言い残して立ち去った。クリントはその背を見送って、手の中のムービー・ペーパーを畳んだ。
彼はラウンジのコーヒーサーバまで行って戻った。エスプレッソにブランデーを一滴垂らしてぐい呑みし、長く、深い息をつく。
「……私にはキミが苦しんでいることのほうが辛いよ、ドナ……」
ドナテッラ・ホークアイが宇宙放射線病を発症したのは5年前だった。重力機械工学の博士である彼女は、木星軌道上に新たに建設される予定だったハイパー・ドライブ・ゲートの工事に立ち会い、そこで事故にあったのだ。不注意な作業員が落とした一本のビスが木星の重力に引かれて加速し、一発の銃弾となって船外作業をしていた彼女の宇宙服に穴を開けた。そのときに彼女の遺伝子は宇宙に渦巻く放射線に晒され、一部が破壊されてしまったのだった。
以来、彼女は徐々に進行する様々な臓器の機能不全に苦しめられている。毎日三回のナノマシン注射と山のような投薬がなければ、一週間と持たないだろう。
しかしクリントは彼女が諦めるような言葉を言うのを一度も聞いたことがない。それどころか、彼女は病気を発症してから以前よりも精力的にボランティアに参加したり、同じ病気に苦しむ人たちに向けての講演会を行ったりするようになった。
いつ心臓が止まってもおかしくないのに、なぜ大人しく入院しないのかと、クリントは半ば怒りをおぼえながらも彼女に訊いたことがある。するとドナテッラは、明るく笑って答えた。
「きっと私の人生は、ほかの人を笑顔にするためにあったのよ。今までそれは重力工学だったけど、神様は私にもっと難しい使命をくれたの。私が一緒に悩みを共有することで、苦しんでいる人たちが生きる希望を取り戻せる。これでやる気が出ないほうがおかしいでしょ!」
「しかし、キミの命はどうなる?」
「入院なんかして動くのを止めたら、その瞬間に神さまは私の心臓を止めるわ。私にはわかるの。私はね、立ち止まったら、死ぬの。お願い、わかって、クリント……」
クリントには、彼女の見せる笑顔がひどく痛々しく思えた。
(だがもう少しだ)
クリントは自分の足もとにあるアタッシュケースに触れた。アタッシュケースの中には、彼が試作した人造遺伝子のサンプルが入っている。人造遺伝子を体に埋め込み、破損した遺伝子と取り替えることさえできれば、宇宙放射線病の脅威は取り除かれるはずだった。
クリントはアタッシュケースを持って立ち上がり、部屋に戻ろうとソファを回り込む。するとその時、ソファの影から飛び出してきた小さな影にぶつかった。影は尻もちをつき、紙束が落ちる音とともに一冊の本が転がった。
「ああ、すまない、大丈夫か?」
手を差し伸べた。飛び出してきたのはひとりの少女だった。美しい金髪の、綺麗で可愛らしい女の子だ。彼女はクリントの手をとって立ち上がり、深く頭を下げた。
「失礼しました、おじ様」
「いやこちらこそ不注意だった。怪我はないかね」
「ええ、ありがとうございます。お優しいのですね」
少女はにっこりと笑った。気恥ずかしさに頭をかくクリント。彼は自分の足もとに本が落ちているのに気づき、拾い上げた。
「キミのかね?」
「ええ、おじ様。ありがとう!」
『花言葉辞典』を受け取った少女はぺこりとお辞儀をした。直後、彼女の後ろから呼びかける声がする。
「何してるんだ? エレノア」
金髪の少年が、少女のものらしき名を呼んだ。少女はふりかえった。
「あ、ユーリィお兄様。ごめんなさいおじ様、もう行かなきゃ」
「ああ、気をつけてね」
クリントは微笑みながら少女が少年のもとへ歩いていくのを見送った。少年は軽く会釈して、少女とともに歩いていった。
(気持ちのいい子たちだ。きっと良い家庭の子供だろう)
少しいい気分になって、クリントは歩きだす。廊下を歩いて、自分の客室へと戻る。
ドアを開けた直後、クリントの目に飛び込んだのは、床に倒れ伏す妻の姿だった。




