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釉妃改め、梁麗国・奏鈴皇后に与えられた室は、柳麗帝が午前執務を執る室がある月華宮の奥の奥に位置する、宮殿を内殿・外殿・奥殿と大きく三つ別けた内の奥殿の一つ、月麗殿の中でも一際大きな広さを誇る一室で、玻璃が埋め込まれた窓からは、嘗ては四季折々の花木や草木が楽しめられていたと思われる庭が真横から臨める位置だった。
奏鈴をこの部屋に案内した女官は、案内を終えると挨拶もそこそこに何処かへと去ってしまい、奏鈴は、――懍砡は暇を持て余していた。
昨夜は特例として皇帝の寝室で寵を得たのだが(表向き、そう言う事になっている)その室と比べれば、何処も彼処も印象が古く感じられ、また、微かに空気が澱んでいた。
懍砡はあまり知られてはないが、子を死産した後、もう一つの後遺症を発症していた。
詳しく説明するのならば、その病は一度完治したかのように思われていたのだが、生死の境目を彷徨ったからだろうか、それは再び懍砡を苦しめる病となって発症した。
が、それには幸いなことに対処法があり、常に懍砡がいる居室の空気を清浄に保っておければ、命に関わる問題ではなかった。
それを慧迦が思いだしたのは、己が主が急に胸を掻き毟る様に苦しみ出したからである。
額にはびっしりと珠の様な冷汗を浮かべ、吐く吐息の間隔も早く短かった。
「釉妃様、お気を確かに。釉妃様!!」
主の病は目に見えぬその場にある空気の汚れであり、埃や黴と言った類のモノで、それらの多くは日常生活の中で何処にでも潜む、病の原因の一つだ。
おそらく多かれ少なかれ、人は懍砡の病の苦しみを体験している筈である。
例えばそれは長年開かずの部屋となっていた室であったり、例えばそれはゴミで埋め尽くされた空間であったり・・・。
人だけではないが、命ある多くの生物は、空気が澱んでいる場にいると、咳が出たり、止まらなくなる。
その病を治す為の治療薬は、今の所発見されていない。
慧迦はゲホゲホと止まらぬ咳で苦しむ主を、なんとか近くにあった長椅子に身体を凭せかけると、庭に面している窓硝子を開け放ち、扉と言う扉を開き、澱んだ空気を入れ替え、寝室の寝台に真新しい敷布を手早く敷き直し、入念に塵や埃が残ってないかを確認し、前室の長椅子で休ませていた主を抱き上げた所で、彼らは現れた。と言うか、主の室に訪れた。
「何をなさっていらっしゃいます。宦官風情が恐れ多くも奏鈴皇后に触れるなど、」
「その皇后の持病をアンタには知らせた筈だよな?蔡特使殿?」
憎々しげに彼らに向けられた宦官の瞳の鋭さは、主以外を敵と見做していた。だが、六純は宦官から発せられた言葉に、まさかと目を見開いた。
「もしや室が汚れていたと・・・?」
美麗な宦官、――慧迦は、その言葉に失笑した。
コイツの何処が有能なヤツなんだ。
ただの知識バカではないか。
慧迦はとりあえず羽より軽いと思われる大切な主を、寝室の寝台に横にさせると、これも何処から調達してきたと思われるまっさらな寝具を掛け、自分は口元や頭を布で覆い、寝室に穢れた空気が入らない様に扉を閉め、まだ目を見開いたままの男二人と女官に布を投げ渡した。
「俺の主は繊細でね。僅かにでも室が汚れていたり、空気が澱んでいると途端に咳が止まらなくなる。残念だよ。この国には俺の大切な主を喜んで迎え入れてくれる人間はいないんだな。」
掃除を手伝う気が無いのなら出て行けと暗に匂わされた女官は頬を赤く染めながら憤り、特使として莉迂国に派遣された有能な官吏は、暫く逡巡し、自らも頭と口元を布で覆い、銀髪紅眼の青年は、寝室へと続く扉とその扉の前に立つ宦官とを何度か視線を往復させ、踵を返した。
ああ、コイツも同じなのか、と、美麗な宦官の顔が歪んだ瞬間、銀髪の男は静にその言葉を紡いだ。
「俺は天幕や長椅子を手配するように伝えて来る。悪いが、皇后の事は頼む」
慧迦はその言葉に、失望の感情をなんとか引っ込ませ、代わりに溜息を吐き。
「俺の主の名前は懍砡か奏鈴だ。皇后は位であって、主の名ではない」
忘れてくれるな。
銀髪の青年こと、梁麗の皇帝は皇后付きの宦官からそう願われた様に思い、ゆっくり首肯した後、新たに己が皇后につける女官を選ぶべくして、算段を付け始めたのだった。




