88話 刺し身
「いらっしゃいませー!」
イリスはいつものように向日葵へ向かうと、チサトの元気な笑顔に迎えられた。
ただ、その笑顔はすぐに曇ってしまう。
「すみません。今、すごく混んでいまして……」
「みたいですわね」
ほぼ満席状態だ。
「相席ならすぐご案内できるんですけど、どうします?」
「……ちなみに、待つとどれくらいかかります?」
「えっと……30分くらいでしょうか」
「……仕方ありませんわね。相席でお願いいたしますわ」
人間と相席なんて屈辱的ではあるが、早く美味しいご飯を食べたい。
……なんて、空腹に負けてしまうイリスだった。
「では、こちらにどうぞ」
「あら」
「みゃん?」
案内されたテーブルにいたのは人間ではなかった。
ふわふわの耳。
ぴょこぴょこと動く尻尾。
亜麻色の髪の毛の猫霊族だった。
「失礼しますわ」
「あらあら、どうぞ」
猫霊族の少女は相席を嫌がることなく、笑顔でイリスを迎えた。
一人で食べることに退屈していたのかもしれない。
対するイリスはちょっと緊張していた。
まさか、こんなところで他の最強種と遭遇するなんて。
しかも相当な実力者だ。
優しい笑顔で巧妙に隠されているものの、隠しきれていない覇気を感じる。
100年以上前に他の最強種達を敵に回したイリスからしたら緊張してしまう。
「お嬢さんはこの街の方ですか?」
「あ、いえ。わたくしは旅の途中でここに滞在しているだけですわ」
「そうなんですね」
「えっと……あなたは?」
「私も旅をしているようなものですね。ちょっと娘を探していまして」
「娘!?」
この猫霊族、母親だったのか?
年齢バグっていないか?
思い切り驚いてしまうイリスだった
「えっと、とりあえず注文をしなくては」
さて、今日はなにを食べよう?
メニューを手に取るものの、どれも美味しそうで迷ってしまう。
「ここ、お魚料理も美味しいですよ」
「あら、そうなのです?」
「はい。もうたまらないですね♪」
猫霊族の女性は尻尾をぴょこぴょこと揺らしていた。
猫霊族は尻尾に感情が現れやすいと聞いている。
彼女の様子を見る限り、本当に美味しいのだろう。
「刺し身定食なんてオススメですよ」
「『さすぃみ』? またよくわからない料理ですわね……ですが、せっかくオススメしていただいたので、それにしてみますわ。すみません、『さすぃみ』定食を一つくださいな」
「承りましたー!」
十分ほどでチサトが料理を手に戻ってきた。
「どうぞ。こちら、刺し身定食です」
「こ、これは……」
白米と味噌汁。
それと、サラダと小鉢。
中央に魚の切り身が並べられていた。
ただし、生。
「これ、生ではありませんか……」
「お魚は生でも焼いても、どちらも美味しいですよ?」
「それは、あなたが猫霊族だから……」
「まあまあ。本当に美味しいですから、騙されたと思って食べてみてください」
「はぁ……」
あまり信じられないが、しかし、注文してしまったものを取り替えることはできない。
食べ物は無駄にしたくない。
イリスは諦めて刺し身を食べることにした。
「お刺し身を食べる時は、この醤油につけないとですよ」
「『ショーユー』……また不気味な色をしたソースですわね」
ただ、香りはいい。
ちょっと刺激的ではあるものの、ほどよく食欲を掻き立ててくれる。
イリスはフォークで魚の切り身を突き刺して、『ショーユー』につけた。
それから、ぱくりと口に運ぶ。
「……っ!?」
なんということでしょう。
生の魚なんて生臭いとしか思っていなかったのに、しかし、『さすぃみ』はまったくそんなことはない。
生臭さ、エグミはゼロ。
『ショーユー』でごまかしているということはなくて、魚本来の旨味と香りがしっかりと残っていた。
「それに、これは……」
魚の切り身はぷりぷりだ。
舌の上で踊るよう。
それでいて適度な弾力があって、噛みごたえがある。
噛むと魚の旨味が広がる。
それは肉と比べるとパンチ力は劣るものの、しかし、こちらは上品さがあった。
すっきりとしてて鮮やか。
肉が絡みついてくるような濃厚な旨味だとしたら、魚は、舌の上でそっと溶けて静かに消えるような旨味。
後を引かない美味しさで、とてもさっぱりといただくことができる。
「あぁ、美味しいですわ♪ 生のお魚は臭く味が薄いと思っていましたが、そのようなことはないのですね。こんなにも美味しくいただけるなんて」
「そうですよね、お刺し身はとても美味しいですよね、みゃん♪」
うんうん、と猫霊族の女性が笑顔で頷いた。
「あ、辛いのは大丈夫ですか?」
「ええ、問題ありませんわ」
「なら、そのわさびを少し添えて食べると、また美味しくなりますよ」
「『わっさーび』?」
そういえば、緑色のペーストのようなものが添えられていた。
これはなんなのだろう?
イリスは不思議に思いつつ、言われた通りに刺し身と一緒に食べる。
「……んーーーっ!?」
ピリリっと舌の上に広がる辛味。
ただ、それ以上に辛いのが鼻に突き抜けるかのような辛味だ。
ジーンと鼻の奥が痺れて、ちょっと涙目になってしまう。
「ですが、これは……あぁ、とても美味しいですわ!」
『わっさーび』の辛味は、刺し身の旨味と甘味を引き立ててくれていた。
一緒に食べることで、さらに奥深い味わいを得ることができる。
そしてなによりも、この香り。
辛い。
辛いけれど、それだけではない。
ふわっと広がる刺激的、かつ香ばしい匂いが鼻の奥に抜けていく。
しかし、そこまで強く主張することはない。
自分はあくまでも脇役。
刺し身の味を引き立てることが目的。
そう言うかのように、刺激的ではあるものの控えめな味だった。
「これは素敵ですわね!」
「ですよね!」
キラキラ笑顔のイリス。
そして、理解してくれたことを嬉しく思う猫霊族の女性。
二人は笑顔でがしっと握手をするのだった。




