86話 ハンバーグ
「今日はお肉の気分ですわ」
食堂、向日葵に向かう途中、ふとイリスはそんなことを呟いた。
あまりに突然呟くものだから、近くを歩く人が何事? という感じで振り返る。
そんな視線を気にすることはない。
なぜなら、イリスの頭の中はどんな肉を食べるか? ということで埋め尽くされているのだから。
「いらっしゃいませー! どうぞ、こちらへ」
チサトの元気のいい挨拶に迎えられて、カウンター席へ。
この時間に来るだろうと、イリスのために用意されていたみたいだ。
事実、イリスは昼をちょっと過ぎた時間に向日葵にやってきていた。
毎日。
「さて、なにがいいでしょうか?」
まだ『とぉんかぁつ』を食べてもいいかもしれない。
あれは絶品だ。
しかし、胃は別のものを求めている。
既知のもので妥協するのではなくて、未知のものに挑戦したい。
「ふむ……では。すみません」
「はい、お決まりでしょうか?」
「この『はぁんばぁーぐ』というものをお願いいたしますわ」
「承りました! 少々お待ちください」
『はぁんばぁーぐ』。
どことなく『とぉんかぁつ』に似ている響きの料理だ。
さぞかしい美味しいものが出てくるに違いない。
「ふんふーん♪」
ついには鼻歌まで歌い出して、イリスは料理の到着を待つ。
そして、十分ほどして……
「おまたせしました、ハンバーグです」
チサトがやってきて料理が提供された。
いつものイリスなら瞳をキラキラと輝かせるけど、今は違う。
「……なんですの、これ?」
『はぁんばぁーぐ』は肉料理のカテゴリーにあったので、美味しい肉料理を期待していた。
どどーん、というようなステーキを想像していた。
でも、これはなんだろう?
ひき肉を丸めて焼いただけのもの。
そんなものが肉料理と言えるだろうか?
否。
断じて認められない。
肉はそのまま出すからこそ美味しいのだ。
ひき肉にしてしまうと、潰れたところから旨味が逃げてしまう。
それなのに……
「やはり、人間は愚かですわ」
たかが食べ物。
なのに、イリスはそれだけで人間をやっぱり滅ぼそう、と決意していた。
「とはいえ……食べ物を粗末にするわけにはいきませんわね。仕方ありません、これを食べましょう」
イリスはため息をこぼしつつ、『はぁんばぁーぐ』にナイフを入れた。
すると、どうだろう。
滝のように肉汁がじゅわっとあふれてくるではないか。
「あら♪」
これはもしかしたら期待できるかも、とイリスが笑顔になる。
実にちょろい。
「こ、これは……!?」
一口食べると、イリスは驚愕の表情を作る。
ただひき肉をまとめて焼いただけのもの。
そんな印象を持っていたけど、まったく違う。
そんなものでは作り出せないような、複雑で濃厚な味だ。
肉は潰されているが、しかし、旨味は逃げていない。
しっかりと丸めて形にすることで、ぎゅっと凝縮されているのだ。
その成果がこの肉汁だ。
旨味成分たっぷりの肉汁を搦めて食べることで、さらに味が倍増している。
「これは……玉ねぎでしょうか? ほのかな甘味があり、食感も楽しいですわね♪」
イリスは満面の笑みで食べ進める。
もう手が止まらない。
「ソースも素敵ですわ♪」
『はぁんばぁーぐ』を覆い尽くすかのように、たっぷりとかけられているソースも魅力的だ。
濃厚なデミグラスソース。
味は濃い。
しかし、だからこそ肉汁たっぷりの肉に負けていない。
ソースは対等な位置にあり、しっかりと肉の旨味を引き出していた。
これが中途半端な濃さのソースだと、アンバランスになってしまい、全体的な味がバラバラになってしまうだろう。
「肉汁と絡めると最高ですわ♪」
そう。
あふれた肉汁とデミグラスソースを絡めると、一段上に進化する。
肉汁と混ぜることでソースはさらに濃厚になる。
しかし、それがたまらないのだ。
口の中が幸せでいっぱいになる。
「ふふ、そして……」
イリスは『はぁんばぁーぐ』の上に乗せられている目玉焼きにナイフを入れた。
とろりと黄身が溢れ出して、肉に絡まる。
さらにソースをつけて口に運ぶと……
「ふぁ♪」
幸せという他にない。
肉汁と絡んだデミグラスソース。
それをつけた肉は、これ以上ないほどに濃厚だ。
それはそれで美味しいのだけど……
黄身を絡めると、さらに別のものに進化する。
今まで濃い味が目立っていたけど、それを黄身が包み込んでくれて、マイルドな口触りに変化させてくれる。
噛むと肉汁が口の中に広がり。
それをソースと黄身が覆ってくれる。
「幸せですわ♪」
イリスはとても美味しそうに『はぁんばぁーぐ』を食べて……
そして、それを見た他の客がこぞって『はぁんばぁーぐ』を注文したという。