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雛の恋  作者: 霜月璃音
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冬雨の章

 あの恐ろしい秋の晩からは何事もなく日々が過ぎ、本日、私たちは無事に姫様の入内の日を迎えました。姫様は梨壺に一室を賜ることになりまして、梨壺の女御様になられました。そして、なんと帝御自ら姫様を迎え入れて下さったのです。何でも、姫様の噂をあちこちからお聞きになっていらして、入内の日を心待ちにされていたということでございます。

「女御は大変美しい手をしていらっしゃる」

 帝はそうおっしゃって姫様の手をお取りになり、優しく包み込まれました。白くふっくらとした指の先にある薄桃色の部分が、今日はやけに虚しく見えます。はて、なぜでしょうか。冬の澄んだ星空を二つ切り取ったかのような美しい黒眼も、ただそこにぽっかりと闇があるだけでございました。しかし帝はそんな姫様のご様子に気付かれることもなく続けられます。

「あなたがいらっしゃる日を指折り数えて待ち望んでおりました。私たちはこれから、比翼の鳥、連理の枝となって、ともに生きてまいりましょう」

「……はい……」

 私はこの時、姫様は別の誰かの言葉、おそらくは、あの夜の高遠様の御言葉にお答えになったのではないかと思いました。姫様が御口の中で小さく、高遠様の御名前をお呼びした気がしたのでございます。気のせいであって欲しい、と思いました。女御となられた姫様の御口から帝以外の御名前が漏れるなど、決してあってはならないことでございます。私はそっと、姫様のお顔を拝しました。

 この国で最も美しい花、桜と同じ色をした唇は、ふっくらと柔らかく笑みを浮かべていて、姫様は、大層優しく微笑んでおられました。

 しかし、やはりその瞳の奥には、悲しみという名の闇が渦巻いていたのでございます。


 姫様が入内されてから、一月が経ちました。帝のご寵愛も大変深いようでして、私たちは大変安堵いたしました。帝の御隣で微笑まれる姫様も幸福そうで、御二人の御姿を拝する歓びはひとしおでございました。

 しかし、私たちは一つ、姫様に隠し事をいたしておりました。

 菅原高遠様が、うみに身を捨てて亡くなられたというのです。今は御幸せなご様子でいらっしゃる姫様に、できるかぎり心痛などというものからは遠ざかっていただきたいと私たちは考えました。そして、このことは姫様にはお聞かせしないと決めたのです。

 しかし、宮中にもやはり口さがない方がいらっしゃるようです。どなたかがそのお話を公達からお聞きして来て、なんと、姫様の御耳に入れてしまったのでございます。

「……高遠様が亡くなられた、とお聞きしたのですが……」

 ある日姫様は、何気ないご様子で私にそう問われました。ぴゅうぴゅうと木枯らしが吹く、寒い冬の昼のことでございます。私は、何とお答えしようか迷いました。嘘をつくということは、姫様に御仕えする侍女として禁忌でございます。しかし、あの事実をそのままお伝えした時の姫様のご心痛を思いますと、とても私には真実をお伝えすることはできそうにありません。

「亡くなられたの、ですね……」

 私の沈黙は事実をお伝えすべきか否か迷っているのだということを姫様は感じ取られて、そう、呟かれました。そうなりますと、私にはもはや、真実をお伝えするという選択肢しか残されておりませんでした。

「はい……先月の三日に、亡くなられたそうでございます……」

 私の言葉をお聞きになって、姫様は軽く目を見張られました。そうです、先月の三日というのは、姫様が入内された日だったのです。

 白く優しい指先が、木枯らしによる冷えのせいか、小刻みに震え始めました。次第に震えは大きくなり、今度は姫様の肩が震え始めました。そして。

 冷たい雨が、降り始めました。ぽつり、ぽつりと廂を打ち、屋根を打ち、障子を打ちます。私は、慌てて雨戸を下ろしました。そして、姫様の御膝にも、温かい滴がぽつり、ぽつりとこぼれておりました。そうです、姫様もまた、涙を流しておられたのです。

「そう、ですか……」

 後にも先にも、私が姫様の涙を見たのは、この時だけでございました。高遠様を失われたことで、姫様もまた、心に深い傷を負われたのでございます。姫様を失ったことによって、高遠様が傷を負われたのと同じように……。姫様も、それだけ深く高遠様のことを想っていらしたのです。

 しかし、人よりも優しい御心をお持ちになっていらっしゃる姫様は、ここぞというところで我儘をおっしゃれなかったのでございます。姫様の入内を心待ちにしていた私たちや、姫様の御父君、御母君のことを考えて、高遠様にあのような御返事をされたのでございます。姫様は、本当にお人形のように入内されたのでございます。

 そしてまた、人として愛された方を失われた痛みが、お人形であった姫様を、人に戻してしまったのでございます……。

 そとの雨はいつまでも降りやまず、いつまでも姫様の御心の寄り添うかのように、冷たく振り続けております。その雨音に紛れて、ふと懐かしい笛の音を聞いたような心地がいたしました……。


 こうして雛人形は、人としての愛も、悲しみも、全てを押し隠して、今も柔らかく微笑んでいるのでございます……。昔、一人の姫がおりました……。

「雛の恋」はこのお話を持ちまして完結です。

まだ季節外れではないと信じたいと思います……。

短い連載でしたが、お付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました。

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