8 0時間(後編)
ずっと黙っていたカトリーヌ様が叫び、会場内にこだまする。
「お義兄様と幸せになんて、そんなのキモいですわ! 身体は大丈夫だと言っていますのに過保護ですし、お義兄様が勝手に私に貢いでいるだけですもの。それに私、好きな方がおりますのよー!!」
彼女の口から、衝撃的な言葉が放たれた。
(……え? カトリーヌ様……)
彼女の本性に唖然とする。儚げ美少女の皮を被った悪魔だったとは。
「……カ、カト……リーヌ……」
アルベール様が顔面蒼白になり、その場にへなへなと崩れ落ちていく。今にも屍になりそうだった。
(あー、これはちょっと、同情しますわね……)
私が二人の様子を見つめていると、手を優しく掴まれた。
「……俺たちは行こうか」
殿下は私の耳元で囁くと、手を引っ張っていく。私は殿下に引かれるまま、騒然とする会場を後にした。
外灯が灯る学園のロータリーから、馬車に乗り込む。
夜風に冷えて腕を擦っていると、ふわりと肩にショールを掛けられた。
「寒い? これをどうぞ」
「あ……、ありがとうございま――!?」
顔を上げると、殿下が思いの外近くに座っていて、心臓が飛び跳ねる。
「ん? どうしたのかな?」
「え……、あの、と、隣にお座りになられるんですか?」
「そうだよ? 俺と君の仲なんだし、いいよね?」
「私たちの仲と言われましても……、何も……」
今まで、殿下は親しげに話しかけてはくるが、一定の距離は保っていたはずだ。
「……俺が、君に近づくのは嫌かい?」
殿下は眉を下げ、私の顔を覗き込んだ。
「え? いえ、決してそのようなことは……っ」
そう言いかけて、私は言葉を呑み込む。
(どうしてかしら……? 全然、嫌だとは思わないですわ……)
「ローゼ嬢?」
深い空色の瞳と合うと、あまりの美しさに吸い込まれそうになる。慌てて顔を伏せた。
(こんなに近くなんて、き、緊張……して、変な汗が出てきてしまいますわ……っ)
「ローゼ嬢、どうしたの? こっち向いて?」
やけに色っぽい声で囁かれるが、私は俯いたまま、ぶんぶんと首を振った。恥ずかしくて顔を上げられない。
「――ふっ、まぁ、いいや。ところで、この書類だけど、確認してくれるかな? クラヴィス侯爵には、君の留学についても許可をもらったよ」
バサッと書類の束を渡される。話題が変わってほっとしつつ書類を確認すると、それは先日に殿下のサロンでサインしたものだった。
しっかりと父の署名もされている。
婚約破棄の合意書や、留学申請書、それに他の書類まで。私の知らないうちに、父からの承諾を取り付けてくださったようだ。
「あの……、どうしてここまで、してくださるんですか?」
たしかに、殿下にはアルベール様の愚痴を聞いてもらったりして、心配をかけたのかもしれない。けれど、そこまでしてくださる義理はないはずなのに。
「そんなの、君が好きだからに決まっているだろう?」
思いもよらない返事がきて、私の思考が止まってしまう。
(今……、好きって聞こえた……? まさか、そんな……)
顔を上げると、真剣な瞳が私をとらえて離さない。
自分の鼓動の音が聞こえるくらいに、高鳴り始める。
「半年前だったかな。君が眉間にシワを寄せて、涙を堪えている姿に目が離せなくなって。気づいたら、君のことばかり考えていたよ。……俺の前では我慢しなくていい。つらい時は泣いてもいいんだよ。まぁ、眉間にシワの君も、そそるんだけどね」
「そそ……っ!? で、殿下……っ!」
いつものように冗談まじりだったが、優しい表情で見つめられ、涙腺が緩んでしまう。
(……ずっと我慢してきたの。もう涙を流してもいいの……?)
「……ありがとう……ございます……」
瞳から零れる涙を指で拭い、照れ臭くなって顔を伏せる。
その時、ふと持っていた書類に目が留まる。
シルフェード文字で書かれていて、よく理解できないままサインしてしまった書類だ。
殿下や父の署名もされているが、よく見てみると……。
「ん? この文字って、たしか……結婚とか、そう言う意味だったような……?」
私はまじまじと書類の文字を眺める。
「あぁ、これはシルフェード王国の婚姻の契約書だね」
「あ、そうなんですね! これが婚姻で、こちらの文字が契約書ってことなんですわね! ……ん? 誰と誰が婚姻を?」
「そんなの、俺と君に決まっているだろう?」
殿下は満面の笑みを浮かべる。そして、そっと私の耳元へ唇を近づけた。
「ふっ、契約書はちゃんと確認してサインしなくちゃダメだよ? じゃないと、俺みたいな悪いやつに捕まっちゃうからね。分かったかな、ローゼ?」
「……!? な、な、なん……っ!?」
私はあまりの衝撃に口をパクパクさせるだけで、言葉が出てこない。
「俺は、狙った獲物は逃さない質なんでね」
そう囁いた彼は、最高に“悪い”顔をしていたのだった。
詐欺師……、いや、策士王子に搦め捕られるまで、0時間――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
詐欺にはご注意を!
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