香水
姫ちゃんともっと距離を縮めたくて休日の遊びに誘うのだが、六海皐月の壁が立ちはだかる。学校だとあまり関わり合っていないように見える二人だけれど、休日はかなりの頻度で出掛けているようだった。まあそうだよなと思う。六海は休み時間などにも全然姫ちゃんのところへ来ないし、本当に付き合っているのかよ?という感じだったけど、休日にベッタリであれば納得だった。ベッタリ。自分で言っていて凹む言葉だった。土曜日も日曜日もいっしょにいて、そんなにたくさんの時間を何で消費するんだろうか? 凹む。とにかく凹む。
だけど、一方で、姫ちゃんは男女が異性を襲いたくなる気持ちを今ひとつわかっていないふうだった。それはつまり、そういった経験を一切していないからじゃないんだろうか。俺の勝手な想像で、たぶんなんだけど、トランスしている姫ちゃんにそういう気持ちがあったら、彼氏がいようがいまいが俺に手を出してくるような気がする。いや、うぬぼれとかではなく、姫ちゃんは毎度そう思わせるぐらいの表情をしているのだ。可愛らしい姫ちゃんにこういう表現をするのも気が引けるけれど、普通にエロい。
で、姫ちゃんを何度誘っても芳しい返事はしてもらえず、まああの姫ちゃんがそこまで『NO』を出してくるんだからもう本当に無理なんだろうとあきらめていると、有木から誘われる。土曜日の朝にメッセージでいきなり『遊ばない?』と言われ、暇だったのでまあいいかと出掛けていくと、いきなり香水ショップに連れていかれる。鷹座駅の隣に『VVVIROW』というファッションビルが建っているんだけど、その中に香水だけを扱う高尚そうなお店がある。『オロバ』という。
俺は笑ってしまう。「嫌味か。会っていきなり香水屋に連れてくるなんて、失礼な」
「そんな臭いままで女の子に会おうとする方が失礼じゃない?」と有木は相変わらずバシッと言う。「それともあたしなんて女じゃないっていう嫌味?」
「俺の体臭はこれ以上どうにもならないの」と主張しておく。「有木の友達も『臭くないよ』って言ってくれてたじゃん?」
「あたしが臭いって言うんだから臭いでしょ」と有木は女王だ。「香水つけなよ。そしたら丹羽だって少しはモテるんじゃない?」
「いや……」
余計な香りを足すと姫ちゃんに嫌がられてしまうから香水なんて死んでも使いたくない。
しかし有木は「ほら、行くよ」と先んじて店の中へ入っていく。もともと俺と距離を取って歩いているため、気ままに動かれると止める間もない。
香水ショップなんて初めて。しかし臭い。多種多様なフレグランスが店内を漂い、混ざり合っていて、俺にとってはこれこそが地獄の交響曲だ。鼻孔が拡張され、頭が割れそうだ。
有木が店の中ほどにいて「どんな香りが好き?」と訊いてくる。
楽しそうにしているので、まあ付き合う。「さりげない香りの方がいいんじゃない? どぎついのは苦手だよ」
「ウッディ……木の香りみたいなのがあるよ」有木がチョイチョイと手招きしてくる。「これは?」
「……隣、行っても大丈夫?」
「匂いだらけだし、ここなら大丈夫じゃない? 臭かったらこっちで距離調整するし。あんたは気にせず行動しな」
「調整されるのも傷つくな」
「傷つくんだ?」
「いや、嘘だけど」今さら傷はつかないかな。俺は有木の隣へ行く。「どれどれ……?」
有木はチラリと俺を横目で窺うが距離は取らず、その場にとどまる。「……木の匂い。どう?」
サンプルを嗅ぐが「臭くない?」としか言えない。「こんな匂いを発する人間いないでしょ」
「そりゃいないでしょ。もともとこんな匂いの人間はいないよ。香水ってそういうもんでしょ? ありえない匂いを纏うための道具なんだから」
「……まあ、そうか」
「まああんたの体臭もありえないけどね。それこそ、あんたみたいな匂いを放つ人間いないよ。かといってあんたを香水にしても売れなさそうだけど」
「どうだかな」一人だけ、買い占めてくれそうな子がいるんだけど。
有木も俺の言葉を覚えていて、「あんたのことをいい匂いだって言う人もいるんだっけ?」と訊いてくる。「そいつは鼻の穴がそのまま穴として脳味噌を貫いてるんじゃない? 絶対キモい顔してそう。普段からヨダレ垂らしてそう」
「ははは」姫ちゃんに有木のことは紹介できないが、有木にも姫ちゃんは紹介できない。争いが起こりそうだ。「……なあ、木の匂いはイマイチじゃない? 有木はどんな香りがオススメなの?」
「こういうのは?」とすぐに提案してくる辺り、有木は香水に詳しいのかもしれない。普段から使っているんだろうか? でも俺は有木にあまり近づけないので有木の匂いに関してはなんともわからない。
有木が提案してきたのは、サンプルを嗅いでみるに、爽やかな甘めの香り。甘ったるいわけではなく、清涼感の中に滲むようにして甘みが含まれている。「ヤンキーが付けてそう」
「あはは。偏見。今日からヤンキーだね、丹羽」
「いや、買わないけど」
「付けてみて」有木がサンプルの噴射口を俺に向けてくる。
「え、嫌」
「付けろよ。今日はあんたの香水を買いに来たんだから」
「いや、買うっつって、けっこう高いし。いらないし」
「買ってあげるから」
「いや、いらないし。じゃあ現金くれ」
「バカ」と有木は笑う。「あんたが正常な匂いになれば、距離開けなくても話せるじゃん」
「え」なに?それ。「優しい」
「からかうなっつの。とにかくこれ試して」
「えー……どこに付けるの?」
「首とかじゃない?」
「えー……」
「えーじゃないよ。付けるよ。首出して」
俺は仕方なく少しだけ屈み、じっとする。「少しにしてよ」
「はいはい」
で、爽やか甘みーのサンプルをスプレーされる。「ひゃっ」
「ひゃじゃないよ」有木はサンプルを置き場に戻し、「どう?」
「わからない。もう鼻が麻痺しててどうもこうもないよ」
「ちょっと嗅いでみていい?」
「うん。大丈夫……?」
「たっぷりかけたし、いけるでしょ」
「少しにしろって言ってるのに……」
「少しだとあんたの匂いに香水が負ける」有木は緊張した面持ちで俺の首筋に顔を近づける。「じっとしてて」
「……うん」
鼻先を俺の首筋に寄せ、そんなに接近しなくても大丈夫だろうに、そこで鼻をスンスンさせ、有木は「ぎゃっ」と叫ぶ。
「ぎゃっ!?」そんな叫び声リアルで初めて聞いたけど?
「おげぇぇ」と呻きながら有木は店内に片膝をつく。短いスカートを穿いているので、もう少し角度を合わせればパンツが見えそうだったけれど、有木があまりにも苦しんでいるので残念ながらそんなことやっていられない。「くっさ! マジで! マジで殺していい?丹羽。マジムカつくんだけど!」
「いや、そんな俺に殺意持たれても……」
「香水の成分が一瞬で分解されて、腐敗させられて、それをあんたのもともとの悪臭が包み込むことで、ゴミ山の一番底の匂いに変質してるんだけど!?」
「え、なに? 香水の匂いがしないってこと?」
「しない。面影もない。ゴミの匂いしかしない」
「マジか」
「余計に臭いまである」
「まあ香水って臭いしな」
「いやあんたが臭いのが原因だから」
「つまり俺に香水は効かないってことか」
有木がよろよろと立ち上がる。「他のも試してみようよ。もっときついやつ」
「えー……さっきのやつだってだいぶスプレーしたんじゃない? なんか首がドロドロするんだけど」
「次はもっとびちゃびちゃになるまでかける」
「絶対使い方違う」
けっきょく、びちゃびちゃに付けてみても臭いし、別の箇所にほんのり付けてみても臭いし、何をしても臭く、有木は半泣きで店を出る。俺もわけのわからない匂いを辺りに撒き散らしながら有木のあとに続く。
有木が結論を出す。「呪われた悪臭を刻み込まれてお母さんのお腹から出てきた奴はどうしようもないわ」
「言っても、そこまで臭がるのは有木だけだからな」
「あたしが臭がるんだったらそれで充分じゃない?」
「まあ、有木にとったらな」
「なんかすごいね」と有木は降参といったふうに手を広げる。「あらゆるいい香りを全部ダメにして、ダメにするどころか味方にしてより臭さを増すなんて」
「それも有木だけの感想だからな」
「一番腹立つのが、今度こそ行けるかな?と思って近くで嗅ぐと、待ち構えてたかのようにマジで臭ぇの。バカにしすぎじゃない?人のこと」
「今度こそ行けると思うのがおかしいでしょ」まあ俺の平常時の体臭ですら耐えきれないほどなのに、それを香水だけでどうにかしようってのが間違いなのだ。「でも……なんかありがとう。匂いのこと、わざわざ考えてくれて。今日はこのために俺を呼んだんだな」
「いや」と有木は素直じゃない。「臭かったら不快じゃん? あたしは不快な思いをしたくないから」
「別に俺と話さなきゃいいだけだし」
「…………」蹴ってくる。スカートの中身が見えないかなとまた思うが、ローキックだったので全然見えない。「……色塗りんとき嫌でもいるじゃん。あんた」
「離れて作業すればいい」
俺が言うと、有木はもう蹴りを繰り出してこず、くるりと背中を向けて行ってしまう。「バカ」
「嘘嘘」俺は有木を小走りで追いかける。なんとか普通にいっしょにいられないかを思案していたのだ、有木は、友達として。香水作戦は完全に失敗に終わったけれど。でも、それでもありがたいことだった。俺と有木は学校祭が終わってもそのまま友達としていられるんだろうか? 「なあ、昼ごはん食べる?」
「あんたと食べたらメシが不味くなる」と有木は言って、たぶん有木の俺に対する嗅覚からするとそれは嘘偽りのない本音だと思うんだけど、しかし有木はちゃんと俺とランチしてくれる。ハンバーガー。小さなテーブルに向かい合うその距離が、有木が安全に食事できる際どい範囲であるらしかった。