ペンギンが鳴いたら
手から滑り落ちたグラスの音が耳に入るより前に、北極に残されたペンギンが一羽鳴いた。
「やあ、」おどけたように美衣が片手を挙げた。「スポンジ、泡が落ちるよ」
僕の右手には泡まみれのスポンジ。ぽとり、とスポンジから落ちた白さは、真っ白な空間に混じって消えた。
「何だかね、不思議だけど、会える気がしてた。ここで、ユウと、こうやって」
僕も、そうなればいいな、と思っていたところだった。
「どう、一人暮らしは? うまくやれてる? 困ったことはない?」ああ、と僕は溜息をつくようにして答える。「そう、良かった」彼女は笑った。
白いテーブルとイス二脚。この空間に備え付けられている三つの物の内の一つに、美衣が腰かけたのを眺めてから、僕はスポンジを放り、もう一つに座った。泡だらけの手はズボンで拭いた。
「アイスコーヒーのミルク入り、ガムシロ抜き」美衣が小学校時代の校歌を諳んじるような調子で唱えた。「私にはストレートのアイスティー」
僕たちが挟むテーブルの上に二つのグラスが現れる。濁った茶色と透き通った茶色と。
ストローの端を噛む美衣を僕は見つめる。その左手の薬指に光る透き通った色に眩しさを感じながら。
無言が響く。沈黙の鐘。
それを壊したのは、飲み干されたアイスティーのグラスの氷が、擦れあって鳴らした悲しい音。そのあとに続いた、テーブルの上に、コツンとそれが置かれる音。
「ペンギンを見に行こうとしたんだ」美衣が言った。「北極に、ね」
手つかずのアイスコーヒーの上には、溶けた氷が薄い水の膜を作った。
「北極にペンギンはいないよ」
「それ、小学生の頃、ユウに教えたのは私だよ」くすす、と美衣は懐かしさを含ませた笑い声をあげた。「人間が昔、北極にいたペンギンを全部食べちゃったんだもんね」
全部食べちゃうくらいに、そんなにそんな、ペンギンって美味しいのかな? と言った小学生の美衣の顔を僕は思い出した。
「知ってるんだよ、本当は、北極にペンギンがいないこと。けどね、だからこそ、ね。私は北極のペンギンを見たかったんだよ」
「どういう意味?」
僕の言葉に、美衣は曖昧に微笑んだ。
飲まないなら、私、もらっちゃうよ。美衣はそう言って僕の前に会ったミルク入りのアイスコーヒーを一息に飲んだ。彼女が甘くないコーヒーを飲む姿を僕は初めて見た。
「苦い」彼女は言った。「でも、ユウの好きなのはこれなんだもんね」
ああ、そうだよ。
「ねえ、覚えてる?」何を、と返事。「初めてさ、動物園にペンギンを見に行った時のこと」
忘れるわけないさ。
東京に出て来て、初めての夏。突然に美衣が、上野に行こうと言い出した、あの時の、彼女の髪の匂いまでも、僕はしっかりと記憶している。
アメ横を通って、黒人店員に声を掛けられ、地元では入ったことのないような純喫茶に入ってかき氷を食べてから、上野の動物園に行った。ガラスの向こうに寝転ぶパンダ。飼育員と戯れるゾウ。暑さにやられたヒグマとゴリラ。水で遊ぶホッキョクグマ。それらの先にペンギンたちはいた。半径一メートルほどの円いプール、真ん中に浮島、たくさんのペンギン。
夏の日差しに、たらたらと汗を流しながら、僕たちはその前に立った。フェンス越しに初めてペンギンを見つめる。ノッポさんの被るような帽子のつくる影の向こう側に、僕は、美衣の真剣な瞳を見つけた。
鳴かないね、彼女の声がヒリヒリとアスファルトを焼く太陽の暑さの中に溶けた。
十数匹にも及ぶペンギンたちは、プールにも入らず、白く塗られた浮島の上で、死んだようにして動かない。鳴きもしない。時折、首だけをきょろきょろと動かす。
僕たちはそれを、ただ、眺めた。
「あの時、私ね、言ったでしょう。ここのペンギンを一羽、連れて帰っちゃおっか、って。そして二人で、北極に行って、攫ってきたペンギンをそこで放して、じゃあね、って言いながらそっと帰っちゃおっか、って」
「……うん、」
「だけどね、もちろんペンギンを攫ってくことなんか、出来なかったから、残念だね、って笑いながら、それでも、だけど、私は北極でペンギンの鳴き声を聞きたい、って思って、ずっと、ずっとね、そう思ってたんだよ」
僕たちは、フェンスの向こうのペンギンの鳴き声を聞かないで、動物園を後にした。帰りに二千円のペンギンのぬいぐるみを買って。
「代わりにね、そう、ペンギンを攫ってくる代わりにだよ。あの日、ユウが買ってくれたペンギンのぬいぐるみを、私は北極旅行に持ってきたんだ。出来ることなら、これを、北極に置いて、じゃあね、って言いながら日本に帰ろうって、そう思ってたんだ」
もう、六年も前のことだ。今日まで思い出すことのなかった、美衣にぬいぐるみを手渡した時の、ぽとり、と落ちた汗を雫の一滴をも僕は今、目の前に見ている。
白い空間の中、もうグラスの中の氷は殆ど溶けていた。
「私ね、ユウと行った場所は、どこでも『私のお気に入り』にできたんだよ。上野もそう、人ごみばっかの池袋も、人口の半分はサラリーマンなんじゃないかってぐらいの新橋も、近未来チックなお台場も、古い紙のにおいのする神保町も、お酒くさい新宿も、ユウと一緒に行った場所は、どこも、……うん、楽しかった。大好きだった……」
コーヒーを、と僕は言った。出てきたアイスコーヒーはわざわざ言わずともミルクの入った茶色だった。
彼女には紅茶を。言って出てきたのはティーポットに入った温かなミルクティーだった。
あはは、彼女が声を出して笑った。
僕は笑えなかった。
美衣は笑顔で温かなお茶を啜った。うん美味しい、と言ってまた笑った。
「私ね、思えば、初めて一人で遠くへ出かけたんだ。しかも、今までで一番遠くに、一人で、ね」
罰が当たったのかな、と呟いた彼女の左手の薬指に光る、僕の知らない指輪。
僕は言った、
「やっぱり、その……、寒いのか?」
「寒いという言葉に冷たいって言葉を足したくらい? うん、すっごく、ね」
聞いたことのない彼女の声の色を、僕は感じて目を瞑った。
「電気も消えたんだ。暖房も止まってね、暗い中に、さっき水も入って来た、音も消えるの、闇の中に吸い取られるみたいにして、空気も段々と無くなっていって息も苦しいの、うん、怖かった」美衣は、とん、と言った。「だけどね、もう、良いんだ」
良くないよ。
そんなこと言う権利を僕は持ってない。
「死ぬときは誰だって一人じゃない?」あちち、と彼女は舌を出した。「で、生まれてくるときだって一人でしょう」ちょっと頂戴、美衣が僕のストローを奪った。「じゃあ、私たちって、きっと、ずっと最初から最期まで、どうせ、どうせのどうせ独りなんだろうね」
口直し、言いたくないことを言った後の、口直し。
だから、
「ちょっと……、泣かないで、よ」
美衣の言葉で、僕は自分の涙に気が付いた。涙を涙と認識した途端、それは量を増し、目を瞑った位では止まってはくれなかった。瞼の裏が熱くなった。頬がむず痒くなった。鼻がツンとした。喉の奥から変な声が勝手に漏れ出した。
「ユウが泣いてるとこ、久しぶりに、見た」
いつ以来かな。と、やけに近いところで声がした。
覚えてるくせに、その声が震えた。
「泣かないでよ」ねえ、「お願いだよ。泣かないで」ねえ、「卑怯だよ。ユウの方が泣くなんて」
卑怯の反対は真面目だよ。そして僕は真面目だ。
彼女の揺れた息が、僕の鼻先をくすぐった。彼女の持っている、さっきまで僕の物だったストローは、もう、見事に、ぺったんこ。
「先にいなくなるのは私の方なんだから」
生まれていちばん初めに僕たちは泣く。
世界の端まで声を届けるかのように、僕たちはただ大声で泣くんだ。
母親の股を引き裂いて、血を流させ、感じたことのない身体を刺す様々な刺激と、興味深そうに覗いてくるいくつかの瞳と、嗅いだことのないにおいを嗅ぎながら、ここにいるぞ、と高く声をあげる。
母親の愛を受ける、その瞬間も僕たちは泣いていただろう。愛されるために涙を流す。
生きるということは、泣く、ことなんだ。
生まれていちばん初めに、
泣いた。
「歌をうたおう」
「何、突然?」
「嫌か?」
「ううん、嫌じゃない」
僕は言ってから、そういえば美衣と声を合わせて何かを歌ったことがないということに気が付いた。不思議だ。十年以上一緒にいて、彼女とたくさんのことをしてきて、今更やったことのないことを見つけるなんて。結局僕たちは小学校の合唱の授業で歌ったいくつかの曲を思い出し思い出し歌った。
実際に歌いだしてみれば、子供の頃歌ったものというのは自然と口に出てくるものだ。あの頃に戻った、なんてつまらない比喩ではないけれど、彼女は昔の笑顔のままで大きく口を開けていた。
「『時には何故か大空に旅してみたくなる』、なあんて、そんなことは、今まで一度だってなかったけれど、私は今、北極にいるんだ」
「うん、」
「キュッキュキュのキュだよ。ユウ。だから、泣かないでね」
「……、」
「きっと、これから海の底に沈んでいくよ。きれいな海だよ。透明な、透き通った。私はそこに沈んでいく。貴方のくれたペンギンのぬいぐるみと一緒に、ね」
「ああ、」
「いつか、いつかさ、またこの、『二人の時間』の音を聞いたら、だから、北極海の底に一羽いる、ペンギンのことを思い出してね」
「そのペンギンは一羽っきりじゃないだろ」
美衣は少し考えた振りをした。
「うん、そうだね、私とで、うん、二人ぼっちだ」
僕は、彼女の笑顔が、好きだ。本当に。
「覚えてる?」
「何を?」
「あのリンゴジュース。見つけたんだ。やっと」
「見つけたって?」
「スーパーで」
言った瞬間、僕たちは腹を抱えて笑った。
特別だと思っていたものは意外と近くに転がっていたりする。逆も、また、同じで、いずれにせよ手に取らなければ、それの重さを知ることはない。
「じゃあ、飲もうか」
「うん、飲もう」
僕たちは笑い合った。そして、大きい声で「リンゴジュース」と声を合わせて宙に叫んだ。すると、不思議なことにテーブルの上に足つきのグラスに入ったジュースが二つ、ストローも刺さって、出てくるのだ。『二人の時間』では、まず、出てきた飲み物を一気に飲み干す。それが、僕たちの決めた、たった一つのここでのルールだった。
「美味しい」
「うん、美味しい」
彼女の好きなものは、全部が全部、僕の好きなもの。
僕の好きなものはただ一つ、ストローをすぐぺったんこにしちゃう、そんな彼女の、彼女のすべて。
「なあ、美衣」
「ん?」
「いや、呼んでみたかったんだ。ただ君を」
すると、美衣は、僕に向かって言った。
「ばぁか」
「じゃあね、ユウ。バイバイ。アスタ・ラ・ビスタ。楽しかったよ。今まで。ありがと。もしも、また、ここであったら、美味しい、美味しいリンゴジュースを、一緒に、二人で、飲もうね」
音が鳴った。
ハッ、と音の方に目を向けると、綺麗に砕けたグラスが散らばっている。シンクには水が溜まっている。泡まみれの手、それとスポンジ。
時計の針は止まらず回り続けている。
つけっぱなしのテレビ。そこに映る、遠い海の向こう側で起きた小さな事故のニュース。僕は、黙ってテレビを消した。
家を出ると、空はやけに青かった。澄み切った向こう側には白い光が。手を伸ばしても届かないと信じて疑ってこなかったそれを、しかし、僕は何だか無性に手に取りたくなった。僕はまだ洗剤のにおいのする自分の右手を持ち上げた。
この手がもし故郷を想い一羽鳴く北極のペンギンに届くのだとしたら。
そんなことを想いながら、僕は、いつまでも、高い空の向こう側を眺めた。